壱番街

第7話:『壱番街サーベイヤー』30

 颯真の四肢がすさまじい勢いで駆動し、拳、掌打、弾腿、猿臂、膝、踵が叩き込まれる。それぞれに恐ろしいほど勁が充実していることが、素人目にも見て取れる。それぞれ四征拳の名のある技なのかもしれないが、もはやブーストをかけたおれの目でも視認することは不可能となっていた。

 それを真凛は適切に受け、払い、捌く。すでに先の『纏糸勁』で脚が殺されていた。振動により毛細血管が損傷し、全身の各所で内出血が起こっているだろう。歩法を用いて翻弄することは不可能。必定、超接近戦に活路を見出さざるを得ない。

 そして勁を纏った颯真の肉体は全身が攻撃を弾く鎧であり、触れれば裂ける爆弾でもある。精密機械じみた体捌きで『化勁』を施す。受け流された勁が大気を弾き、床の大理石を粉砕し、両者の周囲で無数の異音を奏でた。

 そして嵐の隙間を縫って真凛の貫手、前蹴りが精密狙撃じみて繰り出される。

 颯真のものより早く鋭い、刺突めいた連撃。急所を狙う一刺しと見えて、防ぐためにかざした腕の肉をえぐる。指先、折れた手首、爪先。末端を破壊して崩していく七瀬の技。だがそれも、勁の充実した筋繊維にワイヤーロープのごとく阻まれ。落城どころか開門にも至らない。

 だが真凛はそれに頓着せず愚直に末端に打撃を重ね、徐々に颯真を損傷させていく。他方、颯真、それにすら頓着せず己の攻勢を緩めない。受けようが流そうが、真凛に勁が浸透し、徐々に身を削っているという確信があるからだ。


 鋼を点穴が穿つのが先か。

 嵐が堤を押し流すのが先か。


 眼前で繰り広げられる凄まじい戮技の応酬に、もはや部屋の観衆たちは呼吸すらまともにすることが出来なかった。


「貴様に負けて!」

 颯真――『朝天吼』が、異名のとおりに吼える。盤打、膝折。かわされる。

 残された左腕。すでに袖は裂け、腕が顕になっている。苦き敗北の証、無残な傷跡。

「感謝しているぞ。俺の鼻をへし折り、上の世界を垣間見せた事をな!」

 真凛の身体が削れ、化勁の精度が決定的に崩れた機を逃さず、颯真が仕掛けた。


 颯真の左の掌の五指が、独立した軌道を描く。

 真凛は咄嗟に視線をそちらに向け、罠にかかったことを知る。

 
 六十五手の二十、曲技(くせわざ)・『菊画盛開(きくのかいかにいつわりあり)』


 五指と手首、掌、肘の連携を分解し、それぞれ全く異なる方向に動かすことで、八種類の攻撃の起こりが混じり合った奇怪な動作を生み出す。先読みに頼る者ほど、どの攻撃が来るか迷い、惑い、自滅する。悪辣な八者択一、間違えれば死する幻惑の拳。重心から虚実を読む真凛を、颯真は消耗を読み切り、機を待ち、そして五指に必殺の勁を込めることでついに欺いてみせた。

 真凛は八択に挑む――重心から即座に四択までは絞れる。こちらも攻防一体の掛け受けを放ち、二択を潰す。二分の一……いや、構わない。確実に仕留めるか、相打ちで仕留めるかだけだ。

 八択の正解は……薬指。即座に幻惑の拳は把子拳へと化け、真凛の右肩を痛打粉砕する。徹し。大口径を被弾したかの如きヒットストップ。だがその時点で真凛は身体の軸を縦に切り替えていた。強敵たちとの死闘から得たもの。羽根車めいて右肩への打撃を左腕に流し、鉈めいたコンパクトな猿臂へと集約し、颯真の鎖骨を叩き折った。

「……ッ!」

「……ッ!」

 苦悶の声を上げることは許されない。呼吸が切れれば戦意が切れる事を両者が知っていた。真凛はそのまま諸手突。これを読んだ颯真、『纏糸勁』で弾く。転じて劈掌、読んだ真凛、体を開いて避け腕を捕りに行く。読んだ颯真がその空間にねじ込むように『十字勁』、だが真凛、これを読みかわす。

 颯真、渾身の踏み込みで背中を向けてしまう。

 千慮の一失。

 真凛、掌握。

 腕が伸びる。

 脊髄を握りつぶさんとする『殺捉者』の戮技。

 だが。

 
「――これで終いだ。貴様に預けた俺の誇り、今こそ返してもらう!」

 十七手かけて撒いた餌、紡いだ罠。

 脊髄こそが囮だ!

