北関東

第6話:『北関東グレイブディガー』19

 そもそもの私、小田桐剛史は、公立高校から私立大学を出て総合商社に就職した程度の男だ。

 田舎の街では神童と呼ばれ、末は博士かノーベル賞かと煽てられていたものの、大学に入ってからは自分の頭脳が”上の中”程度のでしかない、ということも思い知らされていた。

 だからこそ私は、目に見えない頭の良さよりも、数字で残る金とチカラを求めるようになった。多少アクは強かったかも知れない。ラグビー部やサークルで対人関係のトラブルがあったりもしたが、だが逆に言えばその程度のものでしかなく、今から振り返ってみれば、まずまず順風満帆の人生だったのではなかろうか。


 全てが狂い始めたのは、仕事で三年間アジア某国に滞在したときだった。


 日本に居たときから接待やリベートの重要性は十分に理解していたつもりだったが、海外でのビジネスはその比ではなかった。

 こちらがどれほどルール通りに商売をしても、相手がゴーサインを出さなければそこで全てが止まってしまう。権限を持つ政治家や官僚をいかに取り込むか。あるいはいかに敵に回さないようにするのか。

 誰それに金品を送りつけ、その便宜によって得られた多大な利益の一部を使って次にあてがう高級コールガールを調達する。

 そういったことに腐心するうち、私はいつしか、現地の汚職官僚と、彼が繋がっている麻薬組織やその私兵達とすっかりズブズブの仲となっていた。リベートの件が日本国内で発覚し大騒ぎになると、私は社内で全ての責任をなすりつけられ降格させられた。


 社内派閥という名前の輝かしいエスカレーターから下ろされた私は、同僚や後輩達が昇進への道を駆け上がっていく様をただ指をくわえて見ていることしかできなかった。そんな時だった。かつてズブズブだった麻薬組織の支援者、と名乗る組織、『第三の眼』からコンタクトがあったのは。

 結果として、私は『第三の眼』に所属する事になった。

 と言っても、社会的な身分は今まで通りの商社マンである。ただ時々、商社でなければ知り得ないような最新のデータや社内情報を、先方からの指示に従って集めて流す。それだけで、同僚や上司どもすら及ばない報酬を手にすることが出来た。

 数年後、私は総合商社を辞め、昂光に引き抜かれることとなる。表向きには海外へのパイプを活かしたキャリアップのためとなっているが、そのスカウト話自体、『第三の眼』の工作によるものだった。

 私自身、これ以上出世の望みのない会社に未練はなかったので、転職の指示には不満はなかった。

 そして昂光での任務は、開発中だった次世代三次元測定器の密輸だった。一見地味なようでいて、使うものと使う相手を間違えなければ莫大な金を生むカード。

 元商社マンの営業部長として赴任した私は、昼は営業マンとして仕事に励み、夜はその商品の機密データを手に収めるべく、社内で暗躍していたのだった。

 会社の重要ポストだからといって全ての情報を把握できるわけではない。社内の雑多な情報から必要なものを抜き出し、いくつかの基幹部品のサンプルをちょろまかして、どうにか『取引』として先方に渡せるものを揃えるためには随分時間を必要とした。


 ところがその頃から、身辺に違和感を感じるようになっていた。


 確証はないが、私を誰かが調べ回っている……そういう雰囲気。ただのサラリーマンとは言え、これでもゲリラ共と後ろ暗いビジネスをやりとしていた身だ。

 いつしか私はこの手の異変については、昆虫の触覚並みに鋭敏なセンサーを持つようになっていたのだ。『第三の眼』の支援を仰ぎ、こちらからも調査したところ、私を追っていたのは『役者』などと名乗る、自分の顔を変える男だという。

 私はそういう能力を持つ連中が結構この世に居るということはすでに知識として知っていたが、それでも奴の能力に――取引現場で、いつの間にか『第三の眼』の連絡員とすり替わっていた奴に――気づいたときは戦慄したものだった。

