猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

 最近、歴史の教科書での歴史的事実が違ってきているという話は聞いていた。例えば聖徳太子はいなかったとか鎌倉幕府の成立年は1192年(いい国作ろう鎌倉幕府と語呂合わせで覚えた)が実は1185年なのだとか、坂本龍馬の船中八策はなかったとか。というわけで、こんな本を読んでみた。

「楽市楽座はあったのか」長澤伸樹著

 結論だけ先に言うと、あったんだけど、実態はかなり限定的であり、近世への輝かしい道筋の出発としての位置付けは少々怪しいということらしい。特に戦国時代を統一した信長による劇的な市場経営のための楽市楽座はひいきの引き倒しらしい。

 平安時代から室町にかけて市と言う場は特殊な心性を持っていて、虹が立った場に設けられて、天界と俗世とをつなぐ場に神を祀る祭祀の場として設けられた。それゆえその場には交易だけではなく猿楽や白拍子・琵琶法師などの興行もまた行われる場であった。その市は俗世の権力が介入しない場であり、よく言うアジールであった。私の世代では網野善彦氏の「無縁・公界・楽」で鮮烈に描き出された自由と平等の象徴でもあった。本書もその点での認識は否定されてはいない。

 楽市と楽座は別のものであり、連結されたものではないらしい。楽市とは市場の平和維持を意味し、楽座は座という既得権益の撤廃、すなわち税の取り立てなしの自由商売を認めることを意味している。この楽市と楽座がどんな経緯で成立しているかなのだが、どうやら権力者の上からの法令という認識はいささか間違っていたようだ。むしろ中世から神との契約としてのアジールであった場での経済行為が滞りなく行われる必要から戦国大名から信長に至る地域権力者が平和維持を保障した下からの要求に応じたものと考えられるらしい。さらに楽座についても税の免除を提示する必要があるのは、戦国大名の国取りの騒乱の中で軍事的な要所や交通路に自国に有利な条件を提示するために認めたかなり限定的なものであったらしい。本書では、織田信長以前に楽市楽座の交付は調べられているようだ。また信長が天下統一を図ったのち、むしろ楽市楽座が一般化することはなく、その後街道や運輸の地域経済の中核都市が変化しても改めて楽市楽座という明確な文言が文書に見られることは多くないということで、近世に入り、市場を再考する場合などに古来、楽市楽座であったという由緒が持ち出されたりしたようだ。つまり楽市楽座はいわば「この市場は平和で座という既得特権に縛られていない」場であるというコマーシャル的な意味合いにしか機能しなくなっていたようだ。とわ言え、私たちの習った日本史ではなんだか自由で平等で猿楽から白拍子までいる祝祭的な空間としての楽市楽座を捨ててしまいたくない。市は今ではなんとかフェスとかいう形で俗世にまみれてしまったとはいえ、楽しく繰り返されていることを思えば、信長が発明したのではない方がより自由度は増す。虹の立つところに市が立ち、そこでは神が見守る平和があり、俗世の権力者が税金を徴収しない、それを後から権力者も保障せざるをえなかったことこそが楽市楽座の本義であり、心が沸き立つ感じを持つと言える。歴史が正確に改められることも必要であるが、経済の本質が単なる経済成長にしか向いていない現代において、自由平等の市場という夢を残しておきたいと思う。


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