壱番街

第7話:『壱番街サーベイヤー』29

 円卓を置いてなお余るドラゴン・スイートのフロア。

 暖炉の前に、無駄こそが最高の贅沢とばかりに空けられた土俵がまるまる置ける程度のスペース。必定、そこが決戦場となった。

 MBSの兵隊たち、そして美玲さんとワンシム達は壁際に。おれとファリスは反対側に陣取り、この死合の行く末を見守る。

 おれは勝敗を推測しようとして、やめた。

 昨夜のうちに打てる手を打ち、ここに至るまでで策は出し尽くした。

 あとは結果を確かめるのみ。

 任せるべきだからこそ任せる。おれのアシスタントには、その力量があるのだから。
 

 部屋に満ちる緊張とは裏腹に、対峙する二人はむしろ不気味なほどリラックスしていた。

「最初の高速道路ではお前にしてやられたな」
「次は負けっぱなしだったよ。ボコボコにされた挙げ句ファリスさんまで攫われちゃってさあ」
「抜かせ。初見で殺し切るつもりだった技を凌いでおいて」
「まっ、何にしても」
「これで決着ということだな」

 双方友人じみた笑みを交え。

 そして日めくりカレンダーを破り捨てるように表情を引っ剥がす。

 そこには一切の感情は失せ、最適に感覚器を駆動させるための表情筋の配置しかなかった。


 真凛の構えはシンプルに半歩踏み出し、両腕をだらりと下げたもの。

 対して颯真の構えは両の拳を正中線に並べた、直線的な攻防の構え。


 美玲さんとおれが目を見合わせて頷く。

 それが期せずして、開始の合図となった。

 
 
「シッ」

 締め上げられた肺腑から微量の吐息が排出される。

 颯真が地を滑る。地面にこぼれる水銀めいた滑らかさ、速さ、重さを以って間合を侵食。


 四征拳六十五手の四十一、『揚水如竜(かいしょうはりゅうのごとく)』。

 
 前回と同様。

 いや、さらに伸びが疾い。実戦で用いることで、颯真は己が新たに身につけた技術に急速に習熟していた。かわせず、受ければ徹し、当たれば宙に舞う。鍛錬のみが齎すシンプルな必殺に。

 だが、真凛は――すでにそこに居なかった。

 刹那、颯真の思考が弾ける。混乱し惑うなどというタスクを差し込む余白はない。索敵。上下左右――いるはずがない。そんな動作をさせる余裕は与えなかった。後ろに飛び退った――違う。それならばこのまま追撃すれば終わる。ならば、どこに。

 前方。

 残酷な答え合わせ。

 拳を繰り出そうとしたその時点で、真凛はまるで握手でも求めるかのように歩み寄っていたのだ。前に踏み込もうと意識してからでは間に合わない。日常動作である歩行の延長により意識と筋肉の準備を省略しつつ接近する死中活法。腕が伸び切る前に、すでに接近戦の間合いに侵入されている。

 ――馬鹿め!

 颯真は嘲る。それは想定されている、しかももっとも愚かな答えだ。

 殴られる前に懐に飛び込む。

 たしかに打撃系には効果的な対処方法の一つだ。だがそれは、パンチ、キックなど、体の力を末端に集約しスピードを乗せる技だからこそ効果がある。颯真の至った『十字勁』はそのようなものではない。

 天地の『気』を下肢に蓄え、前方に放つ。その本質はむしろ『腕を突き出した状態での体当たり』であり、伸ばした腕よりも、肩や頭の方が危険な破壊力を持つ。腕の内側に侵入されたのならば、そのまま体当たりで真凛を轢き潰すまで。何ら変わりなく、颯真が勁を開放する。

 だが。

 するりと、二人は交錯した。

 奇怪な光景だった。激突すると思われた両者が、まるで酔っ払い同士の握手のように、互いに重なることなくすれ違ってしまったのである。

「――っ」

 颯真の背筋が粟立った。自分が何をされたか直観し、そして到底、それを信じることが出来なかったのだ。

『今のは……』

 『双睛』がわずかに声を上げる。違和感。だが言語化には至らない。

 向き直る両者。

 先程のあれは偶然だ。

 颯真は疑念を締め出す。少なくとも、再現できるはずがない。颯真は刹那の脱力。肺腑を解放、排気、吸気。全身の筋肉と関節を緩め、自然落下する己の体を――次の刹那、下肢で支え、受け止める。

