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猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた 二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯』ウラジミール・アレクサンドロフ著 竹田円訳

 強い期待を持って本書を読もうと思ったわけではなかったのだが、まるで知らなかったひとりの黒人が激動の時代に不屈の精神でアメリカからロシアへ渡り、その後コンスタンチノープルで劇場を運営し、ショウビジネスの世界で大成功を収め、巨万の富を築きあげながら第一次世界大戦、ロシア革命、トルコへの国際社会の介入と政治的動乱に巻き込まれて、すべてを失いっていった人物の物語なのだが、フィクションではない。非常に少ない資料を丹念に積み重ね、歴史の闇から救いだしたノンフィクションなのである。作者は名前から推察できるようにロシア系のアメリカ人でロシア文学研究者として著名な学者で若くしてイェール大学の教授となった。ナバコフの研究者でもあり、トルストイの小説の厳密なテクスト分析や多様な読みの可能性を提示している人物であるという。その作者がなぜ、誰も知らないフレデリック・トーマスという黒人の伝記を書くことになったのか?解説を書かれている沼野充義先生も若い頃から作者を知っているそうだが、不思議に思ったらしいが、主人公の足跡がやはりとんでもなく興味深いことに驚かれたようだ。

 研究者が小説を書いてそれが世界を驚かせたのはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』であったが、資料の少ないというよりほとんど見つけ出すことの困難なそれまで知られていない人物を資料を探し出しフレデリックの一挙手一投足がこうだったであろうと思わせるほどの伝記に書かれたことに驚嘆させられた。

 時代は南北戦争直後の南部の黒人の両親の子供として生まれるが、奴隷解放後の南部の黒人の中では両親は非常に有能な人物であったらしく、早くに土地を手に入れ、それを拡大するために白人農園主との間で土地を抵当にしての農産物の売り買い等を活発に行ったのであるが、文字が読めないことと解放された黒人への恨みから白人農園主にだまされ続け、ほとんどが偽りの借金を負わされた。しかしフレデリックの父親は裁判に訴え、勝訴したりしているのだが、最終的には殺されてしまう。主人公はその後、召使、給仕等を仕事とする中で、人に接するテクニックを身につけて行き、南部から北上して一流レストランの給仕として頭角を現す。さらにはニューヨークのホテルのベルボーイの長となるのだが、1894年そのホテルに滞在していた大物実業家の世話係になる。その実業家こそニューヨーク最大のヴォードヴィル劇場のオーナーとしてアメリカの大衆演劇史に名を刻んだパーシー・G・ウィリアムズで、フレデリックは彼の影響下にアメリカでは黒人であることによる差別で果たせないであろう何ものかを追いかけて、ロンドンへと渡る。イギリスではアメリカに比べて黒人そのものが珍しく、差別されることは少なかったらしい。彼は3年間数カ月ごとに違う都市で働き、パリ、ブリュッセル、ベルギーのオーステンデ、リヴィエラ、1897年にふたたびパリ、さらにはドイツを横断する。そして、遂にモンテカルロでアメリカの白人新聞記者でヨーロッパを旅行中のドライスデールと出会い、彼の従者となり、ヨーロッパ各地の歓楽街や演劇の場、カジノ等の在り様を見知った。その後、今度は明確にはどこに接点があるのかは不明だそうだが、ロシアの大公の従者としてロシアへわたることになる。当時ヨーロッパ各国を渡り歩く中でフレデリックは語学の才を発揮し、英語、フランス語を習得していて、特にフランス語は堪能であった。また洗練された身のこなしも身に着けていた。しかしパスポートが必要になったのはロシアに入る時が初めてであったようだ。しかしロシアのビザ取得ではアメリカ人で黒人であることは問題にはならず、ユダヤ人か否かが問題であったと言う事だ。かくして、フレデリックは帝政末期のロシアに入った。

 最初はサンクトベルク、モスクワ、オデッサと働きながら旅をしてモスクワに落ち着いた。ここで結婚もしていて、子供も生まれているが、後のち悲劇の種となる。かれは1903年、フランス人シャルル・オーモンが経営する娯楽施設アクアリウムに雇われる。このアクアリウムは噴水やグロッタや金魚が泳ぐ池がある娯楽庭園で、いまでいうところのテーマパークのような施設だった。施設の中には劇場がありウイーン、パリ、ロンドン、ベルリンから直輸入されたオペレッタや喜劇が上演された。彼はロシアに根を下ろそうと考えていたその時に、外の世界は激しく動き出していたが、彼には理解できなかったのかもしれない。つまり日露戦争が勃発していた。彼は人脈を使い、金を使い、恒久娯楽施設マキシムを開店して、ヨーロッパのプログラムで運営し、夜になると「キャバレー」として大人の遊び場所を運営して大成功している。モスクワが革命前、かくもヨーロッパ的な娯楽に溢れていたとはとても興味深い。黒人のアメリカ人ボクサーの試合もあったとのことである。彼はこの頃、いわば判断のミスをしたかもしれないのだが、ロシア国籍を取得しているのだが、それと裏腹にアメリカ当局にも、家族にもこの事を隠した。それによって、彼は複雑な困難に直面せざるを得なくなる。

