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「主導権」という視点で大人と子どもの関係を年代変化で考えてみる。

以前、朝日新聞の「折々のことば」に建築家・安藤忠雄さんの言葉が紹介されていました。

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今の子供たちの最大の不幸は、日常に自分たちの意思で何かが出来る、余白の時間と場所を持てないことだ。(安藤忠雄)
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 自立心を育もうと言いながら、大人たちは保護という名目で、危なそうなものを駆除して回る。そのことで子供たちは緊張感も工夫の喜びも経験できなくなった。安全と経済一辺倒の戦後社会が、子供たちから自己育成と自己管理の機会、つまりは「放課後」と「空き地」を奪ってきたと、建築家は憂う。著書「建築家 安藤忠雄」から。(鷲田清一 朝日新聞 2017年03月19日)

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安藤さんのいう「日常に自分たちの意思で何かが出来る」について、「その場に大人がいるかいないか」と「その場の主導権が誰にあるか」という視点で、その変遷と、これからこうあることができないかという未来について図示を試みました。

思いつきの域を出ていないものですが、まずは議論をおこしていければということで、以下お読みいただければ幸いです。

こんな図を考えてみました。

※注1

以下説明


Ⅰ むかし
 〜学校誕生から高度成長時代まで


 

Cは遊ぶ時間。基本、大人はいない。子どもだけの時間。
しかし大人は、(働きつつ)近くにはいる。
子どもたちは、善悪よりも「おもしろそう」を優先し、危険(リスク)は自分で精一杯考えた上で、まずやりたいことをする(「やらかす」)。そして、大人に見つかりしかられる。
つまり、
①子どもはすでにもうやってしまっていて、
②そのあと大人が登場するという順番。
(③自分ではじめたことなので、結果は自分で引き受けるしかない。痛くても他人のせいにはできない。)

大人が、べったり隣りにいないことがポイント。つまり①と②の時間差が生まれる。ここに子どもの「ワクワク」「ドキドキ」が生息していたのではないか。主体的でありえた、と。
遊びは答えが最初からないときにしか生まれない。経験上結果が予測できる大人がいないほうが、当の子どもにとっては、おもしろい時間になる。

他方、私達がもっている「子どもの近くにいる大人」のイメージは、Bの時間の「させる大人(させて評価する大人)」と、図のCの時間の「しかる大人」(つまり、学校の先生モデル+近所の怒るおやじモデル)かのどちらか、ということになる。(もちろんCには、「助けてくれる」もあったのだけれど、頻度は怒るのほうが日常ではないか)。※注2

Ⅱ いま
  1970's(都市) or 1980's(田舎)〜現在

※注3 

システム化(管理社会化)・産業化(消費者化)の中で、子どもの傍らにはいつも大人が。結果、水色が拡大。(「学校的」な習い事、塾、スポーツクラブ、学童クラブ… )
(大人に悪気はないが)「子どものため」あるいは「教育」の名のもと、気づかぬうちに「主導権は大人」の時間が増殖。大人の都合(商売や管理)が優先される社会に。

若い人たちが自分の意見や感情を表現しなくなっている(結果、他者との関係づくりがむずかしくなっている)背景にあるのは、常に大人の評価の目線がとなりにある、という時間ばかりで過ごしてきたからではないか、というのが私の仮説ですが、いかがでしょう。

現在、子どもの頃すでにこの状態だった世代(1980年代〜が子ども時代)が、親になり、さらに水色は拡大中ではないか。
結果、自尊感情を持てず、不安、イライラする子どもが続出。
世界でもっとも憂鬱な若者が多い社会、あるいは、「結果がわからないことについて、『やってみよう』と思う若者」が少ない社会、日本に。(例えば、こちらの調査→内閣府国際比較調査)

こんな時代は、人類史の中でもほんのこの50年ばかりのことなので、そのはじめての体験に、どう対応していいかとまどっているのが現状ではないか。

Ⅲ これから〜???
  大人はいるが、
  子どもが主導の時間に……


Dの領域をつくれるのか、どうか。
大人が子どもの傍らにいるが、主導権は子ども。
あるいは、大人と子どもが協働でつくる場。※注4 
「子どもの傍らにいる大人」のイメージを作り直すことは可能か。
学びの場にはファシリテーター。遊びの場にはプレイワーカー。
大人が傍らにいるからこそ、できる場づくり。※注5

