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(日本語版)できないをできないと言う勇気: Part 1

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こんにちは。nekoNalizard_15761です。 いきなりこんなタイトルでどうした?っと思われる方もいるかもしれません。ご心配をかけすみません。
また、同じタイトルで英語版のものを先に投稿しています。内容やニュアンスが若干異なっているかもしれません。興味がある方はそちらもご確認いただけますと嬉しいです。

今日は、私が休学するに至った経緯と、そこからどう抜け出したのかをお話ししたいと思います。
前々回の記事を読んでくださった方はご存じかもしれません。現在(2022年3月時点)は4年制大学の3年次で英米文学を学ぼうとしているところです。そうなんです。今年の3月に無事、校内転部をしました。実は、その前は心理学を専攻していました。

2021年7月に、心身の調子を崩し一人暮らしを一旦やめることになりました。その前からその兆候はあったのかもしれませんが、自覚し、病院にかかったのは2021年の7月のことでした。成績はそこそこではたから見れば何も問題がないように見えていました。しかし、自分の中ではそのころの心理学の勉強がうまくいかない上に、一人暮らしで気分がどうしても落ち込みがちで、正直なところ生きる楽しみなどを見失っているところまで追いつめられていました。
他にもなんとなく思い当たる理由があったので以下にリストアップしてみたいと思います。

  1. コロナ禍で人と会えない生活が長引いたこと。

  2.  騒がしい都会の生活音とほぼ週6日響く建設音。 

  3. 大学で学ぶ内容への興味が薄れたこと。

  4. 自分の方向性を見失ったこと。(せっかく合格して入ったコースだったが、自分の方向性と合致しなかった。) 

  5. 6月から7月にかけて雨天や曇りの日が多かったこと。 (日光浴とビタミンDが不足したこと)

  6. 自分自身の生活を楽しむための趣味や興味がこれといってなかったこと。

  7. コミュニケーション能力の問題。

  8.  いろんなことをオープンに話せたり、遊んだりする友達が少なかったこと。

  9. 偏った食生活・安定しない健康状態 (体重の減少, 少ない運動, PMS)。

  10. 完璧主義的でProcastinating(先延ばし)をする傾向と性格。

とまあ、なんだか10個くらい思い当たる節もあり、振り返ってみればそうなってもおかしくない状況にあったのかなと今では思います。
また、最近になって知った話ですが、私の中学時代の友人も同じ頃ような状況にあったので、もしかしたら日本に限らずいろんな場所で同じようなことが起きていたのかもしれません。

話は逸れましたが、本題に入りたいと思います。
気分の落ち込みを自覚し、病院にかかるまでは、自分の傾向や性格を現在よりも把握していませんでした。できない、を、できない、と言うことができませんでした。
そうなった経緯や理由も、個人差はあると思いますが、誰もが感じることを感じ、考えて、ただがむしゃらに生きてきた、ただそれだけだろうなぁと思っています。これといって人と違ってすごいことや突拍子のない経験などはないです。
ただ、私のことをお話するとしたら、こうなるかなと思うことを以下に述べていきたいと思います。
簡潔にまとめると、今までの私は、私の意見や感じ方は、たとえ親であっても、誰であっても、どの人にも聞く価値がないものなのだろうと感じていました。とは言っても、両親の前では、少しは私の意見が尊重されることはありました。少し、は言い過ぎかもしれません。ただ、私としては長いことそれが感じられていませんでした。どこか自分は親や私を囲む大人の付属物のような感覚でしょうか。「私」という存在や、その輪郭をあまり感じられていませんでした。きっとそれは多かれ少なかれ誰もが10代の多感な時期に感じることでしょう。
しかし、私の場合は、そう感じるだけではなく、できないこと、を、できないと言えないくらい自分の個性や存在や自分の意見が尊重されていると感じることができませんでした。
ただ、これといって家庭環境に問題があったわけでもなく、むしろとても恵まれた家庭で生まれたと私は思っています。両親は、私が言えば楽器やスポーツを習わせてくれました。私はこれといって悪い生徒でもよくできる生徒でもありませんでした。学校や勉強は好きではありませんでした。ただ、多くの場合、先生方は私に対して良く接してくださっていました。
それならなぜ?と思われている方がいるかもしれません。
私にも実はよくわからないところが多いです。
もしかしたら、幼少期からいわゆる劣等感が強い子どもだったのかもしれません。みんながすぐにできること、理解できることが自分でできないと強い羞恥を感じました。(実はまだまだ現在もその傾向は強いかなと思います。)

