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交換と贈与の視点から、市民活動の意味を考える。

5月、私が所属するNPO法人ハンズオン埼玉などいくつかのNPOなどが呼びかけとなり、埼玉県内のNPOや一般社団法人に賛同を募り、ある要望(下記)を埼玉県に行いました。
結果は、ゼロ回答。他方で別の部署からのちょっとまとはずれなNPO支援施策が提案されるなど、わかりにくい結果になり、「モヤモヤ」しました。
企業とお店とNPOと、何が同じで何が違うのか。
そして、県とのやりとりの過程で、市民が自発的に行うボランティア活動・市民活動、市民事業の社会的な意義についてあらためて考える機会となりました。

いったん言葉にして記録しておこうと書いたのが以下のメモです。
主に市民活動等をしている方、そして、行政の方向けにかいています。
(マニアックな内容です  ^^)
長いのでこの網掛けの注釈・補足にあたる部分はとばしてお読みください。

■埼玉県への要望

5月の県への要望は以下の内容でした。

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https://peraichi.com/landing_pages/view/covid19saitama
埼玉県が実施した、コロナ自粛にともなう「中小企業・個人事業主支援金」の対象範囲にNPO法人、一般社団法人などの非営利団体が入っていなかったので、対象の範囲に加えてほしいという、シンプルなもの。

NPO法人も、税法上の事業をしていれば課税もされるし、登録をきちんとしておかないと県の事業の入札にも参加できない。ここではしっかり「事業者」として扱われている。営利法人等の事業者と同じ業態であれば、今回のコロナの自粛の事業者への経営のための財政支援の対象に入ってしかるべきではないか、と。県の担当は、産業労働部。

残念ながら結果としては、この要望については実現しなかった。*

*その後、8/7に発表された「埼玉県中小企業・個人事業主家賃支援金」の方には(国に準じて?)NPO法人も含まれている。成果か?

埼玉県はその後、県民生活部のNPO等を担当するセクション(共助づくり課)の施策として、NPO法人向けに10万円の助成金を用意した。しかしこれは、私達の要望とは違い、まったく別の枠組みでのNPOへの「支援」だった。*

*募集の助成対象となる団体の「要件」に「180万以上の事業収入があって、かつ売上50%減」という要件があり、これだけ見ると自粛で売上が下がった事業体への補助に見えるが、一方、助成の対象となる事業は、7月以降の企画・活動となっていて、団体側はなにか新たな活動を起こしていくという構造になってしまっていた。過去の自粛への協力の補填なら、新規の事業計画はいらないし、コロナ対応のための新しい事業への助成なら、売上減という団体の要件はいらない。また一般社団法人はここでも対象になっていない。
……この私達の要望との「ずれ」は、私たちが、普段からの県行政と丁寧に関係をつくってきていなかった結果とも言えるかもしれない。政策提案を迅速にさまざまなルートでできる状態が必要だった。これは私達の課題。

ひるがえって、今回、①事業者への支援(補償)と、②市民活動・市民事業(NPO)への支援がきちんと区別されて、取り扱われていただろうか、と考えると大いに疑問が残る結果だった。

そもそも、私たち自身が、きちんと整理できていたのかどうかもあやしい。*

*「私たちこんなに苦労してるんだから、行政も少しぐらい支援してくれたっていいわよね」という言葉を、地域で活動しているNPOから聞くことがしばしばある。今回もそんな「心情」を聞くことがあった。
気持ちはよくわかる。実際の活動は持ち出しが重なる。私もそう。
しかし、行政からの支出があるとしたら、それは「団体が苦労しているから」ではなく、「行政が目指す政策の実現のため」でなければおかしい。
コロナ禍の自粛とは関係なく、「私、こんなに苦労してお店を経営しているんだから、行政も少しは支援してよね」と例えば普通の酒屋のおかみさんがいったら、それはどうなのか?ということになるだろう。(「商店街」への行政の支援・補助の歴史は長いが、その評価は分かれる。)

というわけで、事業者であることと、市民活動や市民事業といわれるものの社会的な意味・価値について、あらためて整理しておく必要性を感じた。

で、考えてみたのが以下の図である。

■「交換」と「贈与」の視点から

松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)の「交換/贈与」論を参考に、コロナ自粛にかかわる行政のNPOへの支援施策について整理してみた。

