猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 コロナヴィールスで引きこもり中。時々読書。でこんなの読んでみた。

「マリオ・バルガス=リョサ プリンストン大学で文学/政治を語る」

 本書はリョサが2015年にニュージャージー州にあるプリンストン大学で行ったセミナーの講義録である。プリンストン大学の図書館にはリョサの原稿や書簡など多数の資料が集められているのだそうだ。知らなかった。そこでこのセミナー中大学院生は原資料を基にリョサの作家以前の学生時代の文章などから思いもかけないリョサの原点などを探り出してきたのだそうだ。

 それはさておき、リョサと政治と文学は単に書斎での次元ではない。リョサはペルーの大統領選に出馬していて、最終的にはフジモリに敗れている。それについての冷静な評価もしている。それはいわば現在の世界を覆っている大衆迎合主義に対して敗れざるをえない民主主義というものの有り様を語っている。

 本書の構成はリョサの作品、「ラ・カテドラルでの対話」「マイタの物語」「誰がパロミノ・モレーロを殺したか」「水を得た魚」「チボの饗宴」をひとつひとつ取り上げて、そこに描かれた世界が現実のラテンアメリカの政治の現実をどのように反映しているのかが詳細に語られている。ラテンアメリカ文学には独裁者文学というジャンルがあるのだが、これらはいずれもその範疇に入る。

 もっとも詳細に語られているのはドミニカの独裁者トルヒーリョの権力の掌握とその維持のための醜悪な人物の姿なのだが、独裁者の存在が今や誰でも気がついているが、愚かで、非道で、暴力的である人物を周囲は自らの身の安全と引き換えに祭り上げて手に負えなくなっても国民はそれに批判の目を向けることがなくなっていったという実態であろう。今私たちのこの日本においても、何やら同じ匂いが感じられて不気味である。

 リョサは文学と歴史との関連性について、「しばしば小説は感動を高めるために、実際に起きた事実から離れたり、それを省いたり、買う題したりするが、そうした忠実さの欠如は、歴史的事実を歪曲するのではなく、その重要性や意義を強調して、読者を主人公たちに感情移入させ、物語の中へ引き込んでいく・・・歴史家がいなければ小説家は、空想を膨らませてくれるものとして歴史を利用することができなかっただろう。しかし小説家が歴史に加えた操作がなければ、人物や歴史的出来事は、それらの国の日常において有している鮮やかなイメージや存在感を持たないだろう」と書いている。

 リョサはラテンアメリカのブームの一人であるがマルケスとはまるで違う文学世界を築いている。マルケスのよく言われる魔術的リアリズムという呼び名もマルケス自身はリアリズムなのだと主張していた。「百年の孤独」も祖母から聞かされた話から創造されたリアルな物語なのだが、リョサの作品は直裁にリアルに描かれている点で、歴史に組み込まれているように読めるといえるだろう。

 リョサはキューバ革命時、マルケス同様革命を支持したが、カストロの独裁と文学者への迫害が民主的でないとして、反キューバに転じている。そのために、マルケスとの不仲が話題になっていた。そのこともあり、私自身はリョサにあまり親しみを持たなかった。そして、近年の驚きは50年も連れ添い3人の子供もいた伴侶を離婚し、元フリオ・イグレシアスの妻であった女性と再婚したというニュースであった。(なおこの女性3度の離婚歴があるということは初めて知った)。訳者ラテン的バイタリティの創作意欲の表れと評しているがそうだろうか?リョサの「楽園への道」で画家ゴーギャンの祖母、フローラ・トリステンの自由を求めた反逆の生涯を描いた彼が、ラテン的男権主義(マチスモ)を表すかのように伴侶を離婚して若い妻と結婚するということに、いささか憮然としている。

 もう一点、リョサは民主主義を最良のものとするという点い意義はないが、なぜか新自由主義を支持しているということが理解できない。ペルーとともにチリの独裁が新自由主義の実戦場であったことは今や誰でも知っているにもかかわらず、この認識は改めることはないのだろうか?疑問に感じた。

 


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