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朝笛

大学一年生の春、ただ同然で日本の離島に遊びに行くことができ、かつ単位ももらえるという夢のような授業があると友人から聞いた。

もちろんそんな甘い話がある筈もなく、その実態は毎週の座学に必ず出席し、各課題をこなしたのちにやっと離島に赴き、早朝から夜までのフィールドワークを数日間こなすことでやっと単位がもらえるという今思えば非常にコストパフォーマンスの悪い授業であったのだが、「夏、海、島」という大学一年生には眩しすぎる単語の放つ熱にあてられた私と友人数名は特に疑うこともなく初回のガイダンスに参加したのであった。

ガイダンスには大勢の学生が押しかけ、座る場所を確保するのも難しいほどであった。この授業の目玉である現地でのフィルードワークは東京都に属する数箇所の離島で行われるが、その特性上定員数が極端に少なく、受講を希望した学生の中から抽選で選ばれた学生のみが参加することになっていた。高倍率の抽選になるであろうことは明らかであったが、何も考えずに応募した結果、幸か不幸か当選してしまったのだった。

かくして真夏の離島行きが決定したのである。

毎週の座学は6限という千葉から通いの身には辛い時間に行われた。毎回課されるレポートは絶妙に面倒臭く設定されており(写真付きで留学生を取材させる・手書きでの提出・インターネットからの出典は不可、など)、その度に話したこともない中国人留学生に話しかけたり、図書館の暗い地下書庫にあるボロボロの本の活字を拾ったりしなければならず、あれほど魅力的に見えた真夏の離島行きは出航前日になってみると島流しにも似た様相を呈するようになっていたのであった。

船は夜に出航し朝にH島についた。当日の夜の海は大きく荒れたため、ほとんど睡眠時間をとることはできず、島の港に着くころには帰宅欲求の高まりは既にピークに達していた。三日間のスケジュールは文字通り朝から晩までみっちり詰め込まれており、これからの三日間を思うと絶望を感じずにはいられなかった。島に到着したのは早朝であったため、いきなり数時間の待機時間が発生したのだが、その数時間は何をするでもなくただひたすら座り続け、頭をよぎるのは常に実家の布団であった。

港での待機時間にはもう一つ理由があった。それは、後続の他大学の一行を乗せた船が到着するのを待つためであった。この授業はY大学との合同プログラムとなっており、座学ではリモートで参加していたY大学の学生と、引率の教員にH島の港で初めて対面するという流れだったのである。一行が到着したのは我々が到着した3時間後で、その間眠ることもできずただひたすら座り続けていたのだった。

さて、Y大の学生の中にS君という青年がいた。S君は学年はひとつ上で大学ではアイルランド民謡のサークルに所属しているらしく、横笛(?)をやるのだそうだ。ジャンルは違えど同じく音楽をやっている身としてはアイルランド民謡というニッチなジャンルの音楽をやっているというS君に根拠のない尊敬の念に似た気持ちを覚えた。

Y大学と合流後、H島でのフィールドワークが始まった。怒涛の勢いで各所を周り、やっと宿にたどり着いたのは21時を回った頃であった。船でろくな睡眠が取れなかった私は他のメンバーが酒盛りを始める中、早々に部屋に引っ込んで寝床に潜り込んだのが日付を回る頃である。

事が起きたのは次の日の早朝であった。

奇妙な音で目を覚ました。はっきりしない頭で耳を傾けると、どうやら廊下を隔てた正面の部屋から聞こえてくるようだった。それは、明らかに笛の音だった。この宿では、決まった時刻になるとこんな方法で客を起こすのだろうかと寝ぼけながら時計を見ると、まだ6時になったばかりであった。決められた起床時間にはまだ30分ほど早い。

それにしても、この日本家屋の宿で流すには違和感のある異国情緒を帯びた不思議な旋律である。その違和感がまだ半分夢の中にいる脳内をもたげた時、私の脳は急速にある確からしい結論を導き出した。

この笛の音はS君が早朝から奏でるアイルランド民謡の調べであったのである。彼はおそらく自前のアイルランド横笛(?)を持ち込んでおり、初日の朝にアイルランド民謡の音色で我々を爽やかに目覚めさせてくれようというのだった。

かなしいかな、彼のサプライズは私にとって拷問に近いものであった。前日ほぼ寝ていないのに加えて丸一日のフィールドワークをこなした翌日である。もう30分の睡眠が如何に大切か彼に伝える術はないのだろうか。薄い掛け布団を頭から被っても、耳をイヤホンで塞いでみてもアイルランド民謡の調べは容赦なく突き抜ける。彼の放つ吐息はアイルランド横笛(?)を介して規則的な周期で空気を振動させ、日本家屋の華奢な襖の隙間を抜けて私の耳小骨を刺激し続ける。「あと30分寝かせてくれ」という切な願いや「必ず殺してやるからな」という覚悟は強くなるばかりである。

もういっそ起きてしまうのがいいのだろうかと諦めかけたその時、隣の布団から同じ班のA君が抜け出す気配を感じ取った。トイレにでも行くのだろうかと思ったのだが彼は廊下に出ると例の部屋の襖をガラリと開けた。

「いま何時だと思ってるんですか?他の客もいるのでやめた方がいいですよ。」

A君はそう言い放つとすぐ部屋に戻ってきてふてぶてしく布団に潜り込んだ。昨日のフィールドワークではおとなしく柔和な印象だったA君が行動を起こしたことに驚いたが、意気揚々と奏でられていた異国の旋律はすっかり息を潜めてしまい、代わりに重い沈黙が例の部屋から漂ってきているようにも感じられるのであった。かくして早朝の宿に平穏が取り戻された。私は終始頭から布団を被っていたので彼に何か言うことはしなかったが、A君へ心からの感謝と尊敬の念を送りつつ、また浅い眠りについたのである。

この出来事を思い出すたびに、間違ったタイミングで粋なサプライズを仕掛けて完全に失敗したS君の心境と、まだ知り合って間もない先輩に正論を叩きつけたA君の覚悟に想いを馳せざるを得ないのである。

めでたしめでたし。


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