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EX2話:『星を見る犬』09

 左のこめかみが、ずきずきと疼く。震える己の膝に力を入れて拳を構える乾史は、だが深刻な自問をせざるを得なかった。

(……オレは、今何をされたんだ?)

 本当に綺麗に決まった一撃は、被害者当人には認識できないことがままある。乾史はこれほど派手に叩きつけられてなお、『魔犬』とやらに何をされたのか理解出来ていなかった。殴られた、のか。オレは殴られたのか。

 ドウシタ、ナグリカエシテミロヨ、マケイヌケンシ

  淵から浮かび上がりそうになる記憶―――両の拳を掲げ、つまらない追憶を沈める。

 さっきのはまぐれに違いねえ、他人がオレの速さについてこれるわけがない。

 先ほどよりは慎重に接近。構えたまま微動だにしない『魔犬』。

 ギリギリまで近づいて。

 一気に跳躍!

 渾身のキックでヤロウの体を蹴/遮断=閃光。

「ぐ!?」

  認識不能=被弾?/驚愕=地面に転がっている自分。

 慌てて起き上がり、そこでようやく、じんじんと右頬に痛みが走っていることに気づいた。

「て、てめえ、今何を…?」

  頬が腫れてくる。二度目の転倒。疑問が自然に口をついた。

「……一つ。基本の基本をレクチャーをしてやろう」

 答える、『魔犬』。その左腕が、拳を握ったまま伸ばされていた。槍めいた異様な長さ。

「ベースとなるスピードが同値であれば、あとは軌道モーションが効率的な方が早い。至極当然の理由だ。

 相手に予測されないよう、予備動作まで消しきればなお良し。様々な格闘技で”最速の一撃”が研究されてきたがね。これに勝るものはなかった」

  『魔犬』が伸ばしたままの左腕を誇示する。

「ベーシックにして、最速の拳技。それがボクシングの左ジャブ」

 たん、たん、たん、と。『魔犬』の爪先が軽やかな跳躍を刻み始める。そのステップが、

「これに練達すると、」

 上下から前へと方向を変えた瞬間。それは来た。


 明滅する閃光/もしくは巨大な爆竹。

 外科医じみた的確・高速六連打/全弾顔面。


  軽いが高速極まりない六撃。頬と顔面をはたかれ、乾史の口腔の空気が漏れ出る。

「あぱっ……!?」

「……とまあ、このように。わかっていても回避の出来ない攻撃となるわけだ」

 顔面を叩かれると、人間は本能的に怯み。そして、激怒する。無様に頬を張られた乾史は、たちまちに屈辱を爆発させた。

「ちまちまと……ウットお、しいんだよテメェ!!」

 腫れ始めた唇で叫ぶ。殴りかかるは左拳。

 だがそのストレートから、『魔犬』は一歩ステップバックするだけであっさりと逃れる。

 憫笑。腕を振り終えてしまった乾史の間合いに、鮮やかにステップイン。

「違う違う、そうじゃない。こう、腋を締めて力を抜いた状態から―――素早く!」

 左拳が閃く/被弾→被弾。

 ヤツの拳から何かが飛び散る/オレの血?今さらに認識する。

 頬=青痣。唇=裂傷。鼻=出血。顔面への殴打は容易に出血する。

「おおおおぉぉ!!」

 がむしゃらな攻撃。突進しながらの右フック、左フック、右フック。

 その全てを、『魔犬』は円を描くように三回のステップバックで捌き。

「レクチャー2。そうしてジャブで相手を牽制しつつ距離を測り。隙を捉えたら素早く体重を乗せて―――」

 左、左。二発の閃光の後に、

 それは来た/轟音=鉄柱による串刺?/認識=判明、”顔面を思いっきりぶん殴られてオレはぶっ倒れた”。

「これ。右ストレートを決める」

 壁際まですっ飛ぶ乾史を見やり、『魔犬』は悠々と己の右腕を掲げた。

「アニキ、アニキ大丈夫ですか!?」

 サブロウがようやく声をかける。バケモノめいた戦いには、割ってはいる余地などない。

 それに眼で大丈夫だ、と答えて、乾史はどうにか身を起こす。熱を持って腫れる顔面、先ほど以上に、ネジが外れてしまったかのような膝。

