秋葉原

第2話:『秋葉原ハウスシッター』14

 月が翳り、辺りを闇が満たしてゆく。

 鉄骨の林の中、限られた空間を無数の線が貫き埋め尽くす。今やそこは、『蛭』の五指両手が織り成す蜘蛛の巣と化していた。その指はどれほど長く、迅く伸びるというのか。変幻自在に放たれ捻じ曲がる無数の槍衾の渦を、直樹はコートをなびかせながらひたすらに避ける。

「なかなか素早い。しかし、所詮人間の動きでは避け切れませんよ」

 『蛭』が言うや、さらにその攻撃の速度は上昇。もはや刺突ではなく銃弾に匹敵する速度で打ち出される攻撃を、それでも直樹はかわし続ける。

 真凛と異なり、奴には弾道を見切るなどと行った超人的な芸当は不可能だ。それでも奴が避けきれているのは奴自身の戦闘能力と、それなりに培った戦闘経験によるところが大きい。だが、それにも限度がある。

「……ちぃっ!」

 肩口を貫かんと閃いた薬指の一撃は、かわしきれるものではなかった。咄嗟にコートの裾をはねあげ、捌くようにその軌道を逸らす。胸板をすれすれにかすめていく薬指。危機が一転して好機となる。逃すものかとそのままコートの布地を巻きつけ、自由を奪い引き抜いた。力が拮抗したのは一瞬。

「何と!?」

 『蛭』が驚愕するのも無理は無い。直樹は奴の指を掴んだ左腕一本だけで、成人男性としても大柄の部類に入るはずの『蛭』の体を引っこ抜き宙に舞わせたのだ。体勢を崩したのを見逃すはずも無い。間髪居れず、こちらに飛んでくる『蛭』に向けてパンチを繰り出す直樹。だが。

「ぐうっ……」

 交差の後、吹き飛んだのは直樹の方だった。路地のゴミを舞い上げ、剥き出しの鉄骨にたたき付けられる。

「……ふん、そんなところからも出せるとはな。大した大道芸だ」

「困りますねえ。物価高のこの国では靴を調達するのも大変だと言うのに」

 それは、あまり正視したくない光景だった。『蛭』の右の革靴が破れ、さらに中から一メートル余りも延びた五本の足指が、獲物を狙う海洋生物のようにゆらゆらと直立して蠢いている。片や直樹はといえば、その新たな五指に貫かれたのであろう、腹部に幾つかの穴が穿たれ、そこから血を流していた。

「ふふ。貴方の能力は『怪力』でしょうかね。いずれにしてもその貫通創ではまともに戦えますまい」

 直樹は興味なさげに己の腹に開いた穴をみやる。それほどの負傷を追い、かつ今まであれほどの激闘を演じていたと言うのに、その額には汗一つ浮いていない。一つ小鼻を鳴らすと、インバネスのコートのボタンを外し、懐に左手を突っ込む。

「そろそろ本気で行くぞ」

 そんなコメントともに、ぞろり、とコートから何かを抜き出した。

「!?」

 『蛭』の表情が変わる。直樹がコートの中から抜き出したのは、サーベル。

 月明かりをその白刃に反射して冴え冴えと輝く、抜き身の一本の騎兵刀だった。その長さ、その大きさ。明らかにコートの中に隠しおおせるものではない。鞘も無く、剥き出しの刀身から柄まで銀一色の片手剣を、奇術師よろしく抜いた左手に構える。右手はコートの袖の中に隠したまま。先ほどの怪力に斬撃の威力が加わればどうなるか。直樹が間合いを詰める。『蛭』は咄嗟に後退。そのまま右の五指で直樹の心臓を貫きに掛かる。

 ――ずんばらりん。

 安易に擬音で表現すればそんなところか。高速で振るわれた騎兵刀の一閃は、肉をも貫く鋼の指を、五本まとめて両断していた。怯む『蛭』。追う直樹。『蛭』の左の革靴が爆ぜ、新たな五指が走る。しかし二度目の奇手は直樹には通じない。余裕を持って回避、なおかつロングコートの裾をその一指に絡める暇さえあった。捕らえられ、刀で断たれる指。しかし、それは囮に過ぎなかった