 背中への一撃を避けるように体を沈め、――勁を蓄積、解放。前でも左右でもなく、爆薬めいて後方へ――。背後は決して無防備ではない。分厚い背中は靠とも呼ばれ、勁を通せば鋼の盾のごとく、防壁にして打撃武器となる――!

「ぐっ!」

 床が破損した。もはやあったはずのカーペットは霧消し、大理石の化粧は無残に剥がれ、コンクリートにいくつもの亀裂が走っている。

 真凛は避けられなかった。

 背中と正面衝突すれば体格に劣る真凛は吹き飛ばされ、大ダメージを追うだろう。

 だから。

 咄嗟に体を浮かせ、衝撃の威力を上方向に逃した。


 真凛の体が、宙を舞う。いつぞやの再演。

 だがこれこそが颯真の布石であった。

 颯真の真上に、真凛の体躯。

 
 軸をずらすもなにもない。


 真っ直ぐ突けば、貫く。

 ――絶技、解禁。

 四征拳六十五手の六十。

 絶紹・『陰陽巡刻幾星霜(おんみょうめぐりてただときをきざむ)』。


 『纏糸勁』による螺旋双掌打。

 『沈墜勁』による勁を、『十字勁』で減ずる事のない唯一の方向――上方に完全反射。

 両腕に『纏糸勁』を纏い左右異なる回転を放つことで、触れるものの体内に無秩序な振動の嵐を生み出し、全てを分子レベルで粉砕する四征拳の奥義である。

 コンクリートの床が陥没し、大理石の破片と粉塵が宙を舞う。

 颯真は肺腑、内蔵、丹田、そして筋肉に貯めた最後の勁を、ここで完全に焼灼しきった。周到に罠を張り、あらゆるリソースを使い切り敷いた、必殺の布陣。

 七瀬真凛は方向の異なる螺旋状の勁を二つ叩き込まれ、ねじれ、ちぎれる。

 そのはずだった。

 ――これは負けたかな、と正直思う。

 颯真の技量と、用意周到な策と、それを極限まで潜ませ、機が熟すまで持ちこたえたその忍耐に、素直に尊敬すら覚える。

 ――試合なら、これで負けてもきっと悔いはないと思う。別に無敗を売りにしているわけではない。尊敬できる相手と技術を高め合えたなら、それは勝利でもある。

 でも。

 負けちゃいけなかった気がする。

 なんでだろう。

 ――そう。あの紫水晶の瞳だ。向かい風の中に、立ち向かう決意。

 だから、自分も――

 七瀬真凛は、落下しながら下方に両の掌をかざす。


 そして、迫り来る颯真の必殺の双掌打にはわせ、指を絡め、手をつないだ。

 歯車に歯車を噛ませるように。


「――――」


 死ぬと思って、固まるのではない。

 死んだように、柔らかく脱力。

 
 真凛に触れて全身をねじ折るはずだった螺旋は、真凛の両腕にそれぞれの単方向の螺旋として伝わり――肩を通し、僧帽筋へと抜ける。

 必殺の殺人歯車二つをこじ開け。そこにあるのは颯真の頭。

 真凛は落下しながら、颯真の放った螺旋を化勁により首と頭部に収束させ。


「颯真ァアアア!」
「七瀬ェエエエエ!」


 渾身の力で、落下速度を載せて額を叩きつける。


 がぁん、と。

 人体と人体をぶつけた音ではありえない音が、部屋に響いた。


 真凛が、地面に落下する。凄まじい脳震盪で、視線が定まらず立ち上がれない。

 颯真が、仁王立ちのまま真凛を見下ろす。

 最後の力で、脚を上げて下ろせば、全てが終わる。


 重油の海から引き抜くように、膝を持ち上げ……。

 額が割れ、血が流れ出す。

 
 そして、そのまま劉颯真は失神し、転倒した。

 
 