「なんで……テメエ……そんな動きが出来るんだよ……」

 『魔犬』はその言葉を聞くと、ふぅ、とため息をついた。

「ふむ。どうやらその様子では本当にわかっていないようだな」

 構えをゆるめ、無造作に乾史に歩み寄る。

「教えてやろう。君のその常人離れした膂力はな。人狼の血によるものだ」

「…………あ?」

「じん、ろう?」

 突拍子もない言葉に、乾史とサブロウは言葉を失った。

「人狼、わかるかね?ああ、君達にはオオカミ男と言った方がイメージしやすいか」

 『魔犬』は生真面目な顔で、この場でなければ二流の伝奇小説にしか聞こえない事を語り始めた。

「この世にはね。マンガやアニメに出てくるような吸血鬼や魔法使いが、実は本当に結構いるんだよ。まあ、マンガほど格好良くはないがね。オオカミ男もその一つ」

 奴自身の人間離れした身体能力を見た後でなければ、笑うしかない話だった。

 いわく、昔はオオカミ男がそれなりに多くいたという事。今では普通の人々と交わり血筋が薄まってしまって、オオカミに変身できる者も少なくなってしまった事。

 そしてたまに、先祖帰りを起こす子孫がいること。乾史や、そして『魔犬』のように。

「つまり、君と私は遠い遠い親戚だという事さ。先祖にオオカミ男を持つ、な」

 だから我々は、人ならざる力を身に秘めているのだと男は語った。狼の如く跳び、狼の如く疾く、狼の如く強い、人狼の力。

「……だが。君はまた随分といびつな能力の発現をしたようだな。通常の先祖帰りは、成長期に月の光を浴びる事で己の内なる獣が解放されるのに、君の場合は、まず内なる獣が目覚めて、それを解放するために、無理矢理に月の光以外のものを媒体に見立てて自己暗示をかけた」

 『魔犬』が歩を止める。気がつけば、乾史の背にはもう壁しかなかった。

「その歳で内なる狼を目覚めさせたことは率直に賞賛しよう。だがそれが自身への強力な暗示になってしまっている。己の力を自在に制御する事が出来ず、最初に手にした媒体を使い続けなければならなくなってしまった」

 再び拳を掲げて告げる。休憩時間の終了を。

「本来ならば、自由に己の力を使えねばならんのだよ」

 このようにな、と。『魔犬』は、再びその長い両の腕を構える。その双眸が、金色に妖しく輝いた。壁伝いに立ち上がった乾史が、どうにか反撃すべく拳を握る。

  サブロウの予感は当たった。悪い方に。


 ―――三分が経過した。

 ボクシングの試合なら1ラウンド。インターバルを取るところだが、試合ではないこの戦いには当然そんなものはない。

 いや。これほど一方的なものを、戦いと呼ぶべきではないだろう。喧嘩でもない。私刑ですらなかった。

 それは、演奏。皮を弾く高音と、肉を叩く低音でつむぐビートだった。そこにいるのは演奏者と、彼が奏でるただの打楽器。

「どうした、しっかりしろ少年」

 左右→左腹→左頭→右右→右。

 お手本じみた連撃から強引なまでの押し込み。

「ひとたび『魔犬(バスカヴィル)』の恐怖に呑まれれば。心臓が止まってしまうぞ?」

 左左右→右顎→左頭→右顔→左左右→右顎→左頭→/終わらない循環撲殺。

「レクチャー3。君は防御がザルすぎる。相手の拳ばかりを眼で追っているから、ほら」

 また左左右→右顎→はフェイント/左腹→左頭→右右→右。

 焼き直しの屈辱。

「こんな単純な手に引っかかる。視線は相手の眼に置き、かつ全身を視界に捉えるのだ」

 左左→右フック。コンパクトにしてシャープな死神の鎌。肋骨を強かに打たれて真横に吹き飛ばされる。派手な音。

 もはや何度目かもわからない転倒。周囲のものを巻き込み倒れる。廃倉庫の片隅。そこには、似つかわしくない本棚があった。

「……あ」

 立ち上がるべく手をついた床に、散らばっているもの。いくつもの難しげな本。ぶちまけられた味噌汁と米が、二度と読めないほど汚し尽くしている。傍らには、転がった炊飯器と鍋。もう元に戻らない何か。