『蛭』はその一指を犠牲にして跳躍。仮組の鉄骨にその指を巻きつけ、あっという間に上へ上へと登ってゆく。たちまちその姿は月の隠れた夜の闇に隠れて見えなくなった。

「ふん。卑劣な振る舞いが身上の秘密警察崩れか。逃げの一手は常套手段よな」

 直樹の痛罵が届いたか、闇の向こうから『蛭』の声がする。

「おや。貴方のようなお若い方とは前職の時にはそれほど関わり合いになったことはございませんが」

 余裕を装っているが、自慢の両手両足の二十指のうち、六指を使い物にならなくされているのだ。指に痛覚が通っているのかどうかはわからないが、ダメージが無いとは思えない。とはいえそれも、腹に大穴が開いている直樹に比べればさしたる事は無いはずなのだが。

「ごく一般的な心情だ。人の庭先で詰まらぬ真似をされれば懲らしめてやりたくもなる」

「はて。東欧にお住まいでしたかな?」

 言葉はそこで途切れた。続けて上がる、無数の鈍い

「……!!」

 前後左右、そして上方から延びた十四本の『指』に、直樹が貫かれていた。


 鉄骨の塔から『蛭』が降りてくる。

「私の指は特別製でしてね。一度血の味を覚えれば、あとは臭いで追尾出来ます。視線の通らぬ暗闇であろうと問題はございません」

 切断された右の五指が蠢く。指先を切り落とされて怒っているのか。その掌を慈しむように見やり、

「ああ。安心しろ。お前達もすぐに元通りになるぞ。今度は男だが、若い人間の血だ。さあ、たっぷり飲んで育つがいい」

 あまり考えたくは無いが……この指は生きている。それも、まさしく『蛭』のようなものだ。直樹の全身に突き立てられた蛭どもが、その血を啜ろうというのか、一斉に身を歓喜を表現するかのごとく身をよじらせる。だが。

「……?」

 『蛭』の表情が曇る。

「ああ、つくづく嘆かわしい。かの偉大な詩人が吸血を愛の交歓にまで高めてくれたと言うのに。貴様のような奴が居るから我が品格まで疑われるのだ」

 唐突に、『蛭』の指どもが身をよじり始めた。だがそれは先ほどのような歓喜によるものではない。明らかに苦悶によるためだ。慌てて指を引き戻そうとする『蛭』。しかしその指たちは、まるで張り付いてしまったかのように直樹から離れることが出来ない。

「時間の流れと言うものは残酷なものだ。我が愛でし者、愛でし人、愛でし土地を次々と色褪せた『古き良き時代』とやら言うものに飲み込んでいってしまう。干渉をすれば互いに不幸を呼ぶだけ。止めれば止めたで、貴様らのような下衆共が我が領民の末裔を害して回る始末」

 いまや『蛭』にもはっきりと判るほど、その異変は現れていた。『蛭』が黒いハーフコートを来ていたのは、ただ隠密性を高めるためだけの理由だ。夏の暑さなど、訓練を積んだ者には不快感を催す程度のものでしかない。ところが、それが今。『蛭』は快適さを感じていた。まるで、今がこのコートを着て外出するに相応しい季節の如く。いや。むしろ、肌寒さを感じるほど。

 一際、指の蠕動が激しくなり……そして、止まった。愕然として見やるその視線の先で、直樹を貫いたはずの無数の蛭たちが、すべて、凍っていた。夜闇の向こう、十四の刺突に貫かれた男がいるはずの場所に浮かぶのは、瞳。紅玉を溶かし込んだような真紅にして、まるで溶鉱炉で燃える炎の如く、燦然と輝く黄金だった。その時、雲が去り、月明かりが再び周囲を鮮やかに蒼に染め上げる。

 そこに、それは存た。

 己の体内から吹き昇る膨大な冷気に、纏ったコートをまるで戦に望む王侯の外套のごとく靡かせ、逆巻く銀髪の元、眼鏡に覆われていないその瞳は紅き竜眼。手にし騎兵刀の正体は、その魔力で誂た氷の一片。その身に触れしものはたちまち凍てつき、無垢なる白へと存在を昇華させられ破滅する。

