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EX2話:『星を見る犬』13【完】

 室内を吹き荒れていた風は、いつの間にかその勢いを弱めていた。全身を押さえつけるかのような風圧の塊がなくなり、ようやくサブロウは身体を動かすことが出来た。

「ばはぁ――――っ!!はあっ!はあっ!はあっ!」

 犬神乾史はカーペットに膝をつき、肺機能を全開にして換気を行っている。極限の集中を要求されている間は、ほとんど呼吸すらする暇はなかったのだった。その隣で倒れている『魔犬』も、起き上がる気配はない。

「アニキ、アニキ大丈夫っすか!?」

「……よお……」

 干上がった喉からかすれた声を絞り出す。極限に疲労してはいるが、意外としっかりしている。サブロウの表情に、安堵が広がった。

「良かった……」

 鼻を拭うついでに、顔全体をごしごしとこする。

「でも。ホントにあっしなんかを助けに来て良かったんですか?」

「あん?」

「だって、あっしはアニキを……いてっ」

 乾史の拳が、サブロウの頭を小突いた。

「同じ事を何度も言わせんじゃねぇよ、いいな?」

 恥ずかしいんだからよ、とそっぽを向く乾史。すんません、とサブロウは小さく、だが全身の力を込めて頷いた。と、気がつけばそこで、乾史がなんとも形容しがたい表情を作っていた。

「どうかしましたか!?」

「あーいや。色々あって言いそびれてたけど、お前なんつーカッコウしてるんだ。趣味か?」

「あ、これは……色々ありまして」

 自分がドレスを纏っていたことを思い出し赤面するサブロウ。

「沙良……」

 と、その贈り主が声をかける。ようやくここに至って事態を把握したらしい。さんざんに風に煽られ、品のいい中年の姿が台無しだった。

「伯父さん。怪我はありやせんか?」

 ああ、と曖昧な返事を返す貴俊。サブロウは大きく深呼吸。今こそ確かな答えを出さなければならないと感じた。中学校の学力テストなどより、はるかに大きな何かをを決定する答え。