「……こ、の、クソ、ヤロウがぁ、あああ!!」

 渾身の怒りを込めた乾史の起死回生の/遮断=右ストレート。

 あくまで丁寧に。左左右→右ストレート、惜しみなくウェイトをサービス。

 片隅の扉をぶち破って、両者は外へ。

「やれやれ、執事の仕事は優雅が基本なのにな。こう血の臭いがついてしまっては」

 懐から小瓶を取り出す『魔犬』。自らに噴霧。およそ似つかわしくない、花の香り。

「香水でもつけなければ鼻が曲がってしまうよ。……君もつけるかね?」

 ひらひらと小瓶を振る。乾史が反応しないと見ると、ため息をついて懐にしまい込む。

「もう少し防御を身につけてくれないとな。サンドバッグを相手にしている方がまだマシだよ」

 そう呟いて。『魔犬』は唐突にその唇の角度をつり上げた。

「―――ふふん、もっとも酷な要求かも知れんな。腰抜け野郎が戦えるはずもない」

 確信めいた口調。乾史に走る悪寒。……こいつは。何を言い出すんだ?

「ここ数日、君の能力を観察させてもらった。そして今手を合わせて、確実にわかったよ。雑な攻撃とザルな防御……その理由は簡単。

 君は、『一方的に相手を殴ったことしかない』。実力の近い相手と技を競ったり、低い勝率に己を賭けた事などないのだろう?」

 悪寒が、疑惑に、そして確信に変わる。―――こいつは、知っている。

「ウチCCCのマーケティング部門もたまにはまともな仕事をする。観察だけではない、ちゃんと君の経歴も調べたさ。この街に来る前の学校で君がどうだったか、とかね」

「や、」

 やめろ、それを、言うな。

「随分とまあ手ひどいイジメられっぷりだったそうじゃあないか。近頃のガキはやることに芸がなくていけないね。

 田舎の学校で、両親が居なくて狼憑きの家系の子とあれば、もう真っ先にターゲットにされる。雑巾で顔を拭いたり、牛乳を頭からかけられたり、なんてのは序の口かな」

  だまれ、だまれ!だまれ!

「……で。結局行き着いたところが、『給食費ドロボーの犬神くん』、というわけだ。クラスみんなの一ヶ月分の給食費を盗んだ犬神くん。なんで?それは親がいなくてビンボーだから。子供の理論は残酷だよなあ」

「あれは、オレじゃ、ない」

 そうだな、と『魔犬』は頷いた。

「実際は君をいじめるために、リーダー格のガキが隠してただけだったそうだがね。だがまあ問題はそんな事ではないさ。度重なるストレスと、鬱屈した怒り。君の中の人狼は、ついに覚醒してしまったのさ。今月の給食費3,500円、その五百円玉を月に見立てて」

  ―――ああ。まるでお月様みたいなんだ。

「最初の覚醒では、己の人狼を理性で制御するのは不可能に近い。またここぞとばかりに随分暴れまくったそうだな。クラス全員、軒並み半殺しとは穏やかではないなあ」

 拳に埋まった歯の欠片。朱い視界。銀色の月。

 脅えきった羊たちの眼。そう、自分は最初からこの群れのイキモノではなかった。

「で、結局身よりもない犬神少年は、そのまま姿をくらまして行方知れずに。それからしばらくして、ヤクザをいじめるのが大好きな、『狂犬』乾史がこの街に現れる、ということさ。めでたしめでたし」

 うるせえ、閉じろよ、その口を、でないと、

「そんな…乾史のアニキが?」

 愕然→いかなる拳打よりも。聞かれてしまった。

 『魔犬』の特大の邪悪な笑み。

「そうですよ佐武朗様。彼の正体は一匹狼の不良少年などではない。キレていじめられっ子を半殺しにして逃げ出してきた、可哀想ないじめられっ子…捨て犬、というわけです」

 足下が砂になった気がする。どれほど殴られても持ちこたえていた気力が、ぶつぶつと音を立てて切れていく。……あの口を、閉じなければいけない。

 全力で突進、もう左も右もない。無我夢中で腕を振り回す。一発でいい、一発でいいから当たれば。

「―――唐突に覚醒した能力者の典型的な悪例だな。なんの努力もなく、一夜にして自分が超人になる。今まで自分の上に居たものを一瞬で追い越す暴力。

 だが、例えば中学生にいじめられた小学生が、成長して高校生になったら、お返しに中学生をいじめる。これは果たして強くなったと言えるのだろうかね?」

 違うね、と断ずる『魔犬』。乾史の腕などかすりもしない。迎撃の開始。

「強くなるとは、己よりも相対的に強い者に抗う意志を持つということさ。それが出来ないヤツは、自分より弱い相手なら殴れる。しかしひとたび自分より強い相手に出会ったら、こうして体を丸めて縮こまるだけ。

