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あの猫 この犬 うさぎも小鳥も

Twitterをするようになってから、気がつくともう十年になります。
これくらい続けると、日々挨拶したり会話を楽しむ知り合いも多くなり、やりとりまではしなくても、発言をよく見るひとやら、ツイートを楽しみにしたり、気になって見守っているひとやら増えてきて、これはこれでひとつの街、日常の延長線上にある場所になってきています。

タイムラインという名前の近所の街があって、そこで暮らしていると、日々、窓越しに、いろんな言葉や会話が聞こえて来るような。
時にきれいな音楽が聞こえてきたり、素敵な絵や写真を見せてくれるひとがいたり。
桜の時期にはたくさんの桜を。花火の時期には日本中の花火大会を。最近は動画で見せてくれるひとも多くて、部屋にいながら次々に揚がる花火を楽しむこともできます。
どこよりも速いニュースや天気予報を聞いたり、書評や映画の感想をあれこれ聞いてみたり。
たまには窓を開けて、誰かとの会話を楽しんだり、扉を開けて、いろんなひとと立ち話をしてみたり。気が向けば、遠くの論争を聞きに、足を運んでみたり。
夜、眠れないときに、知り合いの誰かがやはり眠れないと呟く声が聞こえたり。どこの誰とも知らないひとが哀しみの淵に沈んで呟く言葉に気づいて、何も言えないままにただ見守っていたりとか。ふと、誕生日に揚がる風船を見かけて、良い一年であるように、とおまじないの言葉を置いて帰ったりとか。
わたしにはTwitterはそういう場所です。それで十年続けてきましたし、たぶんこれからも変わらないでしょう。

昔――十年一昔といいますから、そういってもいいかと思いますが、思えば私が始めた頃の昔のTwitterは、まだ若く、新しい場所で、この場所はどういうところなのか、どんなことに気をつけて語ればいいのか、どういう場所であるべきなのか、なんて、あちこちで真面目に語り合ったりしていたものです。
一方で、他愛ない、でも罪のない楽しい言葉遊びが流行ったりして、振り返るとやはり懐かしいですね。
その頃からやりとりしているひとも多くて、そんな人達とは、特にあの震災を始めとして、この国に起きたいろんな大きな出来事をリアルタイムでともに共有したという、仲間意識のような想いがあります。
同じ時代の思い出を持っている、同じ過去を共有しているひとびとを見るような、そんな想いですね。

いや実際には、この国で同時代に生きていたならば、みなが同じ時代のうねりの中にいたわけなのですが、Twitterの中にいて、日々互いのツイートを読んでいたりすると、互いの存在が可視化されるんですよね。

さて、この空間も不思議なもので、もしTwitterが無かったら、何の接点もなく、出会うこともなかっただろう人間関係が無数にあります。
そのつながりがリアルの人間関係よりも希薄かというと、そういうわけでもないというのも面白い。
言葉でのやりとりを重ね、互いの日々の想いを共有するうちに、互いの人生の時間をも共有しているわけで、関係は深く、近しくなる。
それはやはり新しい時代の「ご近所付き合い」なのだろうと思っています。

インターネットが日常の中に溶け込み、誰にでも容易に使われるようになったことで、世界は狭くなりました。
わたしたちは世界の裏側で起きたことでも、誰かがそれを知り発信すればリアルタイムで知り、感情や知識を共有できるようになりました。
そうすることによって、今まで見えなかった、遠くの(地理的にも、自分の属している世界や日常からでも)他者の存在や感情にも気づけるようになった。それはやはり、文化がもたらす、幸いなのだと思います。
世界の不幸もあるいは幸福も、知らないよりは知っていた方が良い。リアルでは遠くてわからないいろんなあれこれも知っていた方が良い。
そのことによって、世界はよりよい方向に、少しでも変わって行けると思うからです。

Twitterの新しい「ご近所付き合い」も、そのひとつの現れなのだと思います。
わたしたちは、これまでと同じ場所で暮らしながら、新しい街に生きるようになったのでしょう。
そして、そこで暮らすようになったのは、人間だけではなく、我々とともに暮らす、家族である動物たちもある意味そうなわけでして。

