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EX2話:『星を見る犬』12

 先攻は『魔犬』。躾の悪い捨て犬に打擲をくれんと一気呵成に襲いかかる。

 交錯→閃光/回避/閃光/轟打/回避→回避。

 唸りを上げる拳、分厚い風の塊をえぐりとる領域から磁石が反発するように跳び退る乾史=無傷。まだ終わらない。

 追撃→逃亡など許さず。反転/突進する乾史。その脇をすり抜け後方へ疾走。仕切り直す両者、互いに被害無し。

「……先日より明らかに動きが速い」

 向き直る『魔犬』、表情に浮かぶ感嘆。

「認めたくはないが。……どうやら、単純なスピードで言えば私よりも速いようだな」

 『魔犬』は乾史の両眼に灯る金色の光を見据え、やがて理解した。

「己の内なる人狼への恐れが消えている。なるほど、それが君の本当の速さか」

「ンなムズカしいことは知らねーよ」

 乾史は己の右拳の内にあるものを強く握りしめる。百円玉ではない。旧型の五百円玉。かつて教室の連中を血まみれにして以来、今まで決して握ろうとはしなかった銀色の月コイン。

 ―――まあ、五倍のパワーとまではいかねえけどよ。

「こんなモンはただの喧嘩テクだろ」

「……違いない」

 この男には珍しく苦笑。

「少しは利口になったと思ったら。さらに馬鹿になって帰ってくるとはな」

「馬鹿で悪かったな」

「悪いとは言っていない」

 後攻は乾史。見違えるほどの軽やかさでステップイン→先ほどこの男を黙らせた最速の一撃。

 『魔犬』=敢えてかわさず。防御を固め、先ほど反応できなかった一撃を腕の隙間より観察=猟犬の本能。

 命中→命中/ただしガードの上から。

「……なるほどな。確かにない知恵を絞ったようだな」

 ガードを解いて『魔犬』、理解とともにややあきれ顔。



 ―――この男と戦うにはどうするべきか。

 乾史が、乾史なりに考え、導き出した一つの答え。

『ベースとなるスピードが同値であれば、あとは軌道モーションが効率的な方が早い』

 この男自身がそう言った。ならば。”軌道が同じ”であれば、あとはスピードの勝負になるはずだ。

「何を持ち出してくるかと思えば……」

 この四日間、乾史は朱に鏡を借りた。

 そして好きに使って良いと言われた診察室の壁に掛け、その前でひたすらにボクシングのトレーニングに明け暮れたのだった。

 脳裏でイメージを思い描き、その通りに己の身体を動かす訓練。独習とはいえ、お手本には不自由することなどなかった。幸か不幸か、極上のものがすでにあったのだから。

 夢に出るほど味わい、脳裏にくっきりと焼き付けられた、この男自身の動き。

「よりにもよって私のコピーとはな!!」

 左/左/左/左。出来の悪い贋作に真作を見せつけるかの如く。撃ち出される自動拳銃めいた攻撃。

 回避/回避→離脱。己の速さを生かして一気に間合いを離す。

「ああ。悪ぃがパクらせてもらったぜ!」

 真摯な模倣は時として何よりも良き修練となる。奴の動きを模倣することで把握した、奴自身の射程距離と範囲。

 乾史の言葉に『魔犬』は笑った。いつもの嘲笑、ではない。強敵に臨む猟犬の、誇り高き笑み。

「悪いとは言っていないさ。恥や誇りに囚われ本質を見失うよりはよほど良い」

 『魔犬』の身体が沈み込む。

 乾史同様、ビルの頂上へ跳び上がることすら可能な脚力を爆発させての突進。相手に抵抗する暇も与えず撲殺するコンビネーション。

 左右/回避→左腹/ブロック→左頭/ブロック→右右/ガード→右/ガード。瞬きする間に幾度も空気が弾け、爆音となり大気を震わす。

 乾史は右腕を盾のように掲げ、嵐のような連打を凌ぎきった。はね上がる『魔犬』の眉。複雑に交差する両腕、続いて織り上げられる新たな連撃。