「吸血鬼……ですと!?」

 『蛭』が絶句する。それは彼の故郷でも、そしてこの業界でも御伽噺として一笑に付されるべき存在のはずだった。少なくとも、この業界で吸血鬼と言えば、数次感染を繰り返し、人間を多少上回る運動能力といくつかの異能、無数の弱点を引き継いだ存在に過ぎないはずだ。たしかに脅威だが、この業界では突出した存在ではない。だが、

「馬鹿な……!!『原種』が、この現代に生き残っているはずが無い!!」

 ましてや、大都会とは言えこんな東洋の一角に。そんな『蛭』の混乱など知ったことかと、直樹がどこか物憂げに、『蛭』を一瞥する。今まで袖の中に隠していたその右腕が振るわれる。全ての水分を凍結させられたおぞましい指どもは、直樹の体に傷一つつけることが出来ずに霧散した。いつのまにか、先ほど貫かれたはずの傷も拭ったように消えている。

「ぬぅっ……」

「ふん。種としての分を弁え、静かに眠りについていた我らを追い出しておいて言い草はそれか。確かに千年一日の管理者としての暮らしなど元から誰かにくれてやるつもりだった。それは許そう。しかし」

 直樹が左腕を掲げる。その腕に掲げられた騎兵刀が、恐ろしいほどの白に輝く。東京の真夏の空気が反発して嵐を引き起こす様は、異界から突如出現した絶対零度の暴君を押し返さんとする自然の抵抗にも思えた。

「仮にもこの『深紅の魔人』の領民を故なく害したとなれば、相応の罰を与えねばならん」

「ふ……ふふ」

 『蛭』が不敵に笑みを浮かべる。

「大言はほどほどにしなさい、旧種。もはや貴方達の時代は終わり。所詮は狩られる側の立場に過ぎないのですよ」

 一歩足を進める。微動だにしない直樹。

「吸血鬼の血。面白いですな。原種の血を飲めば不老不死も夢ではありません!!」

 ハーフコートが裂ける。その腹の中から飛び出してきたのは――人間の脚ほどの太さもある巨大な蛭だった。最後の一匹。これであれば凍結する前に奴の皮膚を食い破ることが出来る、と。だが。

「何度も言わせるな。吸血とは愛の交歓。貴様のような下衆な陵辱は見るに耐えぬ」

 時間にして一秒も無い。いや、触れたその瞬間には、長大な蛭はその全身を凍結されていた。愕然とする『蛭』。ありえない。いかなる理由かはわからないが、この男が冷気を操れるとしても、ここまで一方的に対象を凍らせることなど出来るものなのか。時間を止めでもしない限り――時間?

「貴様から奪って楽しいものなど一つも無い。その不快な時計を削るだけだ」

 直樹の右腕が一閃した。……そうか。局所的に時間を停止する能力……分子運動を完全に停止させられれば、全ての熱は存在し得ない。奴は冷気を操るのではなく、時間を操るのだ。思考がそこまで弾けた時点で『蛭』の下半身は吹き飛んだ。


 再び月は翳り、辺りは闇に沈む。無数の氷の欠片が大地に溶けてゆき、先ほどの光景はまさしく夢に過ぎなかったのではないかとさえ思える。

「逃げたか」

「逃がしたんだろ?」

 ようやく現場に到着したおれは、皮肉たっぷりにコメントした。直樹といえばそ知らぬ面をして、

「最近近眼でな。狙いを誤ったようだ」

 などとのたまった。ちなみにその眼は、いつものとおり黄玉のそれに戻っている。

「いいのか?能力ばらしちまってもよ。今後大変だぜ」

「何を今更。貴様と違って、俺の方はバラされる分には一向に構わんよ」

「名前が売れてると便利でいいねえ」

「貴様ほどではない」

 へいへい。しかしまあ、先ほどの寒気がウソのように、今では再び、夏の蒸し暑い空気がこの周囲を支配していた。っと。そうか、それもそのはずだ。

「夜明けだぜ。任務終了、だな!」

 おれは奴の背中を叩いた。直樹はと言えば、

「そういえば一昨日もここで日の出を見たような気がする……」

 などとこれまたのんきにのたまった。

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