壱番街

第7話:『壱番街サーベイヤー』19

 時計の針が二十二時を回った。地方の街であれば人通りは少なくなり、商店はシャッターを下ろし明日に向けての準備を始める。

 だが都内、それも新宿区高田馬場の駅前ともなれば、店舗の終日営業などはごく当たり前。ネオンはより一層輝きを増し、二次会へと向かう酔っぱらった学生達の喧騒に駆り立てられるように、街のせわしなさはより加速していく。

「なんだかなあ」

 駅前の一角、小さなビルの一室に押し込められたファミリー向けのイタリアンレストランのカウンター席のひとつに、七瀬真凛は己の身を押し込んでいた。

 真凛が知る限り、本来このチェーン店は余裕のある座席配置でゆったりと食事がとれるはずだったが、都内の高騰した家賃で利益を出すのは容易ではないらしく、いま彼女は隣の客と肘がぶつかりそうな細いカウンター席に詰め込まれ、女子高生にもお手頃な値段のドリアと飲み放題のドリンクバーに向かい合っていた。

 一通り歓迎会が盛り上がった後、皇女は疲れを癒やすため割り当てられた客間に引き取り、後は残ったメンバー達の単なる飲み会と化していた。来音さんが遅いから家まで送ってくれると言ってくれたが、謝辞し、そのまま自分の足で帰路についたのがついさっき。

 そのまま真っ直ぐ帰宅するだけの事だったのだが……なぜか今、自分はファミレスでドリアをつついている。

 グラスの中には薄桃色の液体。アイスティーとオレンジジュースとソーダを混ぜ合わせたドリンクバー・カクテル。友人から教えて貰ったものだ。

 カバンの中のがま口を開けて、硬貨の枚数と金額をいまいちど数え、注文したメニューが予算内に収まっているか確認する。消費税を忘れずに。

七瀬の家には小遣いという概念がない。母は使う目的さえはっきりしていれば金額の大小に問わずお金を出してくれるが、それ以外には友人達に喫茶店に誘われた時用にごく小額を渡されるのみである。現役女子高生の懐事情としてはお寒い限りであった。

 メニューを見て、テーブルにある呼び出しボタンを押し、店員さんにメニューを告げる。たったそれだけの事にもたつき、ボタンを何度も連打し、店員さんから冷たい眼で見られてしまった。

「……なんだかなあ」

 繰り返し、ため息を一つ。自分の馬鹿さ加減が時々心底嫌になる。いつもこうだ。学校帰りに一緒に寄り道する達、そして仕事で同席するアイツが当たり前のように出来ていることができない。やったことがないからだ。

 この一年あまりで、いかに自分が『箱入り』(その単語すらつい最近知ったのだ)であるかということを、七瀬真凛はつくづく思い知らされていた。

 正直なことを言えば、アルバイトでもないのに夜十時を回って一人でファミレスに居るというのも初めての体験だった。勢いで入店したものの、極めて落ち着かない。今すぐ食事をかきこんで、店を出て行きたくなる。

それも情けなかった。つい数時間前、武道家として新たな境地に達したことを喜んでいた自分がどこか遠くに消え失せてしまったかのようだった。

「映画の約束なんて覚えてないよね」

 またドリアをつつきまわし、そんなことを呟いていた。六本木のオールナイト特撮映画。もちろんそんなものは皇女と出会う前にバタバタとかわした口約束にすぎない。

 自分だって勢いで友達とかわした放課後のお茶の約束なんて、忘れたり反故にされたりするのが当たり前だ。当たり前なのだ。だが、とは言え。

「素敵なひとだったなあ」

 銀髪のお姫様。絵本の中から出てきたような。そして頭がいい。なんか難しい国の話とか戦争の話をアイツとしていた。脳みそを使った難しい会話をする時、アイツは決まってそういう時嬉しそうな顔をする。自分相手には決してしない。どちらの約束を優先するかなど、わかりきっていたことだろう。

 彼女とは何歳離れていただろうか。国と、そこに暮らす人々の事を心から思う優しい女性。彼女、いや、”彼女達”から見れば、自身の事で手一杯の幼稚な自分など、子供、いや、猿か何かに見えているのではないか。