 左左右/回避→右顎→はフェイント/左腹→に割込=乾史の左ジャブ。

「ぬ!?」

 胸を撃たれ、咄嗟に後退する『魔犬』。

 態勢を崩すつもりで放ったフェイントに合わせられ、逆に距離を詰められた。対する乾史、追撃を控え静かに集中。

「シセンは相手の眼におき、かつ全身をシカイにトラえる……」

 我知らず漏らすかすかな呟き。『魔犬』の顔に皮肉が混じる。乾史にフェイントの見破り方を教えたのは誰あろう、この男自身だった。その隙を逃さず乾史が撃って出る。

 閃光→閃光。腋を締めて力を抜いた状態から素早く左。

 『魔犬』=ガード。長い腕を折りたたんで咄嗟に被弾を防ぐ。

 『魔犬』の反撃=鋭い左フック/構わず乾史=さらに左ジャブ→0.001秒だけ速く命中。まだ止まらない。

 乾史、愚直なまでに左ジャブ。さらに速く、左→左。速度は閃光を越え点滅の領域に迫る。



 ……必死の修練とはいえ、四日練習した程度で本物のボクサーと互角に渡り合えるのなら誰も苦労はしない。実際のところ乾史が出来た訓練はたった一つだけだった。

『三つばかりアドバイスをしてあげる』

 診察室を使ってトレーニングを始めた乾史に、朱は言った。

『一つめ。中国拳法の言葉でね。『千招を知るものより、一招に秀でたものを恐れよ』ってのがあるのよ』

 センショウって何だと問う乾史に、千の技の事よ、と朱は答える。そして一招とは一つの技の事だとも。

『中途半端な技を三つ四つ身につけたところで、どれも通じやしないってこと。この四日でアンタに出来ることは、一つの技を死ぬ気で実戦レベルまで鍛えあげる事よ』

 ……そしてこの四日間のトレーニングすべてを、乾史はただ一つの技の修得に費やしたのだった。

 鏡の前で何万回と繰り返した左のジャブ。……ベーシックにして、最速の拳技。腕がオーバーヒートして動かなくなったら朱が怪しげな針で治療するという荒技で磨き上げたのだった。

 『魔犬』にくらべればまだまだ技術は未熟。

 だがそれを、スピードで上回り補い挑む。左ジャブだけに限れば、今の乾史は『魔犬』と互角に張り合うことが出来る領域に達していた。そしてもう一つ。

『二つめ。アンタが本物の左ジャブを身につければ、少なくともバレる前の最初の一発は確実に当たる。ここで必ず、相手の左の目蓋を狙いなさい』

 舌打ちする『魔犬』。今さらになって、最初に打たれた目蓋が若干腫れて視界を塞ぐ。ほんの些細な、だが確実な障害が、『魔犬』の攻撃と防御をわずかに遅らせる。

「―――なるほどな」

 誰かは知らぬが、練達者の助言があるようだ。

 『魔犬』とて場数を踏んでいる。乾史の技の不均衡と、それを前提にした戦術にはすぐに気づいた。となれば取り得る己の戦術も当然定まる。

 左ジャブを封じれば、あとは四日前と何も変わっていない少年が残るだけのことだ。ステップのテンポがさらに上がり、拳の速度はなお速く乾史を翻弄する。

 軽やかなフットワークに振り切られたら負けると、飢狼めいた執念でその後に食らいつく乾史。

 いつしか両者は、互いの間境を中心とし、小さな円を描いて動いていた。

 『魔犬』が乾史の左ジャブを避け回り込もうとし、させじと乾史がそれを追って回る。

 高速で旋回し、己が必殺の一撃を叩き込むべく互いの急所を狙い撃つそれは、さながら戦闘機の格闘戦(ドッグファイト)。いや、正しく闘犬(ドッグファイト)か。風を纏い渦を呑み、二匹の犬は拳キバを剥いて巴を描く。



 二人の戦いを見つめるサブロウの手は己の胸元を強く掴み、風圧と緊張とで息も出来ない。絨毯に転がったままの貴俊は起き上がる事も忘れ、展開される死闘を呆けたように見つめるのみだった。