 子供が体重計で数字を増やそうと遊ぶ時のそれ。『沈墜勁』で一時的に数倍に増加させた体重を質量武器と為し、『十字勁』にて、鍛え上げた下肢で打ち出す。

 再度の拳。一挙勇躍し、真凛の腹を貫通する――。

 
 だが。気がつけば。

 颯真の肩に、真凛の手が置かれていた。

 
 産毛が逆立つ。必至、詰み。

 
 わかっていても、だがもはや拳を止めることは出来ない。

 勁を放つ――。

 その瞬間。

 劉颯真は砲弾の直撃を受けたように吹き飛び、壁に叩きつけられた。

「な、なんだ、ありゃあ?」

 おれは奇声を上げていた。実況解説にはそこそこ自信はあったのだが、今の一連の出来事は完全に理解の外にあった。


 颯真が攻撃をしようとした時、いつの間にか真凛が接近していて肩に触れており、次の瞬間颯真が吹っ飛んでいった。確認できた事象はその程度のものだった。

 おれは降参して、美玲さんに視線で助けを求めた。だが美玲さんも、眼前の事態が信じられないようだった。

 幾ばくかの不気味な沈黙の後、ようやく美玲さんの唇から言葉が漏れた。

『化勁、いえ、そんなはずは……』
「化勁って確か。相手の発勁の流れをずらしたり、消したりするって技でしたっけ……?」

 発勁、と言っても、決して物理法則を無視した胡散臭いエネルギーではない(業界には本当にそういう力を使う者もいるようだが)。あくまでも武術の技法の一つ、己の体内で運動を生じせしめ、それを相手に流し込むための技術である。

 そしてその前段階。体内で運動量を生成するタイミングで相手に干渉し、力の流れる方向を変えてしまうのが化勁、と言われている。

 いわばアンチ発勁ともいうべき存在である。しかしこの現代、そもそも本物の発勁を実戦で使える武術家を目にする機会が滅多にないうえ、さらにその発勁を無効にする化勁を目にすることはまず不可能と言えるだろう。だが、まさに今ここに、その技術がある。

『真凛さんは、坊ちゃまが身を沈めた一瞬を押さえることで、勁の発露をつかんだのです。そして発勁の方向をあらぬ向きに変えられたために、坊ちゃまは自分の力で飛ぶ羽目になったのでしょう。……到底信じられませんが』

 言うは易し、行うは遥かに難しである。『風向きと芝目を正確に読んでコースを設定し、完璧に正しいフォームでゴルフクラブを振り抜いてボールの真芯を叩いてコースをなぞればホールインワンが可能です』と言っているようなものだ。真に恐るべきは、技の発動前のタイミングをぴたりと抑えたあの真凛の感覚である。これが昨日から盛んに言っていた、相手の重心を見抜くとかいう行為か。

 颯真がバネじかけのように即座に立ち上がり、すかさず間合を詰める。損傷、肩、背骨、脊髄、膝に打撲。骨に罅が入っている可能性はあるが戦闘に差し支えはない。

 盛大に飛んで壁に叩きつけられたが、勁を直接体内に打ち込まれたわけではなく、戦闘不能になっているわけでもない。損害は軽微。

 大技を封じられたとしても、戦い様はある。

 今度は一転して、スピードに物を言わせた『飛鴻弄雲』で無数の手数を繰り出し攻め立てる。

 だが真凛は焦らなかった。

 前回もこの技に翻弄されたが、あの時よりも更に鋭敏に重心を捉えられるようになっている。どれほど派手な軌道、複雑な緩急を描いても、重心が動かなければ体重は乗らず、所詮手打ちでしかない。素早い動きに惑わされず、颯真の重心の移動だけに意識を砕き、フェイントには応じず、牽制を払い除け続ける。

 そして。

 颯真が動いた。突き出した左の開掌でギリギリまで真凛の視界を塞ぎつつ、入れ替えるように繰り出す右の貫手。力を抜いた牽制に見せかけ、真凛から見えない腰と肩で巧妙に勁を載せて放つ本命の一撃。

 だが。

 隠しているつもりだろうが、先の負傷の影響で重心の制御が甘い。

 真凛は放たれた貫手を躱し、小脇に抱え込んだ。

「ぐっ!」
「焦ったね颯真!右腕もらうよ!」

 抱え込んだ腕に、指を這わす。七瀬の技、『ヤケバサミ』。ようは腕をつねるだけだが、それを真凛がやれば、皮膚を引き剥がし肉をむしり取る大技となる。利き腕が破壊されれば、その時点で勝負はほぼ決まったも同然だった。