 ロシア国内は帝政と革命を目指す勢力との騒乱で生活は日増しに困難を極めて来た。この革命前の状況が鮮明に描き出されていて、ロシア革命に至るまでの国内が浮かび上がるようである。嘘かまことか、フレデリックはラスプーチンにあったと言うことだが、どうだろうか?崩壊寸前の帝国ロシアの夜は退廃に満ちていて、それでいて華やかであったようだ。ボリシュビキ革命がなり、彼は新政権との折り合いをつけることを模索したが家族の危険を避ける場所を考え、別荘を持っていたオデッサに家族を逃がした。その時、娘と生き分かれている。革命によって、かれの経営していたマキシムの大劇場は国営化されてしまい、劇場の支配人として雇われの身分になってしまう。それ故、ブルジョワ的な笑劇、オペレッタなど彼が興行主として運営していたものはすべて失われた。

 オデッサで再び彼はカフェ・シャンタン、劇場、レストランの経営に携わっている。当時オデッサは連合軍が支配していたので、ロシアからの難民の中には芸人や歌手、無声映画俳優などもいて、彼の興行を支えた。オデッサは1919年ボリシュビキによって連合軍は破れ、市中は飢えとチフスの流行で混乱を極めたため、フレデリックはまたしても、ボリシュビキから逃げる羽目になる。

 着いた先はコンスタンティノープル。当時この地は西洋的な大衆娯楽はほとんどなかった。ここで再び彼はアクアリウムのような野外娯楽庭園を始める。共同経営者(女性)との名前を取って「バーサとトーマス」。フレデリックはこの場所でトルコのエンターテイメント史に大きな貢献をした。ジャズバンドの初公演をしたのである。当時の新聞にこの記事が載っている事で事実が確認できるのだそうである。フレデリックは店の名前をモスクワの店の名前への郷愁を込めて「マキシム」としてナイトクラブのような店へと変えて、営業し始め、上流階級に受け入れられ、本物のジャズバンドが入る様になる。しかしこの場所も安泰ではなかった。

 占領軍からコンスタンティノープルを解放する抵抗運動が始まり1922年10月11日、イギリス、フランス、イタリアはムスタファ・ケマルの要求を入れて休戦協定に署名した。連合軍は直ちにコンスタンティノープルから撤退しなければならなくなった。フレデリックはこの政治的変動に対応するためにアメリカへの帰国を願った。しかしこれ以前に、フレデリックは何度となくアメリカ人であることの確認を大使館を通じて本国へ申請したのであるが、そもそも南部の黒人はアメリカ国民として登録されたことはなかった。何度もパスポートの申請は却下された。さらに彼は多くの借金も抱えていて生活は生きづまり、挙句の果てには、理由は不明だそうだが、逮捕され1928年6月12日病気で病院に移送されそのまま死亡している。彼の死はアメリカのいくつかの新聞に報じられた。ある記事は彼をコンスタンティノープルの「ジャズのスルタン」と書いたそうである。彼の子供たち5人のうち教育を受けられたのは長男のミハイルのみでプラハで農学を学んで、フランスで大戦中レジスタンス運動に参加し、映画のわき役になったり、有名ナイトクラブ「シエラザード」でジプシー歌謡やロシア民謡、黒人霊歌等を歌ったと言う。ミハイルの息子の一人と結婚した相手はフランスのセクシーな高級ランジェリーで有名なデザイナー、シャンタル・トーマスで、彼女のトーマスという姓はフレデリックの苗字である。トーマスの名前はこの高級ランジェリーのブティックの名前として世界中にながれているのだそうだ。しかし、他の子供たちの行方は分かっていない。

 本書の興味は主人公の波瀾万丈の生涯なのであるが、その裏側にある伏線こそが重要である。即ち、アメリカの黒人であることがヨーロッパでは差別の対象にはならなかったこと、しかしいかに成功して巨万の富を築いても、アメリカの白人の外交官からは徹底的に排除されて、遂に帰国の手段を持つことが出来なかったという事実。もっとも過酷であったのは祖国アメリカが彼を黒人であるがゆえに見捨てたと言う事実。いまさらながら、アメリカの黒人差別の根の深さを思い知らされる。

 歴史的な現場の姿が見事に描かれていて、そこで躍動する黒人の姿が生き生きと描かれている。非常に興味深かった。いくつかの謎が残されているようだが、それは読んでいただければ分かると思うと大間違いで、やっぱりわからないのはフレデリックが崩壊寸前のロシアでなんで国籍を取得したのか?それをなぜ隠し通したか?ふしぎだ。


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