日々、写真や動画や愛おしさがあふれる文章で、紹介される、Twitter上の猫、そして犬たち。うさぎに小鳥に、お魚に、その他いろんないきものたち。
彼らともわたしたちは同じ街で生きているのだなあと思います。
実際には、一生この手でふれることも、声をかけることもないままであろう、遠くの犬猫(うさぎなどその他かわいいあれこれ)であっても、その存在を知り、その子を愛しているひとびとの声と想いを知るうちに、かわいい犬猫になってゆくのでありまして。
特に話しかけなくても、画面越しにいつも愛でていて、その健康や長生きを祈っている存在は、Twitter上にたくさんいるのです。

これはもちろん私だけのことではなくて、おかげさまで我が家のねこたちも、Twitter上の街のみなさまにかわいがっていただけています。
ありがたいことだと思います。
写真をアップするとかわいい、と声がかかるのは、まあ本当のことだから当たり前のこととしましても、
「千花ちゃんの成長を日々見守っていると、我が家の猫のようで」
「どうしても千花ちゃんを贔屓してしまって、同じ大きさの子猫を見かけると、『うちの千花ちゃんの方がかわいい』なんて思っちゃうんですよ。うちの猫じゃないのに」
なんて言葉をかけていただくたびに、ありがたくて、あの子も幸せな猫だと思います。

一方で、犬猫はどうしてもひとよりも寿命が短く、いろんなかわいい子たちとの別れの報告のツイートを読むこともあります。
世界にたった一匹の命が、その家で暮らし、深く愛されて、日々幸せに暮らしたこと、そうしてその魂が地上を離れたこと――。
おそらく、リアルでは知ることがなかっただろう、その子の存在と生涯を、見送ったひとびとの心情を知り、別れを惜しむことができる。
それはやはり、幸いなのだと私は思うのです。消えていった魂を、その魂を愛していた誰かの心を愛おしむことができるから。

言葉をあえてかけないまま見送ることも多いのですが、画面越しにいろんなことをいつも祈っています。
あの子猫たちも老いた猫たちも、この老犬も、あのうさぎさんも小鳥たちも、生まれつき弱かったり、闘病していたあの子たちも、路上で病んだり傷付いて拾われた子たちも、最期まで、みんな頑張ったね、幸せだったね、とそっと泣いたりもします。
そうして、ずっと覚えています。その子たちの生前の日々のことも、最後の日々の出来事も。愛らしい写真の中の表情も、幸せだった頃の記録も、別れたときのその子を愛したひとびとの、悲哀に満ちた呟きも、いってしまった大切な存在への、感謝の言葉も。

我が家の先代の猫、老猫のレニ子が死んだとき、Twitterで、たくさんの方達から、ほんとうにたくさんの心がこもった声をかけていただき、たくさんの優しい思いやりをいただきました。
もちろん、かいぬしである私自身への思いやり故の優しさもあったのだとわかっていますが、あの子も、この街の愛された猫の一匹だったのだなあと思うのです。

あのとき、ある書店員さんが、わたしがいままでTwitterに上げていたレニ子の写真をまとめてアルバムにして送ってくださいました。
手元からいなくなってしまった猫が戻ってきたようでした。元気だった頃の姿で。
画家さんが、写真をもとにあの猫の肖像画を描き上げて、お忙しい中、サイン会の会場に届けに来てくださったことも忘れられません。
その絵の中にも、レニ子は生きていました。

かいぬしたちの手元を離れた、犬の猫のうさぎの小鳥のお魚の――ふかふかの毛並みの、翼やうろこを持つ命達の、その魂は、いったんはこの地上から消えてしまったように見えます。でも、Twitterの街の中では、時折甦るというか、生きているようにも思えるのです。
みんなの記憶の中に。
心の奥に。
覚えていてくれるかぎり、時折思い出してくださるかぎり、あの子たちの存在は消えないような気がするのです。

たとえ、不幸にして短く儚く終わった命があったとしても、きっと。

やはりこの場所は、新しい街。
幸いな場所だと思います。

たくさんの愛や記憶や、無限の懐かしさが漂う世界なのだと思うのです。

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。