 時にはレイピアの決闘じみた動き。一瞬で間合いを詰め、互いの最軽最速の凶器で串刺しにせんとし。

 時にはジャムセッションのように。それ自体が美しささえ感じさせる華麗な攻防。

 四日前には手も足も出なかった敵を相手に、乾史は充分以上に善戦していたと言える。だが。その均衡は非常に危ういものだった。

 一つ間違えればたちまち戦局は『魔犬』に傾く。誰よりも乾史が、その事実を把握していた。

 速さでは乾史。リーチと技術では『魔犬』。それも左ジャブに限定しての事だ。

 そして傷。いかに乾史の身体に人ならざるものの血が流れているとは言え、たかだか四日で瀕死の重傷が完治するはずもない。

 これほどの動きをこなせば、本来なら全身を駆けめぐる激痛と、機能低下している内臓がもたらす嘔吐感でたちまち這い蹲ってしまう。痛みを感じずに乾史が動けるのは、ひとえに朱の施した怪しげな針麻酔のおかげである。

 それは貧者と富豪のギャンブル。富豪が小遣いで遊ぶゲームに臨むために、貧者は全財産と、己自身を質に入れてきたのだった。

『細かいことは抜きにするけどね。アンタの首は相当ヤバイのよ』

 トレーニングを始める前の朱の言葉。損傷した首を守るために、乾史の上半身は鎧のようにに硬直しているのだと言った。これでは戦いなど出来るはずもない。

『針を打って、筋肉の緊張を取る事は出来る。でもそれは当然、防御反応も解いてしまう事になる。そこだけは絶対に忘れないで』

 つまりは、切れかかった電源コードを剥き出しにした状態に等しい。一発『魔犬』の拳がまともに入れば、その場で犬神乾史は機能を停止するだろう。

 閃光→頭部を削ぎ飛ばす一撃/右に首を逃す。衝撃、ちり、と眉を焦がす。

 五ミリ向こうに死があるという事実に恐怖する。

 前進=長い右腕をかいくぐって/罠=回避。すでに潜ませていた左のアッパー。

 ○×を一つ間違えるだけで死ぬという事実に恐怖する。

 噛みしめた奥歯に、踏ん張った肚に、震えそうになる膝に力を入れる。弛めたらたちまち小便ごと気力が漏れてしまいそうだ。だが。

 ―――これが、怖いってことなんだ。

 極限まで具現化された恐怖を見せつけられることで、かえって乾史の頭は澄んでいた。

 かつて恐怖することすら恐れていた自分。本当に怖いのは、正体のわからないもの。どれほど怖くても、目の前に一旦形として現れてしまえば、どのみち後はそれをどうするか考えるしかないのだ。

 上等だぜ。乾史は心の中で呟く。

 ノーコインノーボムノーライフ。ルールはシンプル当たれば即死。どうせ拾ったコンティニュー。

 ならば、この命が続く限り見せてやる。

 一世一代の気合い避け。ギアをトップに叩き込む。まだ試したことのない未知の領域へと。互いの腕の回転はさらに増し、この空間と時間における疾風と拳の濃度をひたすらに高めてゆく。

 閃光=視認不能/嗅覚で回避=頬が剥ぎ取られたかと錯覚。

 五ミリを二ミリに。どこまでもタイトな死線上の舞踏。

 突進=綾なす両腕の砲火をくぐり/回避=待ち受ける罠を食い破って。

 ○×を四択に。より高いリターンを求めてのリスク。

 一ミリ。

 飛び交う弾幕のわずかな隙間に己が身を抛なげうち、果敢に拳を放つ。

 五ミリ。

 少しずつ少しずつ。だが確実に。

 一センチ。

 乾史は『魔犬』との間合いを詰めていた。近づくにつれ、さらに速度を増す『魔犬』の拳。とうに視認出来る領域は越えていた。

 三センチ。

 耳で。皮膚で。そして鼻で。どんな些細な予兆も逃さず。奴の脳に流れるアドレナリンの臭いすら捕らえ、次の一撃を予測し博奕めいた回避。

 五センチ。

 世界がモノクロに変色していく。色彩などという無駄な情報を処理させてやる空き容量はない。

 七センチ。

 遠景の情報も遮断。狼めいた視界へと変貌してゆく乾史。

 十センチ。

「……私の予備動作を嗅ぎ当てるか!?」

 怒濤のラッシュのさなか、『魔犬』がついに声を上げる。本人は意図していなかったが、それは呼吸とともに、自身の集中までも途切れた事を意味していた。

 次に放たれたのは左ストレート。切れ味はかわらず、だが今の乾史にしてみればわずかに緩い一撃。

 難攻不落の要塞に空いた小さな一穴。


 ここしかねぇ!!


