猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 「暴流(ぼる)の人 三島由紀夫」山本隆史著

今年は三島が自刃して50年という事で注目が集まっている。三島に関する著作もいくつか出ていて、本書もそれに当たる。私も11月25日に向けて読んでいたのだが、数日で読み切れると思ったのだが、思いのほか難解で25日を過ぎてしまった。著者は三島の専門的な研究者であり、そのために特に文学的側面の解釈が緻密をきわめていて、三島の作品を読んでいないと判然と理解できないことが多かった。まずタイトルからして分からないのだが。「暴流(ぼる)」という語は三島自身が作品のなかで使用しているだけでなく、本書の筆者が三島の本質にある仏教の唯識三十頒にある語で、「阿頼耶識」と呼ばれる根本的原理を言うらしいのだが、これを三島の根源といわれても正直のところわからなかった。

 本書を通読してもっとも頻繁に出てきたのは虚無でありセバスチャン・コンプレックス、そして三島が描いた小説の頂としての全体小説への渇望についてのあれこれである。驚くべきはやはり三島の早熟な才能で、15歳ぐらいから詩作を発表しているのだがさすがにこの時期から虚無を表現しているわけではないが、本書の著者が挙げているのは、その若い時から三島は時代というものと対峙する意識性が強いと言う事だ。この点は敗戦を挟み、戦後手のひらを返すような時代の代わり身に強い違和感を抱いていた。これは三島にかぎらず、文学者にかぎらず、その意識を共有していた人びとは少なからず存在した。その違和感を持続し、いわば時代が仮面を被っているそのニセモノ性を暴こうとし続けたのが三島文学であるという。

 三島の文学には時代性は本質的問題としては解釈されてこなかったような気がするが、本書の作者の読み込みは詳細で、納得させられる点が多い。

 自刃後50年を機に書かれたいくつかの文章の中に、三島は多面体で全体を一瞥できないという評を読んだが、光の当て方で多様な三島が現れるということは、その通りなのかもしれない。

 私自身は三島の作品にほとんど興味はなく、それでも上っ面をなぞるだけの読書しかしていないので、三島の作品が時代とどのように切り結び、それによって三島自身がなにを得て行ったのかは、よく理解するまでには至らなかった。寧ろ、時代の寵児となった「金閣寺」ののち「鏡子の家」の思いがけない悪評による誤算と意識的な敗北感から抜け出し得なかったという点が気にかかった。

 やがて三島は全体小説を意識して行き、そこに働いたのが仏教の唯識、さらに言えばそこから三島の特殊な解釈としての生まれ変わりのテーマが出て来る。それが『豊饒の海』を通底する理論である。三島の言う全体小説とは場と時が交わる接点に実在するわれわれが時を経て更に実在することを意味するようなのだが、全体とは、西洋で言うマクロコスモス、個人とはミクロコスマスでその両者は相似をなすと言うある種の中世の世界認識と似たものなのだろうか?なお三島は神秘思想については仏教の阿頼耶識を知る以前に井筒俊彦の「西洋の神秘主義」を読んでいるという記述がある。

 三島といえば当然その右翼的といったらいいのかよくわからないのだが、政治的言動とそれ関連の作品が問題になるが、本書で私がそれ以上に初めて知った事実は、ノーベル文学賞をめぐるあれこれであった。ニ島がノーベル賞に近いと言われていた事はあったようだが、当人もその事実や裏側は知らないままに亡くなった。現時点ではノーベル賞選考の裏側は公表されていると言う事だ。それによると、候補に挙げられていたのは谷崎・川端・西脇順三郎・三島の順であった。さらに川端は一応三島が師事していた作家であるが、なんと川端本人が三島に自分の推薦書を書くよう様に依頼し、その見返りに当時『宴のあと』でプライバシー問題での裁判にペンクラブの会長であった川端が三島支持を暗に保証したらしいと言う事や、当時影響力を持っていたエドワード・G・サイデンステッカーが三島の右翼的作品とホモセクシャルの傾向を強く批判した文書をノーベル財団に出していた事実は明らかだそうである。

 三島がなぜあれほどまでに自衛隊に何を期待したのかは今になってはよく分からないが、彼は1969年の国際反戦デーに左翼学生が暴発した時に防衛隊として自ら出動することを強く期待していたらしい。しかし学生叛乱は鎮圧され、出番がなくなったことで、先の展望もないままに盾の会の中に憲法改正の案が出されて、それの実現への行動を自分の文学的な理念である、死ぬことで転生する時間の無限性を示そうと図ったのかもしれない。

 『豊饒の海』は発売当時読んだが、その典雅な文体とストーリーには上手いとは思ったが、感動することはなかったし、輪廻転生ということも、物語性としてうまいとはおもえなかった。その上での、三島の自決がその物語をも含みこんだ三島の生の円環を閉じるというストーリーには同意できなかった。特に彼の実人生に登場した人々の複雑な思いを思うと、彼の死はあまりにも自分中心的で、それが彼の虚無の発露だとしたら、とてもやりきれない。しかし三島が戦後こそ、表裏のある嘘っぱちの社会であることを見抜いていたことはさすがだと今にして思えばそう思える。本書は研究書であり通俗的な見地から読むべきではないと思うが、なかなか興味深かった。

 


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