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EX2話:『星を見る犬』08

 その日は土曜日だった。

 あいにくと空は雲に覆われていたが、春の陽気は充分に辺りを暖め、街行く人々の顔も心なしかのんびりとしているようだ。

 夜になればどこからともなく怪しげな人々が集まってくるこの街も、昼はごくごく普通の繁華街の顔を見せている。

 休日と言うこともあり、喫茶店はオープンテラスを展開し、アイスクリームやクレープの移動店舗が陽気な音楽と甘い匂いをあたりに振りまく。ストリートミュージシャンや大道芸人が鍛えた一芸を披露する間を、何人もの親子連れやカップルが流れてゆく。

 この世に不条理なことが無数にあることなど忘れてしまいそうな、穏やかなひとときだった。

「しっかしわかんねーな。そんな本がホントに欲しかったのかよ?」

 その通りを流れる人々の中に、乾史とサブロウの姿もあった。サブロウはといえば、『中古本ならブックバザール!!』なるコピーの入ったビニール袋を大事そうに抱えている。

「ええもう。特売コーナーにあったのは前々から知ってたんですが。いつ他のヤツに買われちまうんじゃねえかと冷や冷やしてやしたぜ」

 抱えた袋から垣間見えるのは、『貿易立国論』とやらいう小難しい本だった。

 なんでも聞くところによると、普通に買えば一万円近くするらしく、この本を古書店で購入するためにサブロウは金を少しずつ貯め込んできたらしい。

 乾史にしてみれば、こんなクソ重くて字が多い本、百円で売っていてもとても買おうとは思えなかったのだが。サブロウは余程読みたかったらしく、袋を空けてしまい、時々表紙を眺めてながら通りを歩いている。

 乾史はといえば、手持ちの少ない金を奮発して大振りのフランクフルトを買ったはいいものの、迂闊にもケチャップではなくマスタードソースをつけてしまったのだった。おそるおそる舌を近づけては辛さに引っ込めるという無様をさらしている。

 朱が弁当配達の仕事に休みをくれたため、やることのない二人はこうして午後の街に繰り出してきたのだった。二人とも派手に遊べるような金はなかったのだが、ゲームセンターで乾史が得意のシューティングゲームを披露したり。

「アニキ、もう残りの機体がねえじゃねえっすか!」

「ばっかやろう、ここからだぜここから。ノーコインノーライフノーボム、ここまで追い込まれればよ、あとは気合い避けだぜ!おおお!シューティングの神が降りてくるぜぇぇぇええっ!!」

 そして、サブロウが地元の人間しか知らないような穴場をいくつも紹介したりする。それなりに楽しい一日。

 五時間ほどがあっというまに過ぎてしまい、陽の傾き始めた街を、ねぐらへととって返す。派手な看板が姿を消し、古びた廃倉庫が姿を現した。

 すでに夕飯の材料も買い込んである。あとはいつものように自炊を済ませ、明日に備えて眠るなり、買ってきた本を読むなりすればいい。

 それで今日という一日は、どちらかといえば幸せな領域に分類されて終わる。


 その、はずだった。

 ねぐらで待ち伏せていた、その男に遭遇するまでは。
 


「お迎えに上がりました、佐武朗様」

 その男、異様に長い手足を持ち、執事のような服に鎖と髑髏を模したアクセサリーを身につけた若者は、ごく穏やかな表情で、サブロウのねぐらである廃倉庫の中にたたずんでいる。