プレイ(PLAY)という意味では、スポーツや芸術などのコーチングも含まれますでしょうか。監督が「どなってやらせる」ではなく、きちんとコーチがコーチングをしているクラブなど。

それがあたりまえになれば、子どもの自尊感情はもっと高まる。
というか毎日楽しい。
その日その子がもっている力を全部出しきって、やらされたではなく、自分がした、という気持ちがもてる。「今日もおもしろかった」と言って、ふとんに入れる。

自ら責任を担うこと、他者との対話を重ねること、その姿勢と力を身につけられる(=自由に生きること)。多様性ついての感性を磨き、それを尊重し、活かすことを身につける。社会的な連帯感が回復する。

主体的な姿勢を、昔の子どもはCの領域、学校外で身につけていった。答えが最初からないからこそ、結果的に主体的になれた(なろうとしてそうなったということではないところがミソ)。
(とはいえ、かわりにハザード・例えば水死などが多かったから、単純に前にもどせばいいといってるわけではなく、また、地域の大人の人間関係が子どもの世界に色濃く反映していて、居心地がいいばかりでもなかったのでCが天国・理想といいたいわけではない。)

また、Dの領域は、となりにいる大人が意図的に見逃す、など、本人があたかも自分の意思でそれをおこなったかのようにまわりの大人がしむける、という風にもいえる。ちょっといやらしい気もする。

その意味では、設定された環境などぶちこわす、がほんとうの主導権だとも言える。そして、やはりCの「子どもだけの時間」も、少しでもたくさん保障していきたい。本来、子どもは子どもどうしで、まちじゅうで勝手に遊ぶものなのだから。(もうかなりむずかしいかもしれないけれど)

だからこそ、というわけでもないが、まちの中に、子どもにとって信頼できる大人がいる場所(D)を点在させていきたい。一箇所ではなく。

言うは易し。ワークショップなども常にほんとうに参加者主体なのかどうかが問われるのですが。また授業が一斉授業だからといって、主導権が大人(先生)にあるともいえない(そうなりやすいのは確かですが)ので、形式だけの問題ではないのですが。

 A B もすべてなくせといってるわけではない。大人には大人の都合がある。大人の都合が優先されるべき場面もある。しかし、現状は、あまりにも、大人が手動し、大人が評価する時間が、多すぎるのではないかということを社会的な共通の理解にしていけないものだろうか。

学習支援、子育て支援、特別支援児、被災地支援、……今の世の中「支援」や「サービス」があふれている。しかし、どうも元気が出ない。
誰が主導権をもっているのか、という視点で問い直してはどうだろうか。

幼稚園児の言葉に「先生、この大縄跳びがおわったら遊んでいい?」というのがある。子どもの傍らにいる大人のありようを考えてほしい、という訴えに私には聞こえる。

本題はここまで、です。以下は補足・注釈。
まずは注から


※注1 主導権あるなしのイメージ補足

■主導権を持てていない状態(AB)
良し悪しを自分でない誰かが決める。その時間にうめつくされると「他者に評価される」自己像を内面化する。世界はすでにできあがっており、自分なりにいじることができない。責任は自分では負えない。自分の行動の結果を誰かのせいにしないと生きていけない。私の人生を生きているという感覚がもちにくい。他者とぶつかることができず、良し悪しはコミュニケーションの中の合意ではなく、他の誰かの判決に善悪をゆだねざるをえない。

■主導権をもている状態(CD)
やるやらないを決めるのは(主に)私。自分にとって「おもしろいかどうか」が基準。ときに失敗し、痛い思いはするが、リスクを負い、結果を引き受けることが、自由につながることを知る。自分の行動の結果を、自分で負う、という自覚が生まれる。世界は自分次第、という当事者感覚を持てる。
私の人生を生きているという感覚が持てる。他者とぶつかることで、他者とともに生きることを学ぶ。

……二項対立で問題を単純化することのリスクをふまえつつ、いったん区分けしてみて考えることで、何を目情にするのかを議論してみたかった。実際の生活は、ぜんぶABでもぜんぶCDでもなく、今回はゆずってよ、次回、考えるから、というような折り合いで成り立っていたりする。