 その男と私は、一年以上に渡って連絡を取り合ってきたというのに、その正体が見破られるまでは、その男を疑ってみようとも思わなかったのだから。完全な変装。いや、あれはもはや変身と呼ぶべきレベルのものだった。実際にその場にいた私でさえ、今でもいかにして奴の正体が見破られたのか。未だに推測すら出来ずにいる。

 だが、いかに完璧な変身とは言え、バレてしまえばもはや意味がない。私と、暴力のプロである『第三の眼』の構成員と、裏家業とはいえ基本的に戦いを好まない『役者』。互いにもはや引くわけにはいかない状況だった。

 山中の県道、夜の闇の中でひっそりと行われたこの両者の衝突は、結果として私達の敗北だった。

 現場から車で強引に逃亡しようとしたところ、それまでの銃撃戦での着弾がタンクに引火し大爆発を起こした。構成員達は全員死亡。そしてかろうじて生き残り、『第三の眼』の支援部隊に回収された私は……全身に重度の火傷を負い、とくに顔面の皮膚はすでに原型を止めないほどに灼けただれていた。

 鏡を見てそれと気づいたのは、回収後に秘かに搬送されたハバロフスクの廃業寸前の病院だった。組織は死体をどこかに遺棄したり、交通事故として下手に勘ぐられるよりも、手元に回収してしまう方が総合的にリスクが低いと判断したらしい。私はおそらく日本では行方不明扱いになっているのだろう。そう思っていた。

 だが社会的立場も帰る家も働く場所も失い、絶望する私にさらに追い打ちがかかった。伝え聞くところによれば、なんと『小田桐剛史』は行方不明になどなっておらず、相変わらず昂光で営業部長として働いている、というのである。あまつさえ見合いをして家庭を持ち、子供まで生まれたとか。この怪現象の原因は、一つしか考えられなかった。

 『役者』。

 あの誰にでも成りすます事が出来る卑劣な男が、この私、小田桐剛史になりかわり、何食わぬ顔をしてエリート会社員と良き家庭人としての人生を謳歌している。この私が鎮痛剤を投与されている冷たく湿った地下の病室から海を挟んだ向こうでは、奴がぬくぬくと妻と子に囲まれ平和に暮らしている――到底許されていいことではない。

 偽りの顔を与えられ、日陰をのたうつように組織の中で生き延びてきた私に、四年後の今、願ってもいなかった機会が巡ってきた。

 私の顔を奪ったあいつに報復が出来るのなら。再び私の本当の顔を奪り返せるのなら。

 そのためなら、何だってやってやる。

 日本に舞い戻り、組織の構成員共を再び動かして情報を集め。

 そして、一ヶ月前のあの大雨の日。私は奴を坂東山に呼び出したのだった。




 その手紙には、私と連絡が取れなくなってからの彼の、その後についてが書き連ねられてあった。

 変身能力を活かして昂光に潜入し密輸の証拠をつかむのは、彼にとってはごく簡単な任務のはずだった。事実、彼は社員、取引先相手、警備員などにまさしく変幻自在に化けて、いとも容易く主犯である小田桐某の正体に迫ることが出来たのだという。

 しかし――私には未だに信じられないのだが――最終的に彼はその正体を見破られてしまい、銃撃戦となってしまう。

 結果、逃走を図った小田桐某は爆発事故で行方不明になり、密輸の決定的な物証を握ることは出来なかった。それでも、襲撃の手口からして小田桐が主犯なのは疑いようのない事実であり、密輸のために形成されたネットワークも被害甚大。まず任務成功と言ってもよかったはずだった。

 しかし、彼……誇り高き我が師、『役者』には、銃撃戦で決着をつけるような無骨な結末は、到底受け容れられるものではなかったらしい。

 彼は昂光に固執した。ウルリッヒ保険にも任務完了の報告をせず、行方不明になった小田桐剛史に変身を行い、その代役を完璧に演じ続けた。そしてその手に握った小田桐の権限と情報を以て、構築されたネットワークをことごとく、彼の言を借りれば偏執的に、潰していった。 