交換と贈与

上記の PDFデータ ←PCの方は、こちらを開きつつ、以下、スクロールしていただくとよいかも。

松村さんによると、(モースの『贈与論』を参照しつつ)
交換は、等価なものの取引き。
贈与とはつまりプレゼント。
同じモノでも贈与すれば贈り物に、交換すれば商品になる。
贈与は、相手の必要性や欲求を満たすためのものではない。感謝や愛情といった感情を表現し、相手との関係を築くためのコミュニケーション
だからこそ、「親密な関係を築くことができる」一方で、「受け取らなければいけない」という義務も生じる。

この考え方で、「お店」を分類してみると、A〜B〜C〜Dの順に、交換〜贈与のグラデーションとして考えてみることができるのではないか。
Aは例えば、大手チェーンのカフェほぼすべて交換の世界。
Bは例えばまちの喫茶店。
Cはコミュニティカフェ。
Dは子ども食堂や高齢者のサロンや食事会など。

C・ Dの市民活動、市民事業の独自の社会的な意義は、贈与によって生まれるつながり、連帯、ソーシャル・キャピタルの蓄積。ひとことで言えば「人と人の関係を生み出すこと」と。これが交換ではつくれない独自の価値。

今回、B=いわゆる「まちのお店」は単純に交換(いわゆる経済的価値)を生む存在ではなく、贈与による価値(人のつながり)を生む存在でもある、と改めて認識されたのではないか。(い)

*例えば「スナック」は、人々の居場所でもある。先日放映された、NHKドラマの『不要不急の銀河』はその〝価値〟が、描かれていた。

B ・Cが事業者として事業を継続できないと、そこに付随している贈与としての価値も同時に消えてしまう。
今回の私たちの要請行動は、 図の(あ)を(あ‘ )までひろげてほしいという活動だった。交換の世界=事業者としての枠に入れてほしい、と。

■市民活動・市民事業の価値とは

単純に交換の世界はだめで、贈与がだいじだと言いいたいわけではない。

交換の世界(契約・システム)が大きく発展していくことで、私達の社会はここまで物質的に豊かな世界(産業社会)は構築できた。多数の人々が飢餓から逃れることに成功したといえるだろう。システム化をすすめることによって、ほぼ全員がいわゆる絶対的貧困から脱出することが可能になった。*

*とはいえ日本社会・いわゆる先進国にかぎって、ともいえる。地球的に見ると、より飢餓が広がった・富の偏在がすすんだともいえる。また、温暖化をはじめ環境への負荷は幾何学的に高まったともいえる。

他方で、交換の世界の急速な広がり(≒システム社会化)は、他者との「かけがえのない関係」の喪失していくことでもあった。
労働と消費の生活のどの場面でも自分が入れ替え可能な存在であるという不安を抱えることにもなった。「あなたでなくてもよい」と。契約とはそういうことだ。
他者と関係を喪失し、私たちは互いの存在が見えなくなっていった。そして、現実に社会的不平等が発生していても、それは社会の問題ではなく、その人の問題であると認識するようになった(「自己責任」)。それは自分(自分の家族)にとって損か得かのみを基準としてふるまう人が増えていくということでもあった(「お客様化」)。

コロナ前から人々は、すでにSTAY HOME=家族単位での暮らしになっていたのだ。家族を超えた人のつながりは、どんどんと薄くなってきていた。他者への共感を育む機会は、自然にはもてなくなりつつあった。*

*例えば、「希薄化する職場・親せき・地域とのつきあいと高まる家族の大切さ」(NHK放送文化研究所)など
http://honkawa2.sakura.ne.jp/2412.html
*日本のソーシャル・キャピタルの数値が低いことはよく知られている。
https://toyokeizai.net/articles/-/327414 より
*さらに、こんな記事も
「日本人は、実は「助け合い」が嫌いだった…国際比較で見る驚きの事実」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67142?page=2

そこにコロナ禍が発生。

今回は、交換の世界も、贈与の世界も、営利、非営利問わず、すべての事業者が存続を脅かされる危機的な状況になった。

交換の世界は、数字で表すことができるため、危機を認識しやすい。しかし贈与の世界は、もともとが見えにくいもので、危機としても認識されにくい。
人が会うこと、ともに食べ、ともに動くことを促進してきた市民活動・市民事業などの関係者にとって、「不要不急」というキーワードは、ダイレクトに自身の活動の存在価値への問い、となる重い言葉だった。