「すいません。あっしは伯父さんの家には行けなくなりました」

「え……?」

「この街には、あっしの大切な人達がいますから。あっしはここで、自分なりに生きていこうと思っています」

「ま、待ってよ沙良。……その。本気じゃないんだろう?その子に合わせて、仕方なくそんな事を言ってるんじゃ……ないのか?」

「どうしてそう思うんで?」

「だって……沙良はそんな言葉使いはしないよ」

 サブロウは苦笑した。結局最後まで、彼はサブロウの本質を知ろうとはしなかったのだ。どうもこの伯父に対しては、真面目に怒る気にすらなれない。

「すんませんね」

 そう言って、サブロウは身につけていたドレスの裾を、思い切り引きちぎった。続いて、胸の華飾りも。

「あ……ああ……!!」

「やー、これでやっとすっきり歩けるってもんでさあ」

 千切った裾を畳んで、飾りを乗せて床に置く。

「本当はゆえなくもらったモンは塵一つまで全部お返しするのがスジですが、あっしの前の服は処分されちまったんで。これで勘弁して下せえ」

 ああでも、パスポートだけはあっしのモノとして使わせてもらいます、と目端を利かせておくのも忘れない。一つ息を吸い込んで宣言。

「あっしは如月佐武朗。犬神乾史の舎弟でさあ!」

 笑顔の挨拶。たとえ人形の代わりだとしても、自分を必要とした人に憎しみを向けるのはサブロウの流儀ではなかった。

「色々とお世話になりやした伯父さん!ではお元気で!!」

 ようやく起き上がった乾史の肩に手をまわす。乾史は、結局ほとんど会話をかわすことの無かったこの男になんと言葉をかけてよいかも思いつかなかったので。

「あばよ」

 とだけ言うと、サブロウを抱え、ひらりと、まるで冗談のように割れたガラス窓から飛び降りた。

 後には、暴風でぼろぼろになったブランド服各種に埋もれた貴俊だけが、スイッチの切れた人形のように、ずっとぽかんと口を開たまま突っ立っていた。



 夜の裏道、ネオンの届かない闇の中を『魔犬』は身一つで歩いていた。

 大きく切り裂かれた執事服を脱いで肩に担ぎ、垂れ下がったシャツは傷口から流れ出る血で真っ赤に染まっている。

 おぼつかない足取りで人通りのない道をさまようその姿はヤクザでさえ道を譲るほど凄絶だったが、どこかその表情には清々しいものすらあった。

『任務ご苦労様でした、と言いたいところなのですが……』

 上からかけられる声。気怠く視線を向けると、塀の上に一匹の黒猫が丸まっていた。頭から尻尾の先まで黒一色。夜の闇の下では見つけることすら困難だろう。その猫に、

「やあ麻生さん。ご苦労様です」

 『魔犬』はまじめくさって話しかける。するとその猫は器用に口を伸縮させ、

『執事派遣ビジネスの第一号としては、残念な結果になってしまいましたね』

 などと発音してみせた。『魔犬』は頭をかいて、誠に面目ない、と素直に謝罪する。

「ただ、サンプル第一号として一言述べさせてもらえれば。やはりこのビジネスはハズレだと思いますな」

『やはり、いつもの派遣任務とは勝手が違いましたか?』

 男は頷く。

「我々は基本的には傭兵ですからな。与えられた任務を、自分なりのやり方でこなす方が向いている。依頼人の指示に諾々と従うというのはどうもね」

『現場の貴重な意見をありがとうございます。社長にも確かに伝えておきます』

 ただし、と鳴く黒猫。人間なら眉にあたる筋肉をよせ、妙に人間臭い貌を作る。

『もちろんそれが、任務に手を抜いていい理由にはなりませんが』

「し、失敬ですなあ。私のどこが手を抜いていると?」  金色の眼がぐるり、と回る。

『ではその全身にぶら下げた、無駄に重い鉛入りのアクセサリーはなんなのでしょう?』

「は、ははは。これは私なりのポリシーでしてね」

『そうですか。では自慢の嗅覚を麻痺させてまでわざわざつけた香水は?』

「……こちらはポリシー、ではありませんな。依頼人が身だしなみにうるさいので持ち歩かされていたのですよ」

 懐から小瓶を取り出すと、無造作に放る。吸い込まれるようにポリバケツへ。黒猫はため息を一つ。

『……なるほど。窮屈な環境だったというのは確かなようですね』

「ま。冗談抜きで言いますと、正式に他社所属でもない未熟な能力者に全力を出すわけにはいきませんし。適当に痛めつけてあしらう……つもりだったのですがね」

『本気を出さないうちにまさかの敗北、と』

「いいや。確かに嗅覚なし錘付きですが、その条件の中では全力でやりましたよ。なかなかどうして、面白いものを見せてくれる」

『犬神乾史、ですか。やはり人狼の血族同士、気になりますか?』

 そういえば貴方も同じストリート出身でしたしね、と黒猫は続けた。笑う『魔犬』。今までのどれよりも真意がつかめない微笑。

「さあてどうでしょう。ただまあ……そうですな、うちCCCであと一年もみっちり鍛えてやったら、戦闘能力なら私の後釜くらいは託すことが出来そうですが」

 頭の方はどうか知りませんがね、とも呟く。

『それは貴重な情報をどうも。早いうちに網を張っておくとしましょう』

 言うや、黒猫は優美な動作で身を起こす。相変わらず貪欲ですな、と『魔犬』。

「それでですな。本件の成功報酬はやはり―――」

『出ると思います?』

「―――いえ。ただ執事の日当だけですと、今月は些か手元が不如意かな、と」

『もちろん通常任務はいつでも貴方を待っていますよ』

 そう声を残すと、黒猫は塀の向こうに姿を消した。

「……やはり私程度が及ぶところではない、か」

 がっくりとうなだれる。やがてひとつ肩をすくめると、任務を終えた『魔犬(バスカヴィル)』は、口笛を吹きながら闇の奥へと消えていった。





「づぁ~~~~~~。すまねえサブ。マジでもう身体が動かねえわ」

 その頃当の犬神乾史はと言うと、ビルの屋上のふちに、大の字になって寝転がっていたのだった。

 何のことはない。格好をつけてサブロウとともにホテルから下のビルに飛び移ったものの、そこで正真正銘のガス欠でひっくり返ってしまったのだ。

 一度倒れてしまうと、脳の命令で充分すぎるほど働いた全身が、たちまち休息を声高に叫び始める。

「悪ぃが今夜はここで休んで、朝になったらまた跳んで……ってああ。金ももうねぇんだった……」

「あっしは全然かまわねえっすよアニキ。昼になったら、なんとかこのビルの階段で降りましょう」

 屋上を囲う柵の外側に寝転がっているので、もし他に見る者が居たら危なっかしくて仕方がない光景だった。

 だが当の本人達はと言えば、先ほどまで散々危険のさなかに居続け、あるいは見続けたせいで感覚が麻痺してしまったらしく、柵を越えて内側に移動することも思いつかない。

「帰ったら、ねぐらを掃除して。服を調達して……ってそうだ何よりアニキの手当をしねぇと。朱姐さんのところに顔を出さなきゃですね」

「うええ、今日中に帰らなかったら朱の姐ちゃんにソーシキ出されてそうだなオレ……」

「そ、それは確かに……」

 他愛のない会話を続けるうちに、意識が遠のきかける。今日は、掛け値無しに、今までの乾史の人生でもっとも精神と体力を酷使した一日だったのだ。目を閉じる。五分だけ眠ろうと思った。