 ―――つまるところ、君は能力を手に入れただけで何も成長していないのさ」

 止むことのない殴打。『魔犬』の拳が体の。言葉が心の。支えを次々と突き崩していく。

「君とこの街に巣くうあのチンピラどものどこが違う?強きにへつらい弱きをいたぶる。掲げているお題目が違うだけでやっていることは同じさ」

 腕で頭を庇い、亀のようにガード。その隙間を蛇のようにすり抜けてヒットする拳。

 ……お前に言われるまでも、ねえよ。

「そんな人間がご大層に用心棒などと。思い上がりも甚だしいとは考えないのかね?」

 考えなかったさ、血まみれの教室に怖くなって。家にも帰らずこの街まで逃げてきて、でもそれを認めることが出来なくて。自分が強くなったから自由になったんだとそう思ってた。こないだまでは。だけど、


『地べたをはいずり回っても辛くねえです。いつか、光を手に入れるまでは』


 力もないのに、自分よりずっと強いヤツがいたのだから。オレだって、この街で何かを見つけてみせるんだ。

 もう、ネジどころか底まで抜けた膝を手で押さえて。

 それでも乾史は立ち上がる。



 ―――六分が経過した。

「……ここまで揺さぶっても、まだ折れんとはな。正直意外だ」

 先刻から微塵も乱れないファイティングポーズの『魔犬』。

 もはや立っているのが奇跡でしかない乾史。

「私の観察が甘かったか。それともここ数日で心境の変化でもあったのかね?」

 軽やかにリズムを刻みながら、ふと思案顔になる。

「致し方ない。君が素直に諦めてくれれば良かったのだがね。これでは別の方策を採らざるを得まい」

 男は慇懃な表情と鉛色の眼で、両の手を固く握りしめている観戦者に声をかけた。

「佐武朗様。貴方に決めていただきたいと思います」

「僕、が?」

 歳の割にはずばぬけて明敏なサブロウにも、その邪悪な提案の意味は咄嗟には理解できなかった。

「これから私が、貴方の雇われた用心棒がいかに無能で無力かを証明します。佐武朗様はそれをご覧になり、この少年との用心棒契約を打ち切ってくださればよろしいのですよ」

 執事姿の男の笑み。当主に災いをもたらす呪いの魔犬(バスカヴィル)。

「勿論、貴方が御自分で雇われた用心棒の実力を信じ続けるのも結構です。私は貴方の意見が変わるまで、この少年の無力を証明し続けましょう」

「ま、待ってください。それはまさか、」

 サブロウの声を笑みだけで封じ、

「では。これからは”ちゃんと痛く”打つぞ。泣くなよ少年」

 『魔犬』はその本領を露わにした。

 