コロナ禍であたらめて見えたボランティアや市民活動・市民事業といわれる活動の今日的な意義は、まず、具体的に贈与を通じて他者との関係性(お互いに、あなたを待っている、必要としているという関係)を紡ぐことにある。
また、そこで、エンパワメントされた人々によって、より生きやすい社会につくりかえていく動き(交換に過度に偏重した社会を是正する、また政府セクター・行政による再分配のあり方を問い直すを含む)を促進すること、にある。

直に接触し、共に(一緒に)なにかをする、そのことによって他者への信頼を育む。他者への信頼があれば、SOSを出せる。人に支えられることで、やがで人を支えることができるようになる。
これは、「交換」では代替えすることができない、それ独自の価値である。

■もう一つの「新しい生活様式」

ということで、次の2つのことを確認して、このメモをおわりたい。

①活動するわたしたち自身が、その活動の価値(社会的な位置づけ)を、あらためて自覚しておきたい。

②行政とNPO(市民活動・市民事業)との関係は、協働が基本であることを再確認しておきたい。

行政はまず自らの課題に自覚的であってほしい。行政自らがもつ課題を解決するために、NPOと協働する必要があればする、必要なければしない。

行政が市民活動・市民事業を政策的に「支援」するのは、上記の贈与がもつ独自の価値を高める=市民自身がつながりあい、エンパワメントすることを促すためである、という認識をもってほしい。

例えば、そのまちの市民でつくる組織(営利でも非営利でも)に公共施設の運営を委託することの意味は、ここにある。交換(サービス)だけでよいと考えるのなら、行政の文字通り下請けのためにつくられた外郭団体か、あるいは、ほかのまちに本社をもつ株式会社で十分だろう。

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そもそも、贈与のみで、社会の問題は解決しない。問題の発生は、構造的なものだ。交換と贈与のをふくめた「全体を問う視点」が必要だ。
例えば、子どもの貧困は、贈与のみでは解決は決してしない。交換の領域に含まれる雇用/労働のあり方や、再分配の見直し(児童手当の増額や専門職の増員)を行わないかぎり、根本的な改善はない。(他方、それだけで解決できるものではなく最終的には、人のつながり方そのもののありようも同時につくりかえていく必要があると、私は考える)

この意味で、いわゆるNPOが、市場システムから生み出される社会問題の〝免罪符〟としての機能しか果たしていないのではないか、行政による再分配の不十分さをむしろ隠蔽する役割を果たしているのではないか、という視点は、常に持ち続けていたい。

交換の世界がひろがり、三密がむしろ足りなくてさまざまな問題が生まれていた私達の社会は、コロナ禍がなくても、「新しい生活様式」を必要としていたのだ。どうしたら人は出会うことができるのか、と。

例えば、この10年の市民活動「業界」のトピックといえば、子ども食堂の拡がりだろう。子ども食堂は、新しい三密を増やす活動=贈与による価値の模索の象徴だった。その意味で、今回のコロナ禍はほんとうにきびしい事態をもたらしている。
子ども食堂の多くの団体が、コロナ禍のなかで、いわゆる「宅食」に取り組んでいる。「宅食」は、誰がそれをするかで大きく意味が変わるのではないだろうか。アウトリーチとしてのつながりをつくり・維持するための宅食であれば、当然、地域の人々あるいは専門職が顔を見て手渡す、言葉をかわすということになるだろう。運輸会社への委託なども耳にするが、それは果たして「贈与」の役割を果たすのか。人々のエンパワメントにつながるのか、そこが問われるのではないだろうか。

上記に引用した松村さんは、私達ひとりひとりが「商品交換(市場)/贈与(社会)/再分配(国家)の境界を揺るがし、越境をする」ことで、この社会を変えていくことができるとよびかけている。