 いくら廃倉庫とは言え、仮にもねぐらだ。オモチャと大差ない安物とは言え、鍵もかけていたしそれなりに警戒もしていた。

 だというのにこの男は、まるでここが馴染みある自分の庭であるかのように、至極当然に居座っていた。

「……まさ、か」

 かすれたサブロウの声。

「なんだテメェは!?」

 反射的に乾史が吠え、前に一歩進み出る。

 だが男は、乾史には一瞥すらくれることすらなく、作法に従いサブロウへ向けて優雅に一礼する。

「テメェ、シカトこいてんじゃねえよ!?」

 男の露骨な悪意に、たちまち乾史の感情が沸騰する。男はわざとらしく、そこでようやく乾史に気づいた風を装い、鉛色の眼を向けた。

「ふん。―――では言葉を返してやろう。貴様こそ何者だ?そこにいる方は、貴様のような浮浪児が気安く声をかけていい人ではないぞ」

「あ?」

 思わぬ言葉に、怒りの方向をそがれる。男は腕を組み乾史を見下ろす。自らの発した言葉の影響を楽しむかのごとく。

「そちらのお方の名前はな。曾我部(そかべ)佐武朗様とおっしゃるのだ。伝統ある華族にして、貿易で財をなした曾我部家に名を連ねる一員。貴様ごとき雑種とは、血統からして違うのだよ」

 そう告げた。サブロウ……時にサラという名を使い、如月佐武朗と名乗り、今またサブとも呼ばれる少年は、男の言葉を否定するでもなく、ただ立っている。

 乾史はといえば、あまりの突拍子のない台詞に頭がついていかず、呆気にとられたままだった。

「そういう貴方は誰なんです?一方的に人の素性を語るとは無礼でしょう」

「おい……サブ!?」

 乾史は思わず振り返った。確かに言葉はサブロウのものだった。いつぞやの銭湯で一度だけ聞いた、ぞっとするほど冷たい声に、聞いたこともない口調。

「これはこれは。大変失礼いたしました。私はね、しがない派遣社員ですよ。雇われ執事をやっております」

 雇われ者で執事というのも妙な話ですがね、と男は自嘲げに唇をゆがめた。

「新規ビジネスでして。高貴なお家柄の方々の、手足となる人材を育成し派遣する。そういったお仕事でございます」

 横で聞いている乾史にはさっぱりわからない言葉をずらずらと並べ立てる。

「まあ、そんなことはどうでも宜しい。私は今、貴方の伯父君の元に出向しておりましてね。そのご意向で、佐武朗様にはご実家にお帰り頂きたいとのことでございます」

「―――実家、だって?」

 サブロウの喉から声が漏れる。

「今さらあなた達が、どの顔をして”実家”なんて言えるんですか。如月の父が死んだ後、母が頭を下げて援助を求めにいったとき……あなた達がなんと言ったのか。こちらが都合良く忘れたとでも思ったんですか!?」

 いつもの三下を気取った言葉が鳴りを潜め、良家の子弟めいた口調になっている。こちらが素なのか。だがその語調は、丁寧になることで弱められることはなく、むしろ鋭さを増したかに思えた。

「援助が与えられないというだけならまだ仕方がありません。母が家を出たのは母自身の選択でしょうし、僕だってその程度がわからない程子供ではありません。でもあなた達のしたことは……!!」

 あちこちに手を回して、父が職に就くことを妨害したり、公的な支援すら受けられないように仕組んだんじゃないですか、と。

 腹の奥に眠っていた灼熱の怒気を吐きかけるように、サブロウは吠えた。他方、吐きかけられた側の男は、動じた様子もなく淡々と言葉を続ける。

「状況が変わったのですよ。お母君を勘当なさり決して許さなかった祖父君は昨年他界されました。

 今のご当主は貴俊様、あなたの母君の兄……伯父君にあたるお方です。

 貴俊様は祖父君のなさった事を悔やんで居られます。貴方を正式な親族として、曾我部の家に迎えたいとの仰せなのです」

 口調はあくまで丁寧に。

 その実、否定の言葉など口にさせぬ雰囲気。

「冗談は止めてください。僕は生まれてから一度も自分を曾我部だと名乗ったことはないし、思ったこともない。僕にとって曾我部は、両親の仇でしかない。僕は如月。如月佐武朗だ」