 見えない左、かわせるわけもなく。

 こめかみ(テンプル)。頭蓋の中で脳がシェイクされる。

 容易く消え失せる平衡感覚。足がもつれ倒れる、事など許されない。

 突き上げるように左腹、否、肋骨の内側を抉りとり肝臓(レバー)。もはや痛みではない。腹に鉄杭を埋め込まれたような鈍い喪失感。

 サブロウが何か叫んでいる。

「オレは……」

 無力じゃないんだ。力を手に入れたはずなんだ。

 コイツの言うとおりだ。自分より強いヤツと戦った事なんて無かった。逆らう理由なんてない。だって、オレがそこまでしたら、みんな血まみれになっちまったじゃないか。

 掲げた腕の間を通す狙撃のごとき一刺――鼻。ひしゃげた。

 鼻血。鼻の穴じゃない。鼻腔が血で詰まる。鼻呼吸が出来ない。酸素を求め、だらしなく開く口。

 サブロウがまた何か叫んでいる。

「だげど、ぼべばオレは」

 お前を見て、オレも変われると。

「こらこら、おしゃべりよりも手を動かせよ少年」

 顎(ジョー)。

 奥歯→頬肉→舌←奥歯の強制サンドイッチ。自ら噛み千切った舌の血をたっぷり味わう。

 鉄臭い。喉が血で灼かれ口呼吸も出来ない。

 『魔犬』にもたれかかるようによろめく。

 だが闘牛士めいた足捌きで難なくかわされる。/もうとっくに/無防備に晒した背中、容赦なく腎臓(キドニー)、左右とも。丸まることも/まともな意識など/仰け反ることも出来ず、結局無様に棒立ち。力なく振り回す腕、難なく回/なくなっていた/り込まれて趣向を変えた神経叢(プレクサス)、全身に/いつから意識がなかったかも/走る電気。基本に立ち返って鳩尾。肺そのものの呼吸が止まる。右腕で両腕を押し上げられ、フリーの/意識していない。なのに/左腕でガラ空きの肝臓肝臓肝臓肝臓。胃(ストマック)。まだ吐くものが残っていたのか。/その声だけは残酷なまでに耳に届いた。/もう一度脳を揺らす、右の/


「―――解約、します」

 意識が引き戻された。乾史は、耳を疑った。

 きっとオレは殴られすぎて、頭がおかしくなったんだろう。きっとそうだ。だから、なあ、なんで顔を伏せるんだよサブ。

「何を、解約されるのですかな?」

 手を止めた『魔犬』が確認を求める。証言を強いる検事の口調で。裁かれるのは、誰のいつの罪なのか。サブロウは、顔を上げた。はっきりと、聞き間違いようのない声で。

「用心棒契約はもう解約します。…………曾我部の家に、僕は行きます」

 そう、言った。判決が下った。

「だ、そうだ」

 『魔犬』が、乾史に向き直った。下った判決に基づき、検事はそのまま処刑人へと身を転じる。今までの事など何もなかったように、ねぎらいの笑みすら浮かべて、

「ご苦労だったなあ少年。君は用済みだ。さあもう、帰っていいぞ」

 拳を使わずに、フィニッシュブローを撃ち込んだ。

「―――あ、」

 最後の支えが崩れ。

「ああああああああああ!!」

 血を吐きながら乾史は吠えた。もう自分が何をしているのかもよくわからない。ただ、今の自分には、吠えることしか出来なかった。立っていることも出来ない。

 だから喚きながら、両腕を広げて『魔犬』の脚につかみかかる。パンチもフォームもない。子供が相撲遊びでなんとか大人を引き倒そうとするような、切実で、無力な行動。

「よろしい。それではこれが本日最後のレクチャーだ」

 乾史の頭上から、微動だにしない声。

「まかり間違ってもボクサー相手に頭を下げてはならん。さもなくば」

 血まみれの顎に、ふと風を感じた。脚につかみかかる乾史の顔よりなお低い、地面すれすれから激烈に吹き昇る風。その正体は、もう網膜に焼き付くほど見た『魔犬』の拳。

「こうなる」

 今度は、体が吹っ飛んだり、派手な打撃音なんてしなかった。そんなに雑じゃない。ゴルフのベストスイングを思わせる、芸術的な力の集積。

 人狼の筋肉と体重移動と踏み込みのバネが生み出した力が遠心力で劇的に収束・増幅され、ブレず歪まず百パーセント真芯に叩き込まれる、清々しいまでのアッパーカット。

 ぱきん、と澄んだ音を立てて。

 乾史の首から上が、根こそぎ持って行かれた。

 顎が跳ね上がる、などという生易しいものではない。頸椎を支点に、首がぐるん、と縦に回転した。

 後頭部に何か堅いモノが当たる。それが己の背骨だと言うことを、乾史は妙に冷静に知覚する。

 体はまさにうつ伏せに倒れようとしているのに、天を仰ぐ首から上。すでに切れかかっていたヒューズを分厚い鉈で断ち切るかのごとく。

 犬神乾史の意識は完膚無きまでに遮断された。

「一生地べたを舐めていろ。捨て犬」

 全てが暗闇に呑まれる直前、露光したフィルムのように、天を仰いだ乾史の脳裏に最後の光景が焼き付く。

 遠くに灯る、毒々しいネオン。

 コンクリートで矩形に切り取られた、くすんだ曇り空。

 視界の端にぐしゃぐしゃのサブロウの顔。



  ―――くそ。

  星なんか、見えねえよ。

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