「贈与がもらたらす「つながり」はめんどくさい。近代社会は、それを避けるように個人の行為を「市場」や「国家」の線引きに沿って割り振り、社会の中に垣根をつくりだしてきた。人とつながることは、その人の生の一部を引き受けることを意味する。ときには市場/交換の力をつかって、関係を断ち切ることも必要になる。そのバランスをとるためにも、共感の回路をうまく開閉できたほうがいい。 いまは、これまで気づかれてきた境界線を試行錯誤しながら引き直していく時代なのだと思う。(中略)一人ひとりお越境行為によって、そこにあらたな意味を付与し、別の可能性を開いていく。それが重要だと思いう。」 (『うしろめたさの人類学』p189)

どんなしくみをもった社会にすればいいのか、どんな暮らし方をすれば、どの人も自由に、希望をもって生きていけるのか、交換や贈与の概念もおさえつつ、異なるセクターの人々が対話を重ね、試行錯誤してけたら、と願う。
その試行錯誤をこそ「新しい生活様式」とよびたい。


おわり


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筆がすべってさらに追記:
◉自助、共助、公助 再考

俗に自助、共助、公助という言い方がある。自助がだめなら、共助(たすけあい)、共助がだめなら、公助という順番だといわれる。
しかし、これがそもそも問題なのではないか。
自助とはつまり誰にも頼らないことがいいことだ、とされる社会は、結局、自己責任(こんなに私がしんどいのは私のせいだ)の社会となる。そもそも人は一人では生きていけない。自立のイメージが再考されなければならない。https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html
共助は、公助の代替えではなく、共助独自の価値がある、ということをおさえておきたい(本文参照)。
公助は、本来、行政の責務はなにかをあらわしている。人々の権利を保障する義務が、行政にはあるということを意味している(その意味で、「助」という言葉は使わないほうがよい、と筆者は考える)。行政はまずこの視点から、社会の問題を解決するために自分たちの立場で何ができるか・すべきかを、ぜひ問い直してほしい。「共助、いいことしてますね」と煽る前に自らやるべきことが何かを、市民とともに考えてほしい。

例えば、コロナ禍で、子ども食堂やフードパントリーなどの市民活動は、感染防止対策を行いながら、貧困家庭にぎりぎりの食の支援(弁当、食品の配布等)をこころみていたが、他方、公的な学校給食は、ほとんど動いていなかった。子どもたちの食を保障するために、何ができるのか、学校は何もできなかたのだろうか。家庭によって差があるのは承知の上で、公平(なサービス)を理由に、動かなかったとしたら、それは平等なことなのだろうか。もし、直接動くことが難しかったら、動こうとする市民と協働する姿勢を持とうとしていただろうか。

この春、筆者は、手作りのマスクを募集し贈るという活動( https://peraichi.com/landing_pages/view/saitamask )の中で、埼玉県内各地のフードパントリー(市民活動)をまわる機会があった。フードパントリーが効果的に、「食物」や「つながり」を必要とする人々に出会うには、学校や行政機関の関与が大きく影響していた。ある地域ではスクールカウンセラーが地元の自治会の協力を得て、パントリーをひらいていたし、別の地域では中学校の先生と主任児童員が協力して、必要な家庭に声をかけていた。しかし、一方でまったく協力が得られず、口コミのみという地域もあった。

行政職員であるまえに、NPOのスタッフである前に、会社の人である前に、私達は、まず一人ひとりの人である。どのように生きたいか、どんな社会にしたいかは、一人ひとりへの「問い」としてある。そのうえで、いま、自分の「立場」で何ができるのか、誰と結んでいけばよいのかを考えたい。
「それは自分への問いではない」という人が増えてしまうと、社会全体のゆがみは是正されず、「お上のお沙汰」を待ち、不満がたまれば「お沙汰」にそっていない人をつるしあげるようになる。逆に、「それは自分の問題だ」と考える市民が増えれば、平等で寛容な社会に近づくことができるだろう。


◉冒頭の写真は近所の魚屋さんにて。ときどき、塩辛を買います。先日、その塩辛を食べていたら、高校生の娘が「その塩辛、お父さん前からいつもあそこで買ってるよね。」というので、「小さい時よく立ち寄ってけど、覚えてる?」ときくと、「保育園の帰りによく寄ってたでしょ。塩辛買うと、飴をくれたんだけど、ハッカのアメで辛くて食べられなかった」。舌はよく覚えている。おまけ、という贈与の文化も、まちのお店(B)ならでは、か。