「今にして思えば、正体を見破られた事に対する子供じみた腹いせだったんだよ」

 彼は手紙でそう述べている。


『役者(アクター)』。

 分類で言えば突然変異(ミュータント)の部類に入るのだろう。異常発達したミラーニューロンと、自在に変化する体細胞。DNAまで一時的に組成を偽装させることが出来るその能力は、ひょっとしたら人類の新たな可能性を模索するものだったのかも知れない。

 生まれながらの『物真似師』である彼にとって、己の能力を見破られる屈辱というのは、私のような凡才には計り知れないものがあったのだろうか。

 99.99%の擬態を可能とする人間。その傷ついたプライドは、いつしか歪んだ挑戦へとねじ曲がっていった。


 オリジナルを模写することは容易だ。

 そんな低レベルな演技ではまだ足りない。

 ”オリジナルが無い状況で、完璧に本人を演じ”きってこそ『役者』である。

 小田桐剛史としてのレールを、誰にも疑われずに、小田桐らしく歩み続ける。

 小田桐として上司に疎まれ、部下に敬遠されようと一向にかまわない。

 己一人の胸に秘かに満たされるものさえあればよい。

 そう考えて過ごしてきたのだと彼は言う。小田桐のように考え、小田桐のように振る舞う。演技は精髄を極め、自分が『役者』だと言うことを思い出すのが一週間に一度、という事も珍しくはなかったのだとか。

 結局、彼の『演技』は一年以上にも及んだ。潜入捜査には数ヶ月から半年を要することが多いが、そこから考えても長い時間である。だがしかし、そのレールは、いつの間にか後戻り出来ないものになっていた。

 その頃にちょうど降ってわいたのが、取引先の重役の娘との見合い、だった。『小田桐ならば』己の出世のために受けないはずがない縁談。迷うことなく婚姻を申し入れ、式を挙げ、妻が懐妊したあたりで――

「悪い夢から、はたと醒めた」

 そう彼は語っている。彼とて、自らの異能力や遺伝子の秘密を完全に理解しているわけではない。遺伝子まで擬態できる彼の子供は、果たして誰の子なのだろうか?彼の意地による『挑戦』のため、偽者の小田桐と結婚した妻の人生は、一体どうなるのか。


 『小田桐ならば』政略結婚で娶ったような妻に愛情は注がない。

 毎晩女のいる店を経費で飲み歩くほうが『小田桐らしい』。


 『小田桐ならば』土日に子供と一緒に車で出かけるような事はしない。

 人脈つくりに取引先とゴルフでもしている方が『小田桐らしい』。


 『役者』であるならば、どうすべきかは明らかなはずだった。

 だが結局、彼の家庭は……後に私が調べたところ、幸せな家庭と呼びうるものであった。

 一流の『役者』は、新たに作り出された家庭、という舞台での演技をやめてしまったのだ。

 調和ある家族、暖かい帰るべき場所。そして相互の信頼。世の中のどんな人間であろうと、どちらが欲しいかと言われれば、不幸な家庭よりも幸せな家庭と答える決まっている。それは絶対的に正しい、世間では賞賛されるはずの行為のはずだった。

 だというのに、己一人の胸には、己が『役者』として失格であるという事実が突きつけられ続ける。どれほど苦しみもがいても、今更舞台を降りることなどかなわない。

 傲慢な挑戦に対する、これ以上もないほどの重い罰。

 幸せで過酷な時間は、実に三年も続いた。

 ある時、彼はとある情報を聞きつける。再び昂光の企業秘密に接触しようとする不穏な動きがある、と。半ば予感めいたものを感じて、彼はその機会を待ち続けた。

 そして、一ヶ月前のあの大雨の日。彼は奴に坂東山に呼び出されたのだった。

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