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城章子の『遠い夢の中で』

城章子さんの作品の中にはもう一つ忘れ難いものがあって、
それは『遠い夢の中で』という3回連載作品。
<別冊少女コミック>の1978年4月号から6月号までに掲載された、総116ページのものだ。

ここに出てくるのは天使のように清らかな娘、ジョスリーヌと、
世をすね、人を恨んで生きているジプシーの息子、レイモン。
その二人が出会ったことによって生まれる愛と苦悩の物語だ。

物語を紹介すると、
レイモンは、流れ者のジプシーの息子だということで村の人々からのけものにされていて、
いじめなど知らずに育ったジョスリーヌは、そんな村人たちの態度に心を傷め、彼を気にかけるようになる。
自然と引かれ合っていく幼い二人だが、
実はすでにこの世の人ではないレイモンの父親は、
かつて、ジョスリーヌの父である村の名士、ヴィクトル・ボズフィに殺害されたという秘密があった。
その後ろめたさもあり、ボズフィはレイモンの祖父が遺した土地を奪い取り、レイモンを村から追い出そうとする。
山火事を起こした濡れ衣を着せられ、村にいられなくなったレイモンは、
村を出ていこうとしながら、自分が名を上げてここに戻ってくる時まで、どうか無事でいてほしい、とジョスリーヌに頼み込む。

ここでジョスリーヌが涙を流しながら、澄んだ瞳でレイモンを見返して言った言葉が印象的だ。

「あなた一人を好きになることが そのままほかのだれをもきらわねばならないのなら  あたし…そうするわ」

好きになった男にすべてを捧げんとでも言わんばかりのこのせりふ。
それがいいか悪いかは別にして、ジョスリーヌの純真さが表われている。

しかし、レイモンが村から出るのを見送る途中でジョスリーヌは足を滑らして川に落ち、
それを助けようとして川に飛び込んだレイモンは、
なんとかジョスリーヌを川岸に着けることには成功したが、
ぐったりした彼女を見て死んでしまったのかとショックを受け、自分が川に流されてしまう。

目を覚まして、レイモンが死んだと村人たちから聞かされたジョスリーヌは、
そんなことは信じられない、と半狂乱になるのだった。

と、ここまでが第1回目。
小さな恋物語の終わりのようでありながら、さらなる不穏な物語の幕開けでもある。

第2話は舞台が一転して、7~8年後のパリ。
どうにか生き延びていたレイモンは、チンピラまがいのことをしながら日々の生計を立てていた。
大物政治家の有閑マダムに囲われ、映画に出演するチャンスをつかみ、その破天荒なふるまいとダークな魅力で人々の心をつかんで、俳優としてどんどんのし上がっていく。

しかしその胸にあるのは黒々とした復讐心のみ。
ジョスリーヌが亡くなったと思い込んでいる彼には、カネと地位を手にして、自分を見下していた連中を見返してやる以外にはなんの目的もないのだった。

そのためには手段を選ばず、自分を世話してくれたマダムも非情に切り捨ててゆく。
その時に彼が大見得を切って言ったせりふがまた印象的だった。

「ああ オレは悪党さ 道理が通じなかろうさ
 だが どこの世界にいきゃ そんなけっこうなものがあるってんだい
 世の中矛盾だらけだってことは あんただっていやというほど承知だろっ」

私にとって、