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タスカンソウル

先代の猫こと、縞三毛のレニは愛称レニ子。推定生後一日くらいで、公園にへその緒つきで捨てられていた子猫でした。
同じような柄で七匹まとめて捨てられていた赤ちゃん猫の一匹で、残り六匹のきょうだいは近所のペット美容院の方が育てました。子猫たちは可愛く育ち、大切に里子に出されました。
その方はお米屋さんの奥様でもあり、一匹手元に残したので、たまにお米屋さんに行くと、成長後のその子と遭遇することもあり、さすがきょうだい猫、レニ子と顔立ちや性格が似ていて可愛かったです。
残りのきょうだいたちは、それぞれどんな家で、どんな生涯を送ったのかなあと、思いを馳せることがあります。

生まれたての赤ちゃん猫は、目は閉じたまま、それどころか耳の穴も開いていなくて、ただ匂いを嗅ぐことだけで世界のいろんなものにふれます。まだ歩けない、這うこともろくに出来なかった頃の、鼻先を上に向けてひたすら周囲の匂いを嗅いでいた、あの頃のレニ子の様子はいまも覚えています。
今なら動画を撮影するところなんでしょうね。昔のことですから、私の記憶と数枚の写真に残るだけです。

拾ったのは三月初旬。寒くて乾燥する時期ですから、蓋付きのプラスチックの水槽に布を敷き、ぬいぐるみを入れて、小さな湯たんぽを作って添えて、あたためながら育てました。
我が人生初の、そしてたぶん最後の人工哺乳。本を読んで、赤ちゃん猫の育て方を調べながら育てました。
赤ちゃん猫はなかなか育たない、死ぬことも多い、という記述を見ては、涙目になりながら。

そんなある朝、カーテンを開けると、目をつぶったままの顔をもたげて、ぴゃーぴゃーと鳴くようになりました。私が起きてカーテンを開ければ、朝のミルクがもらえると小さな頭で覚えたのでしょう。まぶたごしの明るさを感じるようになったのか、耳が聞こえるようになってきていて、カーテンの開く音を覚えたのか、そのどちらなのか。
手のひらサイズの命なのに、なんとまあ、と感動したのを覚えています。

そして目が開き、耳もはっきり聞こえるようになり、その頃には、自分の名前も覚えていて、賢く愛らしい、子猫時代に突入していったのでした。
手足がグローブをはめたように大きくて、ペット美容院の方に、この子は大きくなりますよ、と予言されていたとおりに、大きく健康な子猫にすくすく育ってくれました。

捨てられていた子ですから、どんな血筋の猫なのかはもちろんわかりません。
ただ、鼻筋が長く、耳が大きく、手足が長かったので、どこかで洋猫の血を引いていたのだろうと思います。
宅配便の人がレニ子を見て、「この生き物は何ですか。猫ですか?」なんて驚くくらいには、背が高い、骨格のしっかりとした、大きな猫でした。

レニ子はとても賢い猫に育ちました。それはよかったのですが、性格なのかそういう血筋なのか、私ひとりに懐いて、ほかの家族や知らない人には目もくれない猫になりました。
一応は興味深げに見つめたりするのですが、撫でようとしたりするものなら、容赦なく爪を出した前足で叩きます。威嚇すらしません。
うちの弟一家にいたっては、彼女に完全に馬鹿にされてしまって、顔を上げたまま近づいていって、表情も変えずに猫パンチ。どうかすると家具の影に隠れていて、突然襲いかかったりもするようになったので、小さな姪は怖がって泣くし、弟一家には、通称「怖い猫」と呼ばれることになりました。
レニ子は子猫時代はペルシャ猫のランコと一緒に家にいて、そのあとはアメショーのりやとともにいたので、二匹の猫と性格を比べられたりもしたのでしょう。
臆病で慎重なランコと、誰にでもフレンドリーで明るいりやに比べられれば、「怖い猫」と思われ呼ばれてしまっても、仕方なかったのかも知れません。――実際、襲いかかってもいたわけですから。

危険なので、弟一家が我が家に遊びに来るときは、レニ子は私の部屋に入れて、部屋の扉を閉めていましたっけ。
彼女からすると、ここは自分の家で、そこによそのひとが来るから追い払おうとしていたのかも知れません。
小さかった姪が、幼児らしいパワフルな感情表現をしたり、走り回ったりするのが、猫としては気に入らなかったのかも、とも思います。

私の育て方も悪かったのかも知れませんが、お米屋さんで育ったきょうだい猫もそんな感じで、始終いろんな人と出会う環境で育ちながら、お米屋さんのご主人ひとりにしか懐かなかったらしいので、そういうシャム猫風の、信頼したひとただひとりに忠実な性格を受け継いで生まれた猫だったのかなと思わなくもありません。
そう思うと、シングルコートのぺそっとした毛並みも、微妙にポイントに似ていた鼻先の薄茶色も、賢さも気性の荒さも、すべてがシャム猫の血筋故のことなのかな、とかも思えたりして。
昔はお外に普通に放されていましたからね、シャム猫さん。その中の一匹が先祖にいたのかも、と。

弟一家に「怖い猫」と呼ばれていたレニ子は、かかりつけの獣医さんでは、主治医の先生に、冗談半分に「凶暴ですね」「危ないですね」といわれたりもしていました。
私が平謝りに謝ると、「これはこれで可愛いです」なんて笑顔でいっていただけて、申し訳なくも嬉しかったですね。
レニ子を最後に看取っていただけたこともあり、先生やスタッフの皆様には感謝ばかりです。