どんな場合でも、場を設定する側は、主導権について自覚的でありたいとは思う。例えば、ワークショップなど、誰かが枠組みを決めること、制約すること(問い、時間、人数……)で生まれるものもある。でも、壊れるものもある。だから場の運営者は、少なくともそのことに自覚的でありたい。でないとすぐに抑圧に転じてしまう。教育という言葉はその自覚を容易に忘れさせる。やらせることをあたりまえにしてしまう。人権を無視した部活のしごき、などはその象徴的な例だろう。善意こそ、要注意。
※注2 もちろん、近くの大人たちは、困ったときに助けてくれる人でもある。やさしい大人もたくさんいた。けれど、いずれにせよ、つきっきりではない。子どものケガも、事後、助けるからありがとうという言葉の交換になる。「ケガをさせてもうしわけありません」ではない。
※注3 ゲームは大人がその場にいないけれど、大人がすでにプログラミングしたもの(に遊ばされている)という意味で、A(大人はいないが、大人が主導権)にいれてみた。次々ソフトが更新され提供されることで、中毒化=行動を支配されたりするリスクが高い(とくに子どもにとっては)。先日、世界保健機関も、“ゲーム障害”を認定したとか。
ただボードゲームのようにゲームを媒介にして、他者との「関係を遊ぶ」ということはあるので、電子ゲームそのものをすべて否定するわけではない。
この例えが適切かどうかはわからないが、いわば友達と遊園地に行くようなもの。関係づくりに遊園地は必須ではないはずだが、遊園地という「強制びっくり装置」がないと友達と遊べないと思いこんでしまっていないか、そのあたりが心配。お金がなければ、誰かに用意してもらわなければ、遊べないと思っていないか、と。メニューやルールをそろえてもらえないと、なにもできない、となっていないか。

 
※注4
 そういえば、有名な「子どもの参画のはしご」のはしごの一番上にあるのは、「子どもだけで決めてやる」ではなく、「子どもが主体的に取りかかり、大人と一緒に決定する」(子どもが必要だと判断したら大人に聴く、頼むことができる状態で、決める)となっている。Dの領域に(すべてではないが)重なるのではないか。


http://www.pref.kanagawa.jp/docs/ch3/cnt/f531226/p41543.html#tei04 -----------------------------------------------------------


*注5 そうはいってもそんな学校や遊び場ってあるの?と思った方に

▼「教員がファシリテーター」の例
以下、ネットでひろってみました。
(「教員がファシリテーター」は正確な表現ではなく、単純化しすぎかと思います。おおざっぱなくくりでごめんなさい。下記のご紹介している学校も、当人がどう自認しているか、あるいは現地でどう受け取られているかわかりませんが、ここでは乱暴を承知で、日本の一般的な学校の先生との立ち方との違いを強調するため、大括りにして、「ファシリテーターとしての教員」とさせていただいてます。)

◯マイケル・ムーアの映画「世界侵略」の抜粋
フィンランドの教育を紹介
https://www.youtube.com/watch?v=qK20_-MDJYc
「テストで点を取る訓練は教育ではない」
「生徒が卒業後に幸せに生きること」(数学教師の一番の願い)
ここでは、教室・授業の具体例は紹介されていませんが、どんな哲学のもとに学校あるいは公教育が運営されているかが、垣間見えます。
具体例としては、
◯世界不思議発見
https://www.youtube.com/watch?v=iqG4fSLnUkQ
普通に一斉に先生の言うことを聞くのが授業ではない。
◯オランダのイエナプランという教育方法の映像
尾木ママが紹介してます。
https://www.youtube.com/watch?v=nCi2kTh0nww

日本でも 例えば……
◯きのくに子どもの村学園
https://www.youtube.com/watch?v=JkhLFBA3A88
イギリスのサマーヒルの学校を日本にもということで1992年に誕生。
食べること、つくることを中心に据えた生活を子どもたち自身がつくることの中に、いわゆる教科の学習を埋め込んでいる。

あるいは、普通の小学校でのこころみでは、
◯岩瀬直樹さんたちの実践
クラスづくりの極意―ぼくら、先生なしでも大丈夫だよ
もし若い頃にこの本にであっていたら、わたしも公立小の教員になろうと思ったかも、という一冊です。