 男の重圧に屈することなく決然と言い放つ。その顔を見て、男は丁重な表情を崩さぬまま、肩をすくめるという器用なことをやってのけた。

「おっしゃることはごもっともですな。ですがご理解いただきたい。我々とて殊更に貴方の苦境を知らぬ振りをしていたわけではないのです。

 何しろ祖父君がご逝去されるまで、曾我部の家で貴方について言及する事は、完全な禁忌とされていたのですから。

 貴方の施設での様子や、以後この街で生活している事については、この私が二週間ほど突貫で調べて、ようやく突き止めた事実なのですよ」

 いや我ながら骨の折れる作業でしたよ、と男は軽薄な笑みを浮かべた。

「一言、立場を抜きにして述べさせてもらいますとね。貴方のその歳での用心深さとカンの良さは大したものです。

 この街に流れてきた事はすぐにわかったのですが、それからが難渋を極めました。流氓(リュウマン)まがいとは言え、さすがに中華系の連帯は堅い。

 ようやく弁当配達のサブロウ少年と、美人局の少女サラと、この廃倉庫に住み着いた少年が同一人物だと特定してみれば、タッチの差で用心棒を雇っていたと来たものですからね」

  そこでようやく、男の視線が乾史に向く。

「なるべく事を荒立てたくはないのですが。伯父君は非常に気ぜわしいお方でして」

 手首と胸元のアクセサリーがじゃらり、と鳴った。

「なんとしても本日中に連れ帰るように、とのご指示なのですよ」

 両腕を広げ、男が歩み寄る。異様な長い腕がまるで翼のように広がり、視界を全て覆い尽くされてしまうのではないか、という錯覚がサブロウを襲った。

「なんと言われても。貴方について行く気はありません」

 言いつつも本能的に数歩後ずさる。宇都木や蟹江に脅しをかけられた時とはまったく違った。小手先で切り抜けられるような相手では……断じて、ない。

「ちょっと待ちな」

 横合いからかけられる声。犬神乾史が男とサブロウの間に割って入った。背中にかばい、真っ向から執事姿の男と向き合う。小柄な乾史と長身の男では頭一つ分以上身長が違うため、必然的に見上げる形になった。

「サブロウ」

「は、はい」

「オレはおめーの親の事がどうとかよくわかんねえけどよ。コイツにはついて行きたくねえんだろ?」

 サブロウにしてみれば、答えは一つしかない。

「ついて行きたくはありません、けど」

 今までこの街を生き抜いてきたサブロウの直感が、自分でも信じられない警告を出していた。この男と乾史が戦えば、それは、

「アニキ、あいつは―――」

「そうか」

 だが乾史にとっては、その答えを聞ければ充分だった。如月佐武朗にちょっかいをかけたければ、まずこの犬神乾史に話を通せ。それが今の乾史の行動基準。立てたばかりの己のルールに従うだけのことだった。

「ならコイツは、おめーの敵だな」

 ポケットから、いつものように百円玉を取り出し。

「この犬神乾史が、用心棒としててめえをぶちのめしてやんぜ」

 握りしめて、両の拳を打ち鳴らした。わずかに腰を落とし、いつでも縦横に動ける体勢を取った。

 だが、男は乾史の殺気に反応すらしない。それどころか、その様をまじまじと見つめ、

「ぷっ……!」

 唐突に吹き出した。

「くっく、あっはっはっはっはははははは!!」

 男は、実に愉快といった態で、腹まで抱えて大笑いをし始めた。

「君が?私を?ぶちのめす?」

 いちいち乾史と自分を指さし確認までして、その度にまた爆笑する。呼吸困難すら起こしかねない勢いだった。

「面白い冗談だな。うっくく、実に、っはは、面白い」

「この街のヤクザ達もはじめはそう言ったぜ」

 そんな笑いも意に介さず不敵に呟く乾史。今までの実績が、その自信を支えていた。

「でもオレのパンチを食らった後で、同じ事を言えたヤツはいなかったな」

「そうかそうか。ああおかしい。ではやってみたまえ」

 乾史は右の拳を引き、左足へわずかに重心を乗せる。自分の得意技、一気に飛び込んでの右フックで、あのひょろ長い男のふざけた笑いを粉砕してやる。

 これまでに何度も繰り返したことを、今度もやるだけの事だ。

「後悔すんなよ」

 言い終えるときには、すでに動いている。

 残像すら振りちぎる勢いで左足を踏み抜き、二メートルの距離を一瞬でゼロにし、そのへらへら笑っているツラを横殴りのフックで確かに撃ち抜いた。

 その、はずだった。

  ……え?

