猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

99%のためのフェミニズム宣言 シンジア・アルッザ ティティ・バタチャーチャ ナンシー・フレイザー 共著 恵 愛由訳、菊池夏野解説

私は、ずっとフェミニズムを受け容れる気持ちが持てなかった。人文学・社会科学の分野でのフェミニズム理論の導入によってもたらされた新展開のあれこれについては十分にその意義を認めていたが、他方社会全般の中において、フェミニズム(フェミニスト理論家)の活動はどこか高尚で、庶民レベルでフェミニズムを語ることはほぼなかった。その理由については自らの活動において、フェミニズムの理論になじめないものがあったからであるが、その明確な理由と現時点での世界的な潮流に就いて、やっと理解がいったのである。身も蓋もないことだが、これまで見聞きしていたフェミニズムが上級階級の女性たちの男女平等であり、社会的地位の向上へのステップであり、そこから外れた女性はフェミニズムなど意識することも出来ない存在に押し籠められていたからである。

 この傾向は1970年代のフェミニズム運動の波がいわばエリートの女性の階層上昇へと道を開く方向性で進んだことによるようだ。私が抱いた激しい違和感はそこにあったといえなくもない。しかしその後、世界中のそこここでの社会運動の前線で女性が果たしてきた役割の大きさが明らかになるにつれて、フェミニズムのあり様はリベラルへと取り込まれる以上にラジカルな運動へと内面的にも直接的な運動の前線でも深化してきていたようだ。この宣言はそのようなフェミニズムの、つまり新自由主義によって収奪された99パーセントの私たちのためのフェミニズム宣言という事になる。

 思い描いてほしいが、女性の社会進出はフェミニズムの勝利であろうか?たぶん違う。女性は労働現場と家庭労働を課されることでむしろその苛酷さが増大した。その理由は資本主義社会にとっての再生産の矛盾にぶち当たる。その再生産を担っているのが女性であり、そこに生じるケア労働は多くの場合対価が支払われない。家族、家を単位にした場合、その労働は女性の無償の労働である。これに対して、それまでのフェミニズムでは、子供の養育や家事をより階層の低い女性を雇用することで、高い地位での活動が保証されていたりしたのであるが、このようなフェミニズムの欺瞞性を徹底的に排除すべきだと言うのが、新たなマニフェストの主眼なのである。資本主義というものの本質はこの上から下へとつぎつぎと搾取の階梯ができあがっているそのことを根底から問うべきなのである。それ故、今ある危機のすべてに対して、社会的再生産の側面に特別の関心を寄せることで、男女問題に限定出来ない、人種問題、性的マイノリティの問題、環境問題もすべてを視野に入れることがフェミニズム理論の重要性が初めて平等にラジカルに追求でき、信じられる。

 社会的再生産は公的サービスの拡充によって維持される。にもかかわらず新自由主義下では公共サービスは削減され、民営化される。そして国民に緊縮財政を押し付け、無防備な国民は債務を押しつけられる。このような社会構造への反撃を視野に入れられないフェミニズムは今や意味をなさない。ジェンダー問題が差別であることは否定することはできないが、その根源が資本主義の、さらにいえばその最北まできている新自由主義を撃つための闘争に連帯すべき問題であることを深く心に刻むべき時のようだ。筆者はいずれもアメリカにおいてのフェミニズム運動の組織者であり、理論家のようだ。あとがきにはこうある。

 「99%のためのフェミニズムは反資本主義をうたう不断のフェミニズムであるーー平等を勝ち取らないかぎり同等では満足せず、公正を勝ち取らない限り空虚な法的権利には満足せず、個人の自由がすべての人々の自由と共にあることが確証されないかぎり、私たちは決して既存の民主主義に満足しない」

 考えさせる結論である。


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