◯映画『みんなの学校』で紹介された大阪の公立小学校の道徳の授業
小学1年生が本気で「いじめ」を考える…驚きの「全校道徳」とは何か
正解のない問いに立ち向かう方法

この授業をこういう形でやるに至った理由の記事とあわせて読んでいただくと、ファシリのある教室とない教室(従来型)の違いがわかりやすく書かれているように思います。↓
重度の障害があると診断されたユウちゃんが教えてくれたこと
『みんなの学校』全校道徳が生まれた理由


以上ご紹介したところの実践のすべてを理解しているわけではないのですが、とりあえず列挙してみたのは、私達が経験したいわゆる日本の学校のイメージだけで、考えないこと。「違う学校」がありうる、違った大人の立ち方、子どもと大人の距離、関係がありうる、ということはおさえておきたいと思うからです。


▼プレイワーカーのいる遊びの場の例

◯プレーパーク(冒険遊び場)を紹介した映像をいくつか。
プレーパークには、プレーリーダー(有給の場合が多い)や世話人(主に運営にかかわるボランティア)という大人がいます。
全国400カ所で、定期・不定期・常設さまざまな形で開催されています。

プレーリーダーとは(日本冒険遊び場づくり協会WEB)
http://bouken-asobiba.org/know/leader.html

のざわテットーひろば
https://www.youtube.com/watch?v=JvAhgHVBipA
NPO法人日本冒険遊び場づくり協会の事務所もここにあります。

四街道のプレーパーク
https://www.youtube.com/watch?v=ak_Azen9dh8
うかがったことないのですが、映像素敵なのでw

発祥の地 世田谷・羽根木プレーパークの昔の映像
https://www.youtube.com/watch?v=ECCofGrDDDs
1986年の映像。1979年に世田谷の市民によってつくられた羽根木プレーパーク。都市化の進行と、動く市民(上記絵図のⅡに気づいた大人たち)がいたのが世田谷なんだろうなあと想像。

とくにプレイワーカーと名乗ってはいませんが、子どもが信頼している児童館の職員、幼稚園の先生、保育園の保育士、学童保育の支援員は、プレイワーカーとしての仕事をしてきていると思います。

プレイワーカーあるいは、コミュニティワーカーのいる場づくりについては、拙著『あそびの生まれる場所』でも紹介させていただきました。みんなで責任を共有することと自由であることが表裏の関係であることについての一考察です。ご一読いただければ幸いです。
http://korocolor.com/book/asobinoumarerubasho.html

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以下、あとがきです。

ながながお読みいただきありがとうございました。
今回、「主導権」をキーワードに図示、を試みました。

以前、私が担当している大学の授業に、私が 理事をやらせてもらっているNPOの運営する学童クラブの支援員の先生にゲスト出演してもらった際に、その先生が「主導権は誰にあるか」という言葉で自らの仕事を説明しようと試みてくれたことにヒントを得て、描いてみました。

その先生は、とある地方都市で育っていて、その地元のNPO「子ども劇場」の大人たちとどっぷりつきあう中高生時代を過ごしてきたそうです。好きなことを仲間と思い切りやらせてもらった、とのことです。その時の大人のイメージをいまの仕事にいかしてくれているのだろうと思います。

学童の職員募集の説明をする際に、よく「学校の先生のようなかかわり方ではなく」という言い方をしています。また「学童は、家庭や学校で抱えたストレスを発散させる場所です」という説明をすることもあります。だからなるべく自由に、と。
ほんとはへんですよね、こんな言い方。
本来は、学校が無駄なストレスの生産地であることをさっさとやめられるとよいのに、と思います。先生ががんばる方向を変える。親も自分の体験した学校をもとに語ってしまうので、なかなかそうではないあり方があると思えない。

「主導権を子ども自身が握る」、冒頭の安藤さんの言葉でいえば「日常に自分たちの意思で何かが出来る」時間を、という目標ならば、学校の先生も、学童の職員も、プレーパークのワーカーも、同じ方向を向けるはず。考えることは本来楽しいことであり、そこでは、学びも遊びも「おもしろい」で共通していて、ずっとあとに結果としてふりかえると、その間「成長した」ということなっている、はず。

……朝、うかない顔をして、体重の半分ちかくある荷物(教科書全部もってかえるように言われている)を背負って、よろよろとでかけていく中学生の娘を見おくるたびに、胸が痛み、すまぬと背中につぶやきます。
「明日は、学校ないからつまんない」と言える学校にしていきたいものです。「先生」と呼ばれる大人の方々と一緒に。
時間はかかっても、少しずつでも。

 西川正