 ――七瀬真凛の、勝利だった。
 


 
 
 
 
「――負けた!」

 五分近く、誰も身動き一つ出来なかった。

 異常な沈黙の中、意識を取り戻した颯真の第一声がそれである。

 天井を仰ぎ、颯真は絶叫した。

「負けた……」

 顔を覆い、呻く。


 それを笑う気にはなれなかった。

 気が遠くなるほどの鍛錬を注ぎ込み、技術を積み上げ。

 それでも僅かな差異、運で勝負は覆り、敗者には何も与えられない。

 武に生きるということは、そんな絶望と常に隣り合わせなのだ。


 真凛は、颯真に何も声をかけず、静かに座して、呼吸を整えていた。

 勝者からの同情は何より敗者を傷つける。真凛はそれをよく知っているのだ。ましてや紙一重の勝利である。一歩、いや、半歩間違えば、今頃、纏糸勁により絞られた雑巾のようにねじれて床に転がっていたのは真凛の方だったのかもしれないのだ。

 MBSのメンバー達は、当主候補の敗北をどのように受け取っているのか。おれは目を凝らしたが、いずれもサングラスをかけており読み取れない。失望か。あるいは――。

「……七瀬」

 顔を覆ったまま、颯真が声を絞り出した。

「……うん」
「……次は、俺が勝つ」
「次も、ボクが勝つ」
「俺だ」
「ボクだよ」
「…………ふん」

 流血した額を拭い、状態を起こす。

「師父のもとで修行のやり直しだ。四征拳の七句、八句に反応されたとなれば、もはや秘奥などともったいぶっている必要もない。全て学び、全て実戦で鍛え上げ――貴様に叩き込んでやる」
「そりゃいいね。ボクもさっきの立ち会いで、また色々コツが掴めそうな気がしてるんだ。自分だけの努力じゃ限界があるけど、君みたいな奴と戦えば、もっと強くなれる気がする」
「……つくづく化生だな。貴様は」

 ふらつく身を起こす。

「……だが。今の台詞。貴様にそのまま返す。今までは身内の者と拳を交わすばかりだった。お前のような男と戦い続ければ、きっと俺もまた、一人ではたどり着けない領域まで踏み入れる気がする」
「そうだねー、って、ん、んん?」
「なんだ?」

 おれは思わず、隣の美玲さんを見た。視線をそらす瞳術の使い手。――間違いない。知ってて黙ってたな?

「颯真。その、なんだ」

 誰かが声をかけねばならぬ。

 おれは皆の嫌がることが率先してできる、偉い子なのであった。外圧に屈したわけでは決してない。殺意のこもった視線がこちらに向く。

「今更何だ、亘理陽司。敗者を嘲りに来たか」

 貴様を殺すくらいの余力は残っているぞと言わんばかり。

 いや、その。まさか気づいていないわけではないだろうが。だって制服姿も見てたはずだぜ?

「そいつ、一応女だぞ?」
「……、……えっ?」

 フリーズしている颯真を尻目に、おれは美玲さんに話しかけた。

「これで決着、で問題ないですかね?」

 これ以上彼女に暗躍されてひっくり返されるのは、正直勘弁してほしかった。

『ご安心ください。メンツにかけて、貴方達の勝利は保証します』
「そりゃどうも。……仕事での対立じゃなきゃあ、アイツがMBSのトップに立つのは一向に構わなかったんですけどねぇ」

 颯真の他の兄弟の噂はおれも多少は耳にしている。いずれも性格や能力がなかなか尖っているようで、どう転んでも、あまり今後も良好な関係が築けるとは思えそうになかった。

『これは決して痛手ではありませんよ。貴方達には感謝をせねばなりません』
「そりゃまた……」
『拳はともかく、仕事としては坊ちゃまはまだまだです。敗北し、学ぶ程に強くなる。多少の回り道や秘奥の流出など、一人の王を誕生させるには大した不都合ではないのですからね』
「強がり、じゃなさそうですね」