 コンマ01秒にも見たぬ間隔。

 だが乾史は感じた。

 己の拳が、虚しく空を切る、初めての感触を。

 乾史の拳を立方体に見立てると、その高さは五センチ弱。その五センチだけ、男は上半身を後ろに逸らし、こいつ、オレのフックを、

 

 認識→違和感→驚愕/遮断=紫電一閃。

 ―――思考を全部刈り取られた。


 側頭部が爆発したかと思うほどの凄まじい衝撃。

 激痛を痛みと認識するより早く視神経がエラーを吐き出し、網膜を極彩色で一瞬に染め上げた。

 何をされたのか、そんな上等な認識に至る間もなく乾史は真横に吹き飛び、壁に叩きつけられた。おかしい、なぜ壁がコンクリート、否、真横ではない。

 叩きつけられたは地面。おかしいのは乾史の三半規管の方だった。無様にごろごろと転がること四回。

 ここでようやく、乾史は自分がどうやらダメージを受けたらしいと認識することが出来た。

「あ………が……?」

「あ、アニキ!?」

 サブロウの悲鳴が飛ぶ。”殴りかかったと思った次の瞬間に、まるでダンプカーにはねられたかのように恐ろしい勢いで乾史が地面に転がっていた”。それがサブロウの認識だ。

 この場にいる三人で、今何が起こったかを正確に知るものは一人しかいない。

「実に粗雑だな。右フックを打つぞ、と全身で宣言してからの単純な攻撃。動作はぎこちなく身体の連携はバラバラ、軌道はわざわざ遠回り。これではカウンターを合わせるなと言う方が難しいのではないかね?」

 男がヒラヒラと細長い腕を振る。となると、先ほどの一撃、乾史は殴られたのだろうか。男の腕に合わせて、身につけた鎖がじゃらじゃらと鳴った。

「一言、フォローを入れておいてやるとな。君のスピードは常人の域をはるかに振り切っている。街中での喧嘩であれば、格闘技のプロであろうと、おいそれと対処することは出来まいよ」

 上から降り注ぐ声。男の表情は無感情と思えるほどに冷たい。もはや先ほどまでの爆笑の演技など、欠片も残っていなかった。

「だが、それも常人相手であれば、の事だ。”同じスピード”を持つ者からしてみれば、ただの素人が腕を振り回しているだけに過ぎん」

「同じ、スピード……だって?」

 ようやく乾史が身を起こす。だがその膝は、まるで他人のもののように頼りなかった。

「そうそう。名乗るのをすっかり忘れていたよ。しがない雇われ執事。もう少し詳しく述べれば、人材派遣会社CCC、執事派遣部門所属の異能力者、という事になる」

 にぃ、と。男の細い唇が左右に引かれ、牙のごとき犬歯が剥き出しになる。

「私のことはそうさな、『魔犬(バスカヴィル)』とでも呼んでくれたまえ」

「いのう……なに?」

 自らを『魔犬』と名乗った男は、それには答えず、わずかに右の踵を浮かせると、だらりと垂らした手を握り、ゆるやかに顎と眼の位置に掲げた。

 そう、それはボクシングのファイティング・ポーズ。

 数ある戦闘技術の中でも、最速に部類される動きを持つスキルだった。

「それで。私をどうにかするんだったかね?」

 『魔犬』の冷たい声が、廃倉庫に響き渡った。

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