 いやいやそんな事はない。彼女は自分を友人として扱ってくれている。それこそ彼女に失礼だ。いや、だがしかし。

「あああああ~!なんなんだろうコレ」

 頭を抱えてテーブルに突っ伏すと、ドリアの皿が抗議の声を上げる。どうにもこれはよくない。普段シンプルな思考に慣れきった頭が、複雑な問題を解決しようとしてオーバーヒートしているようだった。そんな状態がしばらくつづいた後。

「……あれ?」

 ふとテーブルの端にある伝票に眼をやり、――凍り付いた。

 伝票に記載された合計額が、予算を上回っていた。

「うそ」

 計算を間違ったのか。

 胃のあたりが締め付けられる。そんな馬鹿な。確かに数学は大の苦手だが、いくらなんでも三桁の足し算を間違えるはずが。確認したのに。だが数字には確かにそう書かれていた。

 大慌てでカバンの中をまさぐる。小銭の入ったがま口、学生証、定期を兼ねた交通カード、余白の目立つ手帳と筆記用具、非常食と包帯、通話機能のみの携帯。友人達が口々に『残念』と評するカバンの中身は、それだけだった。

 食い逃げ。無銭飲食。おまわりさん。逮捕。死刑。

 チープな単語が脳内で連鎖しぐるぐると回転。涙目でパニックに陥りかける。この半分食べ残しのドリアを返せば料金へらしてもらえるだろうか。そんな愚かなことを本気で実行しようかと思った時。

「こういうレストランだとね、時間によっては深夜の割り増し料金を取られることがあるんだよ」
 横合いから声がかけられた。

「あー、すまない、ここ、いいかな」

 慌てて振り返ると、そこには二十代後半とおぼしき男が居た。隣の席が空いたので、そこに座ろうとしていたようだった。ほとんど反射的に武道家としての目付を行う。背は高い方だろうか。すっきりとした印象だが、痩せすぎという程ではない。日ごろの運動習慣はないが、本来そこまで不得意ではない、そんなところか。

「も、もちろん。どうぞ」

 慌てて少し椅子をずらし、男の座れるスペースを確保する。

「や、助かるよ。どうも狭いところは苦手でね」

 男はしごくのんびりした挙動で腰を下ろした。その緩やかな挙動に、パニック寸前になっていた真凛の思考は、いったん落ち着きをみせていた。焦ったところでどうしようもない。最悪、電話で実家に助けを求めるという手もあるのだ。

 そこでようやく顔と服装に目が行った。おさまりの悪い長めの黒髪をざっくりと整髪料でまとめ、後ろに流している。穏やかな表情に柔らかな笑みを浮かべ、かっちりとした背広に季節相応のコート。

 服のブランドには微塵も知識が無い真凛だが、とりあえず「高そうだな」という事はわかった。生地や糸がしっかりしている。自分が普段来ているものと同様に。

「学校の先生ですか?」

 ついそんな感想が口をついた。席に着いた男はちょっと虚をつかれた表情で、

「そりゃどうして、そう思ったのかな?」

 と疑問を挟んだ。真凛は赤面した。どうにも考えなしに思いついたことを口にしてしまう。学校やアルバイト先ならいいが、会ったばかりの人には失礼ではないか。

「ええっと、その。頭が良さそうで、教えるのが得意そう、だから……?」

 男はどうやらその言葉をかみしめているようで、感慨深げに何度も呻いた。

「そう言って貰えるととても嬉しいね。こう見えてもその、ぼく、人にものを教える仕事をしているものでね。経営コンサルタントをしているんだ」

 などと言いながら男は手早くスタッフを呼び、スープとサラダ、ピザ、ドリンクバーを注文する。

「コンサルタント、ですか?」
「ああ、うん。高校生だとまだちょっとイメージしづらいかな」
「会社の偉い人とかに、これからどうすればいいかを教える仕事、ですよね」
「へえ、すごいな!よく知ってるね」
「いえ、ただ前にアルバイト先でそういう人に会ったことがあるだけです」

 たしかそのコンサルタントは詐欺に手を染めていた気もするが。

「いやこれは本当に凄い。単語を知っていても実際の仕事内容まで知っている高校生はなかなかいないものだよ。たいしたものだ」

 男は屈託のない笑みを浮かべる。頬のあたりに熱を感じた。日頃、こと知識や知恵については、からかわれることはあっても褒められることはほとんどないのだ。

「あ、そうだそうだ。これ名刺ね。よろしくどーぞ」

 真凛は名刺を見た。黒色の背景に赤字に黄色縁取りのゴシック体ででかでかと『絶対安心!売り上げ倍増!あなたのおたすけ経営コンサルタント!』なる題字、そして『お困りの際はこちらへ!』のコメント共にメールアドレスがあるのみだった。電話番号も、住所すら書いていない。