この羞恥は多分私の父が私の弟をよく叱っていたころに、私も気づかないくらい幼いころから、私の中に植え付けられたものではないかな、と推察します。私の父を悪く言うつもりはありませんし、父はとても家族思いな人です。ただ、時と場合によっては彼と彼の家族に対してとてもスパルタな傾向と性格を示すことがあります。それは、父なりにそう生きてきたからこそそうなのであり、それに対して私はどうこう言う立場ではないかなと思います。それでも、私の弟に対する父の対応には多くの場合棘が目立ちました。私の弟は誰かに何かを言われて素直に聞くような、悪く言えば従順なタイプではありません。自分がやることは自分が決めたこと、典型的な我が道を行くタイプです。ただ、案外人情ものに弱いようなところがあるタイプです。人には憎まれにくいかもしれません。
しかし、弟と父は長いことそりが合いませんでした。
父は、言うことを聞かない幼い弟に容赦なく「バカ」と言いました。私を含め母や、弟が何かできないと、多くの場合そのたびに「バカか?!」という棘のある口調と言葉が家族全員を包みました。(父とこの言葉は、のちに私の夢の中にも出てきました。笑)
この言葉は私の中でいつしか「トラウマ」ワードとなり、私の中に住み着くようになりました。いつしか、私は自分自身をこの言葉でなじるようになっていました。私の頭の中の言葉、思考がこの言葉になるような感じです。小さな失敗で自分を叩いて叩いて日々自分で傷つけていた、ということになるかもしれません。自傷はいけないことなのに自分に暴言を吐くことは許されているなんてなんだか不思議ですよね。親からもらった「からだ」、大事にしなさい、ピアスはダメ、タトゥーはダメ、髪を染めてもダメ、でも自分の「こころ」は見えないからいくら傷だらけになっても誰も気づいてくれないし止めてくれないし、誰も悪く言わない、むしろ美化されてしまうことが多いのではないでしょうか。我慢が美徳と誰が決めたのでしょう。目立たないように群衆に紛れて個性を殺すことで何が得られるのでしょう。

そのためか、思い出すといつしか勉強のできる友達とつるんだり、あたかも自分もその一人であるかのようにふるまったりするようになっていました。これには賛否両論があるかもしれませんが、結果オーライかなと思っています。その頃に仲良くなった友人とも、まだふとした時に電話したり連絡できたりするような関係性だからかもしれません。ただ、私はあまりにも自分以外になることへのあこがれが強かったように思います。本当は、心の奥底では、いつ本当は頭が良くないことや理解が遅いことがばれてしまうか不安でした。(自分ではそう思っていましたが、今では別にそんなことはなかったかなぁと思います。)たくさんしょうもない嘘をついて、偽って、ピエロになったようでした。ひょうきんに振舞っているのにどこか偽りの自分から抜け出せずにいました。そうして、誰もが「普通」と思う、周りが理想とする「本来自分ではない、理想の自分」を模索しているうちに嘘と事実の境目がわからなくなっていきました。そうしているうちに自分を見失っていました。

今では、一回でわからなかったり、できなかったり、失敗するのは経験不足や体調が良くないなど様々な理由があることがわかります。ただ、それをよしとする、またはそれでいいのだと教えてくれる環境が日本や現代社会には少ないのかもしれません。ただ、変わらないのは、幼いころに追った傷は残るということでしょうか。言葉による暴力やそれを見て育つことは脳にも影響が出るといいます。詳しくはこちらのサイトをご参照下さい。悩まれている方はぜひこのサイトに末尾にある電話番号にお問い合わせください。(男女共同参画局, 特集 DVと児童虐待 ーDVは子どもの心を壊すものー  https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/dv-child_abuse/index.html


状況はガラリと変わりますが、、、
病院にかかるようになった2021年の7月以降は、実家に引っ越して療養するようになっていました。
そして学校に行かない間に少しずつ回復していきました。
ほとんど寝る食うの繰り返しの半年間だったようにも感じます。そのような期間は実際には4か月程度だったかもしれません。誰にも無駄に見えるかもしれないこの休息の時間、私にはそれが必要でした。今なら、言えます。学校を休んだ8か月は私にとって、私の人生において重要であったと。もし、親戚や見知らぬ人にこの8か月間のことを聞かれても胸を張って説明する準備ができています。休むことも仕事のうちです。ただ、休みつつ、回復してきたら次のステップを考えていかなければいけません。私にとってそれはとても辛いとことでした。自分以外に、自分の知っている人は誰もこの道を通ったことがないからです。たくさん叱られました。たくさん話しました。たくさん泣きました。きっと両親には眠れない夜がたくさんあっただろうと思います。
ただ、私の場合はタイムリミットと体調が幸運にも合致したのでこのような道を選ぶことになりました。このつらい道のりを選ぶことができたのは両親のおかげです。そして2022年3月に校内転部をする運びとなりました。

休学中の8か月間、主に母と私で今後について話し合っていました。
気分の落ち込みがひどいときは、本当は話すのも嫌でした。その頃ちょうど悩んでいた卒論の準備のせいで、論文が夢の中まで出てきたり、コロナ禍の孤独な一人暮らしや勉強習慣を思い出してしまったりしたのでパソコンを開くことも嫌でした。しかし、どんなに辛くても、どんなに休んでいても、今後についての話し合いだけは頑張っていました。
話し合いの中で、お互いの理解が深まったり、自分自身に対する理解が深まったりました。落ち込みがひどくなってやっと、高校卒業以降ちゃんと自分を見つめる時間を作ることができていなかったどころか、無理やり自分の進むべき方向をあの劣等感に縛られた自分で決めていたことに気付きました。
本当の意味でこころもからだも休めることをしてこず、自分の人生を考えたり、自分のパーソナリティや傾向について思いをはせることをしてこなかったりした自分に気が付きました。完璧主義的で先延ばしをするけれど、いや、だからこそ、必要な時に「助けて」と言えなかったのだと思います。

長々と書きましたが、結論、私が自分の意見を自分で尊重できなくなったり、私ができない、をできないと言えなくなったりした、厳密に断定できる理由がないように感じます。そして、それでいいのだと思います。ただ、諦めないことがどれだけ難しいか、間違った方向で頑張らないことの大切さを少し学べたのだと思います。


続く。
それではまた次回会いましょう!





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