 おれは肩をすくめた。

「さすがは大陸の考えだ。投資スパンが長すぎて、目先の仕事に追われるおれには到底真似できそうにありません」
『亘理さん。私からも聞きたかったのです。『箱』を開けたのは昨夜だとして。経産省に外務省。ルーナライナのアルセス派。いったいこれだけの絵を、いつのまに描きあげたんですか?』

 そこらへんは奥ゆかしく黙っているのが美徳という気もするが。

「……経産省と外務省は昔の仕事のコネとか先輩の上司とかをたどりましたよ。ルーナライナの人たちにコンタクトして信用してもらうのは大変でしたが、ビトール某をやっつけたことを土産話にしたら大層意気投合しまして。なんとか十二時間で仕込みを済ませられました」

 おれのコメントに、美玲さんはお返しとばかりに肩をすくめてみせたた。

『やはり、何を措いても貴方を先に制圧しておくべきでした。自由にしておくだけで貴方はリスクです』
「褒め言葉と受け取っておきますよ」

『あ……お、お前がルーナライナに戻ろうと、国王に何を上奏しようと』

 眼前で繰り広げられた超人的な武術に圧倒されっぱなしだったワンシムが、ルンバで運ばれる猫みたいな表情で口をぱくぱくと開閉した。

『私には後ろ盾がある。すぐにでも鉱脈を抑え、掘り出してやるぞ』
『構いません、叔父様』

 ファリスが視線を返す。ワンシムはそこでようやく気がついた。そこに居たのは、自分が知っている、争いを避け、宮中の端で息を潜めていた娘などでは、もうないということに。

『これは私の宣言に過ぎません。権限と地位がありながら、それを行使することを恐れ、何もしてこなかった今までと、決別するための。私は貴方達に与する勢力を排除し、ルーナライナに今一度、誇りと平穏を取り戻します』
『こ、小娘がッ!調子に乗りおって、何様のつもりか!?』

 その問いに、彼女は一瞬自答するようにも思えた。

 そして。静かにこう答えたのである。


『私はファリス・シィ・カラーティ。ルーナライナ国王アベリフの第三皇女にして、大帝セゼルの系譜に連なるものです』


 ワンシムは何か言い返そうとして、果たせず。

 半歩後ずさった。それは、ひょっとしたら後のルーナライナの姿を指し示していたようにも、おれには思えた。


「やー、おつかれさん。大変だったね。さ、これ以上変な因縁をつけられないうちに帰りましょ。忘れ物ない?」

 おれはぱたぱたと手を振って、皇女に帰り支度を促した。

「亘理さん。もしかして、取引の場に全員を集めて、『鍵』の謎を解いてみせたのは……叔父様でも、MBSの人たちでもなく。私のためだったのでしょうか?」

 結局のところ、この問題を解決できるのは、お宝でも異能力者でもなかった。それに思い当たった時点で、おれがやるべきことは定まったようなものだった。おれは野暮な答えはやめて、質問をあえて質問で返すことにした。

「ところでさあ、知ってる?。タンタル、タンタライズ。それには『焦らされる』の他にもう一つ意味があるんだってさ」
「え?」
「――耐え忍ぶこと。タンタルは発見から実用に至るまで、ずいぶんと試行錯誤や困難があったんだそうだ。でも、ついに彼らは目的を達した。そして今、あらゆるデバイスで、タンタルを用いたコンデンサが使われている。だから」
「はい。きっとこれから、今までとは比較にならないほど苦しい道のりが待っているでしょう。でも、決めたんです。セゼル大帝が、アルセス兄様が。切り開き、つなごうとしてきたこの道を、きっと、届かせてみせるって」

 皇女は笑った。可笑しくも、楽しいことでもないのに。

 だが、それは今までの控えめの笑みよりもはるかに――。

 砂漠の夜に広がる満天の星空のように、美しい笑顔だった。

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