「…………これ、本物、ですか?」

 いかに真凛でも、まともな社会人がこんな名刺を使うはずがないということくらいはわかる。

「あー。胡散臭いよね。名刺刷る時、この方がインパクトあるから良いって言われたんだけど。……メールでだけ仕事を受け付けているんだよ。あちこち飛び回ってて、事務所もないから郵便物は極力なしにして。ね?」

 慌てて弁解する様が、なおさらに怪しい。

「別に、名乗る分には自由だと思います、けど」

 陽司が以前言っていた。国家試験が必要な弁護士や医者とは異なり、名乗るのに資格がいらないコンサルタントだの社長だのはまず疑ってかかれと。横文字のそれっぽい肩書きがくっつけばくっつくほど怪しいのだとかなんだとか。

「あ、信じてないよねそのまなざし?そりゃ確かにお得意さんの数は少ないけど、結構みんなお金払いもいいし、これでもそれなりに軌道に乗ってるんだよ!?」

 弁明するほど墓穴が深くなっていく悪循環は、店員がおりよく料理を運んできた事で断ち切られた。

「や、これは助かる。……良かったら、ピザたべる?」
「えっ」

 反射的に皿に視線を移しかけ、目を伏せた。正直なところ、今日の乱闘続きで昼に食べたタイカレーはすでに消化し尽くしており、ドリア一皿程度では到底カロリー消費を補いきれていなかったのである。

「ぼくこれでも体型維持のためにカロリー制限しててね。半分も食べないから。どーぞどーぞ」

 年寄り臭いセリフとともにボリュームあるピザの皿を差し出す。理性と礼儀と食欲が二秒ほど葛藤し、後者に軍配が上がった。

「そ、それじゃあ、少し、頂きます。……今日もお仕事帰りなんですか?」
「んー、ちょっと違うかな。夕飯は軽く済ませて、仕事をするのはこれから。お客さんがどうしても夜がいいって言うんでね。せっかくだから、昼は東京観光に回したんだよ」
「観光、ですか?」

 思わずまじまじと見てしまう。この男の顔立ち、そして発音は完璧に日本人のものだった。今日一日(名目上の)観光案内をしていた浮き世離れした銀髪の皇女と比べるとどうにも違和感がぬぐえなかった。

「ああ。ぼくは日本人なんだけど、最近ずっと日本を離れていたんだ。せっかく戻ってきたから、東京の思い出の場所を巡っていたんだよ。会いたかった人も二人ほどいたしね。いやはやさすがはトーキョー、ちょっと目を離すとすぐビルが生えてくる。思わず刈り取りたくなっちゃうよ」

 高層ビルを空き地に生えた雑草か何かのように言う。

「ぼくが昔居た大学も近くにあってね~。変わってるものもあり、変わっていないものもあり。懐かしくってついつい長居しちゃったよ。あ、会いたかった奴ってのは大学の後輩なんだけどね、あいつめ、学校サボってバイトに精を出してるらしく、いなかったんだよ」
「あ~、やっぱりそういう人、多いんですか」
「多いねえ。まったく困ったものだ。学生の本分は勉強だと言うに。――まあいいよ。会いたかったもう一人には、今ここで会えたからね」

 男は屈託のない笑みのまま、真凛の顔をじっとみつめた。

「――え?」
「七瀬真凛、さんだよね」

 真凛の瞳孔がすっと細くなる。もしや先ほど倒した『南山大王』の関係者か。そこにはすでに世間に疎い女子高生ではなく、武道家の顔があった。警戒に気づいたのか、男は大げさに両手を振った。

「あーいや!ごめんごめん!これじゃ完全に不審者だよね。言い直すよ。アルバイトで陽司のアシスタントをしてる子、だよね?」
「えっ!陽司の知り合いなんですか?」
「昔ね。結構これでも、仲は良かったんだよ」
「昔のアイツ、……って」