 颯真の腕から噴血する、その直前。


 真凛が、かっと目を見開く。

 両者の動きが、静止していた。

 またも訪れる、不気味な沈黙。


 真凛の右膝ががくがくと震え、力なくカーペットに着く。

 両の眼球が震え、焦点が定まらない。


 それは、凄まじい衝撃を体内に叩き込まれた証拠だった。


「うそ、でしょ」
「嘘ではない」

 真凛がよろよろと後ずさる。腕のロックは、すでに解かれていた。

「勝負を焦ったのは、――貴様だ七瀬!」

 呼気、吸気。颯真が勁を集約し、くずおれた真凛の頭に劈掌を振り下ろす。

 本来は掌を振り下ろし鞭のように敵を打ち据える技法だが、気力充実した今の颯真のそれであれば、もはや崖から落下する巨岩を受け止めるに等しい。


 間一髪で両腕を掲げるのは間に合った。『痛み受け』――鍛えられた手足で受けることにより、敵の手首や足首を痛めつける積極的防御。

 だが。


 みしり、と震えた。

 真凛でも颯真でもない。

 この紅華飯店の堅牢な建物が、震えたのである。

 
 カーペットの下で、異様な硬質の音がいくつも響き渡った。

 おそらくは床材の大理石がひび割れ、砕けたのであろう。

「…………ぐッ」

 直接受け止めた両手ではなく、真凛の服の背中が裂けた。

 凄まじい力積が体内を通り抜けた証拠だった。

『坊ちゃま、ついにその技を。いいえ、実戦で使いこなせるとは……』
「……今度はおれにもわかりましたよ。文献に目は通しておくものですね」
 おれの首筋を、冷や汗が伝った。

 劉颯真、やはりこいつも、曲がりなりにも化物だ。


 四征拳六十五手の四十八、『碧雲發鬼(かがやくくもがましょうをあばく)』。


 四征拳は三つのプロセスを取る。

 一つは体を沈み込ませ勁を得る『沈墜勁』。

 得た勁を拳などに載せて前後左右に放つ『十字勁』。

 そして最後。


 ――得た勁を全身に巡らせ纏う『纏糸勁』。

 
 颯真はついに、この領域に達したのだ。

 勁を直線に放つのではなく、体内を螺旋状に駆け巡らせる。

 これにより、腕や脚を掴まれたとしても弾き飛ばすことが可能とされ、また相手に拳や肩ではなく、皮膚の一部が触れていれば、そこから勁を流し込む事もできるという。『沈墜勁』『十字勁』が剛とすれば、それを全身に速やかに巡らせる柔が『纏糸勁』である。

 スコップで地面を掘りながらピアノを弾くようなもの、といえばどれだけ無茶なことをやっているか多少は伝わるかもしれない。


 真凛は颯真の直線的な攻撃を躱したと思い、その腕に流れる高圧電流めいた罠に気づかなかったのだ。つかんだ瞬間にそこから膨大な勁……運動量がつたわり、内臓をかき回されるようなダメージを受けたはずである。

 押し込まれる颯真の腕を受け止めたまま、じりじりと立ち上がる真凛。颯真も手首にダメージ。恐らく折れた。だが構わず押し付けてくる。下肢をローギアに。トルクを最大で掛けて、徐々に姿勢を正す。肺腑にだるさ。勁によるダメージの影響。問題ない。脳を揺らされている。神経伝達に遅延。問題ない。損害は軽微。敵の負傷と大差なし。


「吩ッ!!」

 真凛が完全に立ち上がった刹那、颯真が右腕経由で今一度『纏糸勁』を流し込んだ。

 異音。

 体内で無数の振動が弾け、毛細血管が破裂。真凛の目が赤く染まる。皮膚の薄いまぶたや粘膜が裂け、鼻血が顎を伝って地面に垂れた。

「がァッ!!』

 頓着せず、再度『痛み受け』を敢行。

 異音。

 颯真の手首があらぬ方向に曲がった。

 ノックバックで発生した隙間に己の両腕を差し込み、真凛が強制的に仕切り直す。

「……まだだ!」
「……当然だ!」

 両者が吠える。互いの手の内は明かした。

 そして一気に間合いを詰める。

 額と額がぶつかる距離。

 超近接状態からの嵐めいた圧倒的な攻防が、開始された。

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