 既に百回以上振るっている左腕に力を込め。途切れた弾幕の隙間に身体を押し込む。がら空きの奴の顔面に一撃を、

 ―――そこで。

 膝が、腕が、脚が。一斉に停止した。

「…………え?」

 当然と言えば当然だった。

 とうに限界が来ていた身体を、痛みを遮断して酷使し続けた結果がこれだった。最後の一滴までガソリンを燃やし尽くして、突如訪れた作動停止。全ての時間が止まってしまったよう。

 そんな。よりにもよって今この時に。

 そんな思考も何の益ももたらさず。極限まで引き延ばされた時間の中、崩れ落ちていく己の身体。伸ばした脚が泳ぎ、地面を踏みしめることが出来ない。

「―――」

 『魔犬』、咄嗟に反撃。沈み込んだ乾史に向けて打ち下ろしの右を振りかぶる。

 被弾すれば即死。思考を維持するエネルギーすら燃え尽き、撲殺されるより一足早く意識が暗闇に落ちようとしていた。

 

 すまねえ、サブ。ちっとはオレなりに頑張ってみたんだけど……。

『三つ目のアドバイス』

 こんな時まで響く、朱の声。実に愉しげな顔まで再生されやがる。

 今さらアドバイスもクソもねえってのに。

『そーやって色々せせこましいことしても結局ね。最後の最後は、気合いよ気合い!』

 よりにもよって気合い、かよ。オレの気合いの素ってなんだっけ?

 

 思い起こせ。

 誰かの声が聞こえる。初めて聞いたような、よく聞くような。

 思い起こすって、何を。

 思い起こせ。その足りないアタマの奥から。

 そう、それは。


 ……そう。ここでなら。オレも新しい何かを、つかめるのかも知れねえ。


 ―――混線していた意識が突如回復する。時間が解凍される。状況把握、倒れつつある自分と、打ち下ろされんとする『魔犬』の拳。

 問い=身体は動かない。さてどうする?


  答え=動かないなら……無理矢理動かす!!

 泳いでいた脚で地面を踏みしめ。

「う、」

 一度も使っていなかったその右の拳を。

「うおおおおおおおおおおお!!」

 星まで届けとばかりにただ振り上げた。

 倒れるように沈み込み、一気に全身の力でかち上げる。偶然の産物ではあるが、それはある意味理想的な右のアッパーだった。

 打ち下ろしに移行していた『魔犬』は、完全に対応を誤った。”ボクサー相手にまかり間違っても頭を下げてはならん”……はからずも自身がこれを破ることになるなど、考えても居なかっただろう。

 乾史の右。五百円玉を握りこんだ拳が、『魔犬』の顎を確ととらえる。必殺の軌道。

 だが。ここまで追い込まれてなお、『魔犬』はまだ崩れない。咄嗟に後脚の膝を抜き、後ろに倒れる要領で首を逸らす。


 犬神乾史の最後の渾身のアッパーは―――胴をかすめ、空を切った。

 サブロウが愕然とする。

 乾史が力尽きる。

 貴俊は状況をまだ把握できず。

 そして『魔犬』はかすかに皮肉な笑みを浮かべ。


 その腹から胸にかけて、突如鮮血がほとばしった。

 両者を中心として巡る大気の渦の中、乾史が振り上げた拳が風の径を造り出した。そしてその軌道をなぞって吹き抜けた風……いわば『拳圧』が、本来かすめただけの『魔犬』の胴体を、抉るように切り裂いたのだった。


 吹き上がる血。百八十五センチの『魔犬』の身体がぐらりと傾き。

 そして、床に倒れた。

 誰も、声を発するものはない。

 ―――乾史の勝利だった。

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