 どんなヤツだったのか。以前少しだけ聞いたことがあったが、その時はケンカ状態でありとても教えてくれる状態ではなかった。この男は知っているのか。そう疑問をぶつけようとした時。

「やー君のことは知り合い経由で良く聞いててねー。陽司のやつが事あるごとに君のこと語っているっていうから気になって気になってさ。いやはやいやはや、まさかこんな可愛らしい子と毎日一緒にバイトしているとは!あの人間不信のひねくれ者にはちと果報が過ぎるというものだよ。バイト先が高田馬場にあるっていうから寄ってみたらまさかのドンピシャ」
「っ、そ」

 そうなんですか?知り合いとは誰なのか?というか、亘理陽司が自分のことを事あるごとに話しているとはどういうことか?可愛らしいとはどういうことか?というか貴方そんなに陽司と親しいんですか、どういう関係ですか――瞬時に脳内が複数の疑問で焼き切れかけ、言葉が詰まる。どうにか口を開こうとしたが、

「――そうなん、」
「飲み物お代わりいる?」

 結果、七瀬真凛はいずれの質問も口にすることはできなかった。
 

 
「好きなものを頼んでよ。まあ、お代わり無料のドリンクバーだけど」
「あ、じゃあ、コーラを」

 男が自分と真凛のグラスを持って席を立つ。さすがにそれは申し訳ないと真凛も席を立ち、結果二人揃ってドリンクバーのマシンの前で話し込んでしまっていた。

「はいコーラ。ふふん、じゃあぼくはちょっといいものを飲んじゃおうかな」

 男は何やら自信ありげに言うと、氷を放り込み、まずはアイスティーを半分ほどグラスに注いだ。

「これにね、オレンジジュースと、ソーダを混ぜる。これがちょっとしたカクテルになって美味しいんだよねえ。どう、知ってた?」

 満面の笑み。今の今まで自分がそれを飲んでいたことを言い出せず、真凛は曖昧に頷いたまま、男がマシンを操作するのを見守った。


「このアイスティーみたいなものさ」


 マシンを覗き込んだまま、男が唐突に呟いた。

「……。……は?」

 咄嗟に文脈が把握できず目を白黒させる真凛に構わず、男は言葉を続けた。

「君の最初の質問。昔のアイツ。亘理陽司ね。アイツはそう、こういうアイスティーみたいなもんだった。味もある。色もある。でも甘くなくて、まあ透明でね」
「……ええっと」
「でも、ね」

 男はボタンを操作する。マシンが稼働し、オレンジジュースがグラスの中に注がれていった。透明な琥珀色の液体に、橙色の不透明な液体がまざり、どちらでもない新たな液体に変わってゆく。

「今のアイツは……そう、こんな感じかな」

 続いてソーダ。透明の液体と炭酸ガスが注がれ、また液体が変質する。男はさらにボタンを押した、ジンジャーエール。グレープジュース。今度は烏龍茶。

 新たな液体が注がれるたびに、グラスの中身は色も、味も、見た目も、混ざり合い変化していった。最初は数色が混じり合い綺麗だった色も、種々雑多に混ざるうちにどんどん濁り、汚らしくなっていった。

「調子に乗って片っ端から色々混ぜちゃってさ」

 グラスを掲げた。自身が言っていたメニューとも明らかに違う、謎の液体。

「もう最初にグラスの中に入っていたのが何か、それすらもわからなくなっちゃっている。ばっかだよねえ」

 ストローを差し込み、軽く口をつけ、顔をしかめた。まあ、美味いものではないだろう。


「君にはこれ、何に見えるかな」


「へ?」

 男の奇妙な言動にいいかげん突っ込もうと思っていたのだが、さっきからどうもことごとく機を外されてしまう。

「何……って」
「『異物が混じったアイスティー』かな。それとも『いろいろ混ぜ合わせた炭酸カクテル』?『飲むに値しないゲテモノ』?君の意見は、どうかな?」

 
 試されている。

 
 唐突に、そう感じた。

 
 気がつけば、男はグラスを突きつけて、凝と真凛を見つめていた。その表情は穏やか。だが、決して曖昧な答えをしてはいけない。根拠はないが、直観する。今真凛を包んでいたのは、ストリートで野試合を挑まれた時に似た緊張感だった。男の顔と、グラスの中身を見て。彼女は、己の答えを口にした。