「アニキ、見てくださいよアニキ」

「ん……なんだよ……」

「上ですよ、上」

「上……に何があるんだよ……って、おお!!……」

 乾史の感覚では五分だったのだが、実際には五分どころか二時間近くが経過していたようだ。

 強風が吹き抜けた後。東京に一週間の曇天をもたらした低気圧は吹き払われ、西の彼方に澄み渡った夜空が広がっていたのだった。

 ビルで矩形に切り取られていない、本物の空。

 そしてそこには。

「すっげえ星ですね、アニキ」

 闇の向こうで瞬くいくつもの星。東京ではなかなか見ることの出来ない、珍しい光景だった。

 と、常人離れした乾史の眼が、西の空に一際輝く星を見つけた。一つ、二つか。他のそれより明るいからか、なぜかその二つから眼を離す事が出来ない。

 なんとなく、それに向かって、疲労激しい腕を伸ばしてみた。

「……遠いなあ」

「え?何がですか」

「星がさ。お前確か前に言ってただろ。犬が星を見るのは悪いかどうかとか」

「あ、はい」

 乾史の口から、ふと疑問が漏れた。

「……なあ。あの星、つかめるのかな」

 サブロウは、その問いに気安く答えることはしなかった。ただ乾史の隣、ビルのふちに腰掛け、同じ星を見つめる。綺麗な脚を放り出し、あの風呂場の時のようにはっきりと言った。

「でも。やってみたいと、あっしは思ってるんでさあ」

「……そうか」

 腕を降ろす。しばらく二人は、瞬く星空に魅入っていた。

「……あれ。なんて名前の星なんだろうな」

 乾史は別に本気で聞いたわけではなかったのだが。

「ええと。あの位置ですと……シリウスと……プロキオン。冬の大三角形の名残じゃねえですかね。四月でもまだ見えるんだ」

 サブロウは律儀に答える。

「……ホントに。お前はいろんな事を知ってんだなあ」

「そりゃあもう。アニキをサポートするのが舎弟の役目ですから」

 勝手にしろい、と、寝たまま視線をビルのはるか下へと向ける。

 眼下に広がる街。あのどこかに、乾史達が暮らした廃倉庫もあるのだろう。居場所を求めて逃げ込むようにやってきたこの街の全体像を、彼は初めてその目にとらえた。

 どこまでも続く、ネオンの海。

 通りから見上げれば毒々しい光を放つそれも、こうして見下ろすと、どこか柔らかさを感じさせる気がした。

 あの一つ一つに、人々の暮らしと、物語がある。こんなにも世界は広く、どこまでも広がっているというのか。

 そう、オレはその気になれば、どこへでもいけるんだ。

 途方もない解放感。そしてわずかな不安。

 広すぎて孤独に迷ってはしまわないのか。

 その時、傍らのサブロウが、はたと手を叩いた。

「そうそう。思い出しました」

「なんだよ」

「シリウスはおおいぬ座の星で、プロキオンはこいぬ座の星なんですよ」

 そういや、そんな話を学校で聞いたことがあったかも知れない。そこまで考え、ふいに乾史の唇がほころんだ。

「……なあんだ。ちゃんといるじゃねえか」

「え?」

「星をつかんだ犬が。二匹も、さ」

 そして二匹なら。きっと、この空のどこに居てもさみしくはないのだろう。

 耐え難い疲労。休息に意識が遠のいていく。

 最後にひとつだけ呟いて、乾史は今度こそ、心地よい眠りに身を委ねた。

 

 ―――だったら。

 犬が星を見上げるのも、悪くはないさ。




 これより数ヶ月後、新宿を中心として、少年達を中心としたグループが突如として誕生する。

 強い絆で結ばれた彼らはやがて、裏社会の住人達すら無視できない勢力となり、熾烈な争いを繰り広げることとなる。

 そしてさらに数ヶ月後、そのリーダーである少年は、紆余曲折を経てある人材派遣会社に所属することになるのだが―――それらはまた、別の物語である。

(完)

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