そんなレニ子ですが、私が旅行に行ったりして家を空けて、数日ぶりに帰宅すると、いつもしばらくは混乱していました。
帰宅が嬉しかったように走って迎えに来るものの、撫でようとすると猫パンチ。どうしたのと近づくと威嚇して、襲いかかってこようとするんですね。
はて、と思ってあるとき気づきました。
「匂い」が違うんだなあと。旅先の空港や駅やホテルや、見知らぬ街の匂いを身にまとう私は、知らない人に思えたのでしょう。

レニ子は、たぶん何よりも匂いで私を覚えていて、それで他人との違いを判断していたのです。赤ちゃんの頃に覚えたから。
後追いで、声や外見を記憶したので、匂いが私でないと、それは私とは別人に思えたのでしょう。
声と見た目が「大好きな人」なのに、匂いが別人見知らぬ誰かが家に来て、馴れ馴れしく自分に近づいてくる、って、猫視点ではさぞかし不気味だったのだろうと。
そう推理してから、旅行のあとは帰宅してすぐ浴室に向かい、お湯を浴びて、部屋着や寝間着に着替えるようにしました。
そうしてからは、レニ子に不審がられることはなくなりました。お風呂からあがってくれば、抱っこもなでなでもいつもの通りに許してくれて、大喜びなのでした。

この推測が当たっていたのだろうなあと思うとき、懐かしく思い出すのは、アメショーのりや、通称りや子です。
彼女はペットショップで生後三〜四ヶ月くらいまで大きくなってからうちに来た猫なので、嗅覚だけでなく、視覚や聴覚や、全体的な雰囲気で私を覚えていたのでしょうね。
旅行に出て、匂いが変わって帰ってきても、迎えに来たりや子はまるで気にせず、お帰りなさい、お帰りなさい、と嬉しそうでした。
いつからか、私が旅行から帰宅するとき、おそらくは私のキャリーバッグの車輪の音を覚えて、その音が我が家に近づく頃に玄関のそばに行って、帰宅を待っていてくれるようになりました。
あるいは音ではなく、猫特有の直感で帰宅を感じたのかも知れません。こればかりは今はもうここにいないりや子に訊いてみないとわかりませんが。
いつか虹の橋のたもとで、そんな話をすることがあるでしょうか。

縞三毛レニ子が、その最後の入院の時、退院できないままに病院で死んだあと。棺に入れていただいた亡骸を我が家に連れ帰ってきたのですが、抱っこして、彼女の大好きな家のなかをもう一度ぐるりと見せてあげました。十九年間彼女が歩き、眠り、駆け抜けた場所を、ひとつひとつ話しかけながら見せてあげました。
まだからだはあたたかく柔らかいのに、もう私の胸に大きな頭をすり寄せることも、満足そうに喉を鳴らすことも、前足を私の肩にかけることもなくて、ただだらりと頭を落とすだけ。抱いて歩けば首がふらふらと揺れるだけ。
それが切なくて泣けました。

生前、レニ子は私に抱っこされるのが何より好きでした。大きな頭を私の胸にもたせかけて、鼻からふうっと息を吐いて、目を閉じ、喉を鳴らすのでした。私の首筋や耳の後ろ辺りに鼻を寄せ、匂いをかぐのが好きでした。
人工哺乳で育てられた彼女にとって、私という人間は疑うこともないほど大切なお母さんで、私の匂いは懐かしいお母さんの匂いだったのだろうと思います。

私も彼女の柔らかなおなかや、滑らかな背中に顔を伏せて、日なたのような匂いを嗅いだり、肉球のポップコーンのように香ばしい匂いを嗅ぐのが好きでした。
猫たちが寄り添って眠るように、柔らかであたたかなからだを抱っこして、目を閉じているのが好きでした。

さよならになるのなら、最後はもう入院させずに家に置けば良かったと思いました。そうすれば抱っこしたまま看取ってやれたのに、と。

いろんな場所で書いたことですが、レニ子のその生涯の最後の数日を、私は長編小説の原稿を書き上げながら過ごしました。
そして彼女を見送り、ほぼ同時にその小説を書き上げたあと、手元にはもう一つ、児童書の仕事のゲラが残っていました。

それを持って、ふらりと長崎駅前のホテルに連泊しました。猫がいなくなった家にいたくなかったんですね。現実逃避気味に、ちょっと高めの、老舗のホテルに行きました。
六月の終わり頃のことです。滞在中、滅多に見たことがないような、スコールじみた大雨が高層階の部屋のガラスに叩きつけるように降り注ぎました。空が身もだえして、号泣しているような雨でした。
部屋のアメニティがタスカンソウルでした。樹木と柑橘の香りで、異国のそれのような雨が降りしきるせいで昼もなお薄暗い部屋で、凛とした優しい香りを放ちました。
連泊した上に、ダブルのお部屋だったので、アメニティをたくさんいただきました。仕事が終わってチェックアウトするとき、使わなかったものはそのまま貰って帰りました。

あの日のアメニティは、仕事部屋に置いています。使い切る気持ちになれず、少しずつ封を切って使いながら。
きっとその香りを嗅ぐごとに、あの日、スコールのような雨に包まれていた、駅前のホテルでの数日を思い出すのだろうと思います。

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。