「まず、飲みます」


 男は目を見開いた。ちょっと意表を突かれたようだった。


「それが何かは、飲んでみて、決めます。口にしないだけで、見ただけで決めつけるのは、いやです」


「――うん。うん。そうかあ、うん」

 
 男はしきりにうなずいた。そして何を思ったか、

「あ、ちょっと!」

 ストローに口を付け、お世辞にも美味しいとは言えない液体を一気に飲み干してしまった。

「参りました。ぼくの負けだよ。さすがに女の子にこんな得体の知れないものを飲ませる訳にはいかないからね」

 誰が何に勝って負けたのか、さっぱりわからない。

「いやはや、なるほど。これはあのひねくれ者には、本当に果報すぎるようだ」

 結局、意味もわからないまま、その問答は終わった。


 席に戻り、男は手早くサラダと、残りのピザを平らげ、ナプキンで指を拭った。

「今日は楽しかったよ。ありがとうございました」

 そう言うと、ひょいと二人分の伝票をつまんで立ち上がる。

「あっ」

 あまりに自然な動作のため、真凛にして虚を突かれ、阻止する事が出来なかった。

「ここは持たせてよ。せっかく後輩の頼りになるアシスタントに会えたんだ。ご飯くらいおごらせてやって頂戴」
「……その、ありがとう、ございます。ピザもおいしかったです」
「そりゃ良かった。本当なら君みたいな人とイタリアンなら、ミラノあたりのちょっとイイ感じなトラットリアでお昼でも、ってところから始めたかったんだけどね。今日はまあ、ご挨拶と言うことで」
「そんな!こちらこそ、今日のお礼をしないと」

 気にしないで気にしないで、と男は手を振り――それにね、と呟いた。

「また会えるよ、七瀬真凛さん」
「えっ」


「だって、ぼくの言うことは、”真実になる”からね」


 手早く荷物をまとめ、席を離れようとする。そのとき真凛は、肝心なことを聞きそびれていたことにようやく気づいた。

「あのっ」
「ん?」 
「その……御名前、まだ」

 男はちょっと眼を丸くして、その後苦笑した。

「そうそう、そうだった。君にだけ名前を聞いといて。いかんなあ、どうにもぼくは肝心な所が抜けている」

 面目なさげに頭をかくと、男は真凛の手にある名刺を指さした。意図に気づいて名刺をひっくり返す。表には胡散臭いケバケバしい宣伝文。だが裏返すと、そこには一転して、シンプルな白地に、名前が一つ、あった。


「――影治(エイジ)。宗像影治(ムナカタエイジ)、そう名乗っているよ、今はね」


 影治。どこかで聞いた名前だっただろうか?

「そうそう、ぼくが帰ってきたことは、ナイショにしといて貰えないかな?」
「え、でも折角日本に戻ってきたんですよね?どうせなら会った方が」
「いやいやなに、ほんの数日の間だけ。陽司のやつをびっくりさせたいのさ」
「はあ。……そういうことなら、まあ」

 影治と名乗った男は、徹頭徹尾胡散臭いまま、歳不相応の悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。

「やつとはすぐに会うからね」


『何をやっているのだあのたわけものめが!!』

 怒声とともにワイングラスが宙を飛ぶ。重厚なガラス細工は回転しながら『紅華飯店』ドラゴンスイートの布張りの壁に衝突し、大音声とガラスの破片、赤い飛沫を盛大にまき散らした。

「……ト、ワンシムハモウシテオリマス」
『翻訳は結構ですよツォンさん。おっしゃっていることはわからなくても、何をおっしゃりたいのかはよくわかりますので』

 ほとんど涙目で必死に通訳するツォン青年を大輪の華のような笑顔でねぎらい、美玲は精算時にこの男の宿泊代金がいくら上乗せされるか暗算する。この哀れな青年は、ワンシムらと同じ部屋を使うことは許されていない。おそらく今夜の事変を知ったワンシムに問答無用で呼び出され、泣く泣く駆けつけたというところだろう。

『では改めて報告の続きを。ビトール大佐は雇用した日本人とともに皇女へ襲撃をかけましたが、護衛により撃退。そののち、雇用された日本人達は器物破損の現行犯で逮捕されました。元々大した情報が渡されているでもなく、先方から被害届が出ているわけでもありません。誘拐の片棒を担いだ事が日本の警察に漏れる可能性は低いでしょう』

 ツォン青年が丁寧にルーナライナ語に通訳すると、ワンシムの弛緩しきった体が、水素ガスの量を誤った風船のようにふくれあがった。そして何事かを低くつぶやく。

「……ソレデ、ビトール大佐ハドウナッタノカ、ト訪ネテオリマス」

 つたない日本語訳に、颯真が大げさに手を広げ、首を振ってみせる。

『我々の支援チームが状況の隠蔽に駆けつけたときには、姿が消えていました。一度立ち去った皇女の護衛達が再度連行したとは考えにくいので、まあ、逃亡したと考えるのが妥当ではないでしょうか』

 本当にそれを訳すのか、半分涙目で訴えてくるツォン青年に、先ほどと同じく華のような笑顔で促す。美玲は笑顔のまま、颯真は露骨に両の耳に指を突っ込んで雇用主の激発に備えた。

『~※○△#×○※○△#☆◆!!?』

 水素ガスが破裂するような、音だけ大きく威厳のない怒声は、ツォン青年が訳さなかったことと、聞き手の二人がまったく興味がなかったため言語化されることがなかった。居眠り中にしっぽを踏まれた太った家猫のように毛を逆立てて興奮するワンシムの罵声の嵐を、美玲は一分の隙もない笑顔でやり過ごす。

 笑顔とは裏腹に、決して彼女の内心は穏やかではない。依頼を受けてこちらで立案した活動計画を二度も無視して暴走されたあげく無様な失敗をし、そのたびに事態を悪化させているのだ。

 MBSの商習慣はより大陸のそれに近い。身がすり切れるような思いで顧客の無茶に応じる日本のシタウケ企業とは異なり、契約外のことに責任を取るつもりも取らされるつもりも毛頭ない。尻ぬぐいの代金を上乗せしない分だけまだ良心的だろう。

 罵声とともにテーブルクロスや灰皿が飛び交う。美玲は主に向けて飛んでいこうとした万年筆を鮮やかな『纏』の動きで絡め取り、颯真はそれをごく当然のこととして傲然とソファに身を沈めていた。

 この程度の男が怒ったところで出来ること、やらかすことなどたかが知れている。怒り疲れたところで改めて今後の話をするつもりだったが、その怒りは意外な形で収まった。ワンシムの携帯電話がアラームを鳴らしたのだ。餌を与えられた猫のように携帯に飛びつく。

『!!っ、メールか……!ハハ、ハハハ!ハハハ!!さすがだ!さすがはセンセイの根回しだ!』

 メールの内容を読み進むにつれ、今度は喜びのオーラがみなぎってくる。ひとしきり哄笑をばらまいたあと、ぎらついた視線を向けた。

『聞け、おまえ達。かねてから水面下でコンタクトしていた中南海とクレムリンの有力者の方々が、金脈の情報と引き替えに私の支持に回ってくれることが確定した。これがどういうことか、わかるか?ん?』

 ツォンの訳に、颯真の視線が刃のように細められる。実際に答えたのは美玲だった。

『まずはお祝いを申し上げますわ、閣下。隣接する二大国の主流派の支持を得たということは、ルーナライナの次期国王の座が内定したということですものね』

 愚かで操りやすい傀儡の売国奴として。続く言葉を喉奥にしまい込み、卑屈さの欠片もない完璧な追従の笑みを浮かべた。

『そうだ、そういうことだ!それはつまり、中南海の方々に、今回この案件を担当したおまえ達の覚えがよろしくなると言うことでもある。おまえ達はなんとしてもあの小娘から情報を奪うのだ。いいな!?』

 元からそのつもりで動いているのだ、と口を開こうとした主を、美玲はわずかに視線を寄せて制し、心得ておりますとだけ告げた。

『それにしてもビトールの愚か者めが!こんな時にこそ奴が必要だと言うに。手柄を焦り専行しおって、知恵の足らぬけだものめが!』

 その言葉に、颯真と美玲は一瞬だけ互いの目をからませる。だが結局は無言のまま、ドラゴンスイートを退出した。口にはしない。だが主従の表情が、言わんとすることをはっきりと物語っている。
 

 ――まったく、さんざん余計な回り道をさせてくれた。

 これでようやく、我々のやり方で戦えるというものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?