猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 『人新世の「資本論」』斎藤幸平著

 かなり有名になっている本であるのは知っていたが、この題名がなんだかわからなくて、購入したままになっていたのだが、放置するわけにもいかず、読んだのだが、かなり驚いたし、ここまで若者の認識が進んでいる事に未来を託せる世代が出て来たのだと思えて、不思議な感慨を抱いた。筆者は1987年生まれ、30代である。さらに多くの若者が外国留学といえばアメリカへというコースとは違い、ドイツ留学で、さらに研究テーマが資本論という点もさすがと言える。だいぶ以前に聞いてはいたのだが、これからの人文学の主流はドイツになるだろう。それほどドイツは国を挙げて人文学の研究に力点を置いていると言う事を聞いていたからなのだが、日本の現状を嘆くだけではどうにもならないが、この斎藤氏のような若手研究者の活躍はとても明るい希望となる気がした。

 とはいえ、本書はかなり現代社会に突きつけた問題点は重いものがある。しょっぱなから、SDGsは「大衆のアヘン」であるという言葉から始まるのだ。SDGsとはいまやテレビや新聞でも目にするし、それをうりにする商品の宣伝も流されている。身近なところではレジ袋削減でエコバック持参が呼びかけられているが、斎藤氏は善意だけで満足することで、本質的問題から目をそらす事にしかならない。人類の経済活動の根本問題に真剣に向き合い、対処することに手をつけなければ、気候変動、二酸化炭素排出の削減も手遅れになるだろうという。なお「人新世」は「ひとしんせい」と読み、人類が地球に現れたことで引き起こされたもろもろの悪影響により、地球は新たな年代に突入したとみるノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンの命名(Anthropocene)を訳したものであるということだ。

 地球環境問題は国際的に大きな問題になっているが、個々人にとっては、真に自分の身に迫って来ている実感に乏しい。もちろん災害の多発、二酸化炭素の増大は気にしても、斎藤の冒頭の言葉のようにエコバックを持ち歩いてそれでどうなるという確信を持つことが出来ないが、斎藤がなぜこの環境問題と資本論が結びつくのかを詳細に書いてくれたことで、私はやっと、今まさに問題なのは資本主義であり、それにどう対処するかの論議はすでに始められている事を理解し得た。

 いわゆるこれまでのマルクス主義が行き着いた世界がソ連という形で徹底的に国家統制であり、そのソ連が崩壊し、資本主義の世界が勝利したかのような風潮の中で、新自由主義という人間性の破壊にまで行き着いている現代、どこを向いてなにを考えるべきかと煩悶するとき、漠然と素人として思い浮かんでいたのは、経済成長っていうのは本当に善なのか、必要なのかという疑問であった。この思いは結構重要であったようだ。そして、マルクスの「資本論」の第一巻が出た後、以降はエンゲルスが編集したと言う事は知っていたが、斎藤はマルクスが死去するまでの十数年間、マルクスは大きな転換をしていた。その後期マルクスを読みなおすことで、環境問題への根本解決が見えて来ることを指摘している。この後期マルクスについて、ドイツではなんと全100巻に及ぶ新たなマルクスの未公開のメモ、抜き書き、思索の記述が出版されることになっているという。

 詳細は本書を読んでいただく方が正確であるが、経済成長を目指す限り、金融市場や自由貿易を拡大し、資本の増殖を目指す資本主義は自ら歩みを止めることはできない。それを続ける先にある環境破壊を目の当たりにし始めた今、この危機を脱するためにはこの資本主義の経済成長を抑制すること、脱成長型のポスト資本主義にむけて大転換をすべきだというのが本書の根本である。

 ここで気になるのは、経済成長の果実を手にしていたのは実は先進国だけであり、周辺国は収奪の対象であり続けてきたために、貧困から抜け出せない。これらの国が、脱成長でさらなる貧困に陥る事態は問題である。つまり成長速度を減速させることが後進国の成長を妨げてはならないと言うことも考えるべき課題となるだろう。この点について、マルクスは進歩史観の特徴である生産力至上主義がヨーロッパ中心主義で、生産力を高めれば貧困問題も解決するという楽観的な考え方に初期マルクスは疑問を持たなかったようなのだ。「共産党宣言」がその典型である。しかし後期マルクスは非西欧・前期資本主義社会へ目を向けた1870年以降、特に土地所有制度や農業のあり方の研究を進める中で、まずヨーロッパ中心主義から決別する。その変化の現れは「ザスーリチ宛の手紙」で、当時のロシアのミールという農村共同体を基盤に皇帝支配を打倒する革命は可能かという点についてマルクスはこのミール共同体を肯定して、資本主義を経ることなくロシアはコミュニズムに移行することが可能だと認めたのであるが、これが非常に十な点であると斎藤は指摘している。この点については以前から、認識されてはいたが、今改めて、グローバリズムの弊害に晒されている時、農村共同体が克服されるべき遅れたものではないと言う点から見直すと、エコロジーと共同体の関係は現在強く意識されるものに改めて目が行くのであり、マルクスが古代ゲルマン民族の共同体「マルク協同体」が持続可能な農業を行なっていたことにも関心をもっていたことが判明するのだそうだ。

 この共同体について、単に生産性が低いと言う点から衰退したと考えるのではなく、逆に資本主義の経済成長の犠牲になって破壊されたと考えるべきで、共同体内の平等主義、社会的平等、持続可能性などに注目すべきであろう。この前資本主義の共同体について、斎藤は触れていないが、日本もまた同様である。山野は共同体のものであり、私有権はなく、そこからの産物は共有物であり、耕作地も土地の良しあしに不平等がないように数年ごとに交換していた例もある。また必要以上に山の幸を取ることも制限するなど、持続性が考えられていた。このような共同体が持つポテンシャルの認識を可能にしたのはマルクスの晩年のエコロジー研究なのだそうだ。どうもマルクスの晩年の研究は非西欧社会の歴史的発展のすじみちを求めたのではなく、西欧社会における将来社会のあるべき姿を求めたのが共同体研究であったと言うのが斎藤の一つの見解である。そして成長を求めるのではなく平等で持続可能性に依拠した経済こそが将来の社会の基礎になると言うのがマルクスの結論であった。つまりマルクスの最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済であった。

 現代、つまり「人新世」において豊かさとは何なのか?富とは何か?マルクスは「富」とは「使用価値」のことであり「使用価値」は空気や水などがもつ、人々が欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立より以前から当然のことながら存在した。これにたいして「財産」は貨幣で測られ、商品の「価値」の合計で、「価値」は市場経済に於いてしか存在しない。この「価値」を増やす事が資本主義的生産にとっての最優先項目となるにつれて、「使用価値」は等閑にされてゆく。これこそが資本主義の不合理そのものである。万人にとっての「使用価値」(いわば共有財――コモンズ)を共同体は独占的所有を禁止し、共同的な富として管理してきた。この状況は資本にとっては不都合である。市場は何にでも価格をつける。希少性の増大が商品としての価値を増加させる。その結果人びとは必要な財を利用することが出来なくなり困窮する。これにどう対峙するかである。マルクスのコミュニズムとは実は解体されたコモンズを再建し「ラディカルな潤沢さ」を回復することを目指すと言う事であるという。資本主義を乗り越えて豊かな21世紀を実現するのはこの「コモン」がポイントである。人びとが生産手段を自律的・水平的に共同管理すると言う点である。一見すると、アナーキズムとどこが違うのかという感じを持つが、斎藤はアナーキズムではないと明言している。それは国家の存在は前提としているからであるが、思考のプロセスには、先日急逝したデヴィッド・グレーバーの指摘したブルシット・ジョブにも触れていて、脱資本主義を目指さなければ「使用価値」を食いつくす価値のない労働が「価値」あるものとされてゆく馬鹿げた愚かな社会が拡大するだけであることをも取り入れている。その他、「21世紀の資本」でブームになったトマ・ピケティも格差社会の解決策としての累進性の強い課税を提唱していたリベラル左派もいまや甘すぎたとして社会主義に転向している。ピケティは「飼い慣らされた資本主義」ではなく「参加型社会主義」を要求しているということで、これほど明確な転向は珍しいのだそうだ。

 脱成長コミュニズムの柱は使用価値経済への転換、大量生産、大量消費からの脱却。労働時間を削減して、生活の質をたかめる。経済の減速。エッセンシャルワーカーの重視。を斎藤は挙げている。斎藤はこう言う。

 「資本主義が引き起こしている問題を、資本主義という根本原因を温存したままで、解決することなどできない」。

 非常に困難な道に見えるが、最後の章に於いて斎藤は実践とその成功しているいくつもの事例を挙げている。それも孤立した共同体レベルではなく、グローバルに横に繋がっている事例を紹介している。多分それさえも、わが国の多くの人びとは知らない。しかしその出発はいずれも小さな運動体から出発して、現代のもっとも重要な問題の解決に道筋を示している事を、私たちは学びかつ、運動しなければ、持続可能な社会はこない。

 是非一読していただきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?