猫又のバラバラ書評「おかめ八目」

  『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』オードリー・タン著

 コロナの時代に、現れたデジタル界の天才の書籍である。実は私は、オードリー・タンの存在は全く知らなかったが、台湾のコロナの対策で手腕を発揮して、知られることになったので、今の日本の政府の無策ぶりに憤りを感じていた私は、オードリー・タンがコロナ対策をどのように展開したのかを知りたかったと言うのが、本書を読み始めた理由なのであるが、まー驚いた。それは単にコロナ対策にオードリーがデジタルを駆使したことは事実としても、彼がそこに至るまでの経歴と最も驚かされたのは、デジタル、さらにはAI技術とはどうあるべきかというオードリーの思想と哲学が実に正確にかつ平易に、それでいて根本的な問題にかかわる重要な点が触れられていたからである。

 私の最初の目的であったコロナ対策について印象的なことをいくつか書いておくと、台湾もマスク不足は重大問題であったらしい。しかし、政府は即座に異業種(航空機部品メーカー)にマスク生産の生産ラインを作り、対応した。販売については、日本同様パニックも起こったようだが、アプリでどのコンビニにどれだけ在庫があるかを公示することでどこでも買えるという事を公開した。しかしこれにはネットを使いこなせない高齢者に不便があり、ただちに方針を変更して、保険証(台湾は国民皆保険性だそうである)を提示すれば誰でも変えて、それをカウントすることで買い占めを防ぐと言う事に転換して成功したという。またピンクのマスクをしていた子供がからかわれたと言う意見が寄せられたのに直ちに対応して、閣僚が皆ピンクのマスクをして、会見場の背景をピンクにして、ピンクがおかしいものではないことを国民に周知すると言うようなこともやっている。

 コロナ対策にかぎらず、オードリーは最もテクノロジーから遠い人が使える技術を開発することが重要という指摘もしている。高度な技術を使いこなせる人だけが得られる利益は意味がない。AIはあくまでも人間を補助するツールであると言うことが強調される。オードリーが早熟の天才であったことは驚くばかりであるが、その技術は教えられたのではなく、みずからネットを通じて学び、それを実践してプログラムを書く。最初のプログラムは弟に分数を教えるためのプログラムだったそうで、十代である。14歳で中学を中退して、以後は独力で企業を起こし、たとえば中国語の簡体字と台湾で使われている漢字との互換と読み、外国語との連関出来る辞書を作成している。なお、この中に日本語が入らなかったのは、日本語の辞書にオープンソースのものがなかったことによるという。この事は後にオードリーの思想を考える上で重要な点になる。かれの独学を可能にしたのはデジタルの翻訳で外国語の書籍もこれによって読みこなせたようだ。18歳でアメリカにわたり、シリコンバレーで起業して、ソフトウエア会社で検索をアシストするソフトウエアを開発して3,4年で全世界で800万セット販売された。これが台湾の政府直轄の学術機関に購入してもらったことで政府との関係が出来た。これが2002年。その後33歳でビジネスから引退し、アップルやオックスフォード出版、台湾のIT企業のデジタル顧問を務めた。有名なアップルの音声アシストSiri が英語しか話せなかったものを他言語化の対応するものとするようなプロジェクトにも参画している。

 オードリーが日本に関心を持っている事はかなりのもので、初めて日本を訪れたのは1998年「マジック:ザ・ギャザリング」というカードゲームの大会に参加するために来日しアジア8位の成績であったそうだ。それ以上に驚いたのは、今一番関心を持っているのが柄谷行人が唱えている「交換モデルX」という概念で、これは柄谷の『トランスクリティークーーカントとマルクス』と『世界史の構造』に出てい来るもので(私は後者しか読んでいない)、概略、交換モデルには家庭のような無償の関係(交換モデルA)、上司と部下の上下関係(交換モデルB)政府内部や不特定多数の人たちが対価出交換する市場のような関係(交換モデルC)、そしてこれらに属さない4番目の交換モデルにオードリーは大きな意味ずけをしているのである。つまり開放的な方法で、不特定多数の人びとを対象としつつ見返りを求めず互いに助けると言う交換モデルである。この点を見た時、なんだか公共の利益、絶対平等、相互扶助、協働というような言葉が浮かび、アナキズムだなーと思ったのであるが、読み進んでいくうちに、オードリー自身が「保守的なアナーキスト」という私の立場と述べていることで腑に落ちた。デジタル空間とは公共の利益に基づく、資本主義に縛られない新しい民主主義の可能性の場だとオードリーは指摘している。

 デジタルの未来にこのような視点をもって臨めば、AIの行き着く先を独裁権力の全体主義支配しか見えなかったデジタル音痴の私にも些か希望が見えて来る。オードリーが何度も述べているが民主主義である基本としての双方向の議論の環境の確保がなければ未来は暗い。オードリーの現在の役職は行政院(内閣)の無任所閣僚でデジタル担当行政委員であるが、これはどこかの部署のトップという事ではなく、横につなげて、縦割りでは出来ない問題を集約して解決策を図ると言う非常に自由度の高い役職と言える。またオードリーの職場は旧日本が占領していた時代の建物であったが、その高い塀を取っ払って、外から自由に見える場にしたことで、オードリーに逢いに来る人も多種になり自由度が増したという。また政府との関係で、国民の政治参加を象徴するものとして貴重だと思われたものに、ネット上にプラットホームをつくり、問題として政府に取り上げて貰いたい案件を短時間で5000人の署名を集めたものは必ず政府が検討するシステムをつくっている。このシステムで実現したものは数十件に上ると言う。日本でも政府がパブリックコメントを集めているが、それが政策に反映されたことなど皆無であり、どんどん政府と国民の距離は離れてしまっていることを考えると、オードリーも言っているが、国民が政府を信用できるかがデジタル民主主義を担保できるかの実は最も重要な核なのである。日本は今デジタルの未来について、このようなその背景となる思想を確実に持った人材がいるのであろうか?不安しかないのが現実であるが、本書から得られる重要な視点を私たちは共有すべきなのではないだろうか。


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