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EX2話:『星を見る犬』01

犬(いぬ)

【名詞】

1.食肉目イヌ科の哺乳類。オオカミを家畜化した動物と考えられている。

  よく人になれ、番用・愛玩用・狩猟用・警察用・労役用などとして広く飼育される。

   品種が多く、大きさ・色・形などもさまざまである。


2.(比喩的に)まわし者。スパイ。

   「警察の―」

 
【接頭】名詞に付く。

1.卑しめ軽んじて、価値の劣る意を表す。

 「―侍」

2.似て非なるものの意を表す。

 「―山椒」「―蓼(たで)」

3.役に立たないもの、むだであることを表す。

 「―死に」

       三省堂「大辞林 第二版」より

【諺】「犬が星見る」

 犬が星を見上げたところで何も出来はしない。

  転じて、己の分際を越えること。卑しい者の分不相応な高望み。




「―――イイコトしない?」

  その声音にたっぷり含まれる色気に、ぞくりとした。

  分厚い背広の服地に潜り込み背筋を舐め上げるかのような、甘く澄んだ毒。


 東京でも屈指の繁華街にして色街であるこの通りも、通りを数本隔てれば随分と喧噪は遠くなる。まばゆいネオンの厚化粧も、年代物の雑居ビル自身に遮られ届かない。

 雑木林のように無秩序に建つビルの合間にぽっかりと浮かぶ、一つの小さな公園を通りがかったときのことだった。

 時刻は午後六時半。夏ならいざ知らず、四月下旬の現在、すでに太陽はそのほとんどを地平の彼方に沈めている。空は九割方夜の領域下にあったが、西だけはまだ朱い。それは夜に追い立てられた昼の残党が抵抗して流す血とも思えた。

 この色街を男が通るのは、ほとんど習慣めいた行動だった。普段は自宅と職場を往復するだけの毎日だが、たまにこうして都内に出てくる用事がある。わざわざ遠回りをして、駅沿いに広がるこの色街を迂回して帰る理由など男にはなかった。

 そして通る以上はそれなりの物色をしていくのは当然だ。飲食店街を通れば軽食を、本屋街を通れば立ち読みくらいは済ませるのは義務ですらある。そう理由づけていつものように大通りへ向かう途中、声をかけられたのだった。

「俺に、言ってんのかい?」

 男が振り返ったのは、雄としてのほとんど本能的な行動だった。男と同世代の男性ならまず間違いなく全員が振り返っただろう。公園には小さな祠と、並木と呼ぶにはあまりにもささやかな、四本の桜の樹。

 春のぬるい空気に吹かれ、桜の花びらが舞い落ちる。夕焼けの名残を浴びた仄かな紅が桃とも紫とも言えぬ色合いを作り出し、この世のものとも思えぬ光景だった。

 そして、その桜の木の下に幹に背を半ば預け、『それ』はたたずんでいた。

「そ。そこの背広のおじさん。結構イケてるよね」

「君は高校生、か……?」

 男がそう問い返したのも無理はない。

 たしかに女子高のブレザーを身に纏っている。近所の女子中学生が憧れるという名門女子高のものだが、それ自体はさして珍しくはない。問題は、首から上だった。

 年の頃は十六、七とも思える。艶やかなミディアムの髪は、ゆるやかなウェーブを描いて卵形の顔を覆っている。明るい色合い、絹のような滑らかさと、かすかな明かりを反射する艶色。染色していてはこの艶は出せない。となれば地毛なのだろうか。

 よく見れば、豊かな睫毛に縁取られた、星のように大きな、かすかに紫がかかった黒い瞳。白い肌、すっと通った鼻梁は明らかに日本人離れしており、異国の血が入っていることを確信させられる。

 それでありながら骨太、肉厚になることもなく、日系の華奢な印象と、きめ細かな肌を備えている。欧亜の交流が生み出した、奇跡のような美貌だった。

「サラって言うんだ」

 簡潔な答えとともに、サラは無邪気な微笑みを浮かべた。弾けるように幹から背を離すと、一歩二歩とステップを踏むように歩を進める。三歩、四歩、そして五歩。

「…………!」

 男は思わず言葉に詰まった。挨拶をするなら三歩でいい。会話をするなら四歩でいい。だが、五歩は。

「イイコト、しない?」

 上目遣いに覗き込む。その妖艶なまでの美しさへの驚愕が過ぎ去ると、男の眼には急速に理解と、もう一つ別の感情が広がっていった。

「いかんな、女子高生がこんなところでこんなことをしていちゃあ」

 至極まっとうな台詞だ、表情と声音さえ排除すれば。どうしてこう男の猫撫で声というのは同性異性、誰が聞いても気持ちが悪いものなのだろうか。

「ああまったくなんて事だ。いつの間に日本の教育はここまで廃れちゃったのかねえ」

 言いつつ顔を寄せる。

「……おじさん、もしかして先生?」

 サラの声にわずかに警戒が混じる。

「そうだよお、先生なんだ。君みたいな悪い子には教育的指導が必要だなあ」

 独創性のカケラもない台詞だったが、本人にとってはお気に入りのフレーズだったらしく、馴れ馴れしくサラの肩に手をまわそうとする。サラの警戒が解ける。教師の相手は手慣れているのか、いかにも明るい女生徒と言った表情を作る。

「じゃあ、今日は優しく指導してほしいなっ」

 その腕からするりと抜けつつ、両の掌を合わせ、サラが飛び跳ねる。

「お腹すいちゃった、なんか食べに行こうよ」

 サラが提案する。これまた常套句だったが、ある種の物事については独創性より形式が重要視されることはままある。とくにこういった、毎日違う相手と顔を合わせる『商売』の場合には。ところが、サラの提案を聞いた男は、一転して顔をしかめた。

「どうしたの?」

 男はぼりぼりと後頭部を掻くと、ぼそりと言った。

「いやあ、俺ね、お金ないんだ」

「はあ?」

「いやーカミさんに小遣い制限されちゃってさー。今月もう苦しいんだよね」

 ナハハハ、と笑って腹を叩く。サラの表情から唐突に蠱惑的な表情が失せた。

「あ、お金持ってないの。じゃあまた今度―――」

 振り返って立ち去ろうとしたサラの腕を、伸びてきた男の手が掴んだ。

「ちょ、ちょっと」

「だからさ、いいじゃん、ここでさあ」

 男の脂ぎった声と顔つきを見て、サラの顔に恐怖と緊張がよぎった。


 こう言ってはなんだが、夜の街にも暗黙のルールというものがある。一応のルールがなければ、カネとサービスの取引は成立しない。

 というより、少なくとも夕飯くらいは奢るべきだろうし、ましてやホテル代までケチるというのは言語道断である。確かにルールを弁えて遊んでいる連中は、路上で声をかけられた娘について行くことはない。

 ―――自分がルールすれすれで商売をしていることは自覚はあったが、それにしても今日の釣果は最悪と言わざるを得なかった。

「離してってば、ねえ!」

「そんなワガママいう子には指導が必要だなあ?」

 冗談混じりのつかみ合いが、次第に冗談では済まなくなってゆく。捕まえる側と逃れようとする側の、短いが、不毛で深刻な争い。その拍子に、男の手がサラの胸に触れた。

「……あれ?」

 男の声に、かすかに困惑の色が浮かぶ。思わず胸に掌を押しつけてまさぐる。誰がどの方向から見てもエロオヤジそのものの仕草であるが、この時ばかりは彼の脳裏によぎっていたのは下心ばかりではなかった。困惑がいよいよ強まり、疑惑になったその時。

「―――ああもう、しょうがねぇ」

 わずかに低い声。

 その疑問への回答は、ついに与えられることがなかった。

 眼の奥に突如飛び散る火花。反射的に内股になり、すくみ上がる身体。地面にくずおれる間に意識が途切れたのは男にとって不幸中の幸いだった。全力で膝蹴りをたたき込まれた股間から、時間を置いてせり上がってくるあの地獄の悶絶だけはかみしめずにすんだのだから。


「なんでぇ、これっぽっちかよ。本当にカネねえんだなあ」

 先ほどの教員から抜き取った財布と定期入れの中に指を這わせ、手早く中身を検分しながら、サラは舌打ちした。

「いくら焦ってたからって、客を見る目が曇ってりゃザマあないや」

 頭上を通り抜け、十数秒に渡って続く轟音。山手線沿いに駅と繁華街から少しだけ離れたこの線路脇の公園は、数少ないサラの縄張りだった。

 手慣れた様子で紙幣とカード類を抜き取り、残ったレシートを地面に丸めて捨てる。次にカードを検分。カネにならない診察券や会員カードを側溝に放り込んでゆく。つづら折りになった飲み屋の割引券と風俗嬢の名刺に舌打ちし、引きちぎってばらまく。

「教師なら図書カードぐらい持ってやがれってんスよ」

 次いで引き当てたのは、クレジットカードとキャッシュカード。それに運転免許証だった。いずれも使いようによっては紙幣より遙かにカネになるカードだ。手早く現金に換えるつてもないではない。

 と、定期入れに入っている写真に気づいた。それを見つめること三秒。はあ、とため息を一つ。

「スケベオヤジの報いを家族にくらわすことはねえやなあ」

 家族が大事なら女子高生に手ぇ出そうとか考えんじゃねえ、などと呟きながら取り出したのは、可憐な制服には不釣り合いな十徳ナイフだった。ハサミを引き出し、無造作にカードを刻んで側溝へねじ込む。

 残った財布と定期入れもノーブランド。定期を抜くと、側溝に入らないので公園のクズカゴに捨てた。

「これじゃ二日も食えねぇよ」

 ぶつぶつと文句を言いながら、公衆トイレへ。

 人目がないことを確認し、素早く入る。海外に比べれば格段に日本の衛生環境は良い方だが、それでも都内の公衆トイレは汚いの一言に尽きる。

 そんな中でこの公園のトイレは、まだ新設されたばかりという事と、担当の掃除夫がまめな性格なのか、比較的丁寧に掃除が為されている事が相まって、中々の快適さだった。それもサラがここを根城にしている理由の一つだ。

 個室に入り、扉を閉める。洋式便器のフタを閉め足をかけ、天井近くの貯水タンクの上に手を伸ばす。下からは気づかれない位置から引きずり出したのは、これまた似つかわしくないすり切れたナップザックだった。

 胸元のリボンを解き、ブラウスのボタンを手早く外してゆく。可憐なチェック柄のスカートも引き下ろし白い両脚を抜く。脱いだ制服を、いずれもしわにならないよう丁寧にたたみ、ナップザックに仕舞い込んだ。

 入れ違いに取り出したのは、こちらはザックにふさわしい、洗いざらしのTシャツとジーンズ、くたびれたスニーカー。そして青いバンダナだった。

 ローファーを脱ぎ、ジーンズに足を通す。スニーカーを履いて無造作にTシャツに頭と腕を突っ込み、最後にバンダナを無造作に額に巻き付け、長めの髪を覆う。

 ナップザックを背負うと、サラは鍵を開け、『男子便所の』個室から出た。と、トイレの入口、洗面所の鏡に映った自身と眼が合う。

 そこにあったのは、不敵な面立ちに、俊敏さと抜け目の無さを備えた一人の少年の姿だった。
 
  洗面所で手を洗い、口をゆすぐ。

 今日のオヤジには別にどうのこうのされたと言ったことはなかったのだが、こればかりは気分の問題だった。水を吐き出すと、喉に手をやる。

 流れるような曲線の首筋。その色は、顔との境界のファンデーションに四苦八苦している女性が見たら、嫉妬に狂いそうな白さだ。

 咳払いを一つ。やはり少し違和感を感じる。一月前に比べると、かすかに骨張ってきたような気がする。声変わりという奴だろうか。実際のところ、最近は作らないと女の声が出ないようになってきている。

「この商売も年貢の納め時っすかねェ」

 自嘲げに呟く。

 こんな商売で日銭を稼いでいること自体には罪悪感はない。この街で生きていくのに、腕っ節の強い奴は腕を使う。頭のいい奴は頭を使う。自身の持つものを使うのは至極当たり前だ。

 早く大人になりたいと思っているのに、成長するほどメシのタネが無くなるという事実に、皮肉な感傷を抱いただけの事だ。

 公園を出て、ザックを担いだまま再び今来た道を戻る。たちまち周囲にネオンが満ち、繁華街が目の前に開けた。

 路上でたむろする若者達、道に立つ呼び込みの男達の誰一人として、目の前にいる少年が先ほどの妖艶な少女だと気づく者はいなかった。

「八時半じゃ、もうブックバザールは閉まっちまってんな」

 舌打ちを一つ。東京の数少ない良いところ、それは住人達の生活時間に合わせ、飲み屋以外の店も深夜まで開いている事だった。だがそれにも限度はある。

 レストランやゲームセンターならともかく、中古書店はさすがにもう閉まっている。今日中に歴史の本を買い込み、ねぐらでゆっくり読みたかったのだが、諦めなければならないようだ。

 と、腹がぐるるる、と抗議の声を上げた。今日は『かかり』が悪かったので、夕飯を摂る暇がなかった。

 決断は早かった。

 いつもの牛丼チェーンでメシを買って今夜は帰ろう。そう思い、通りを一本曲がり、裏道へ入った時だった。

「ようサブロウ、いいとこにいるじゃねぇか、オウ」

 横合いから伸びてきた手に、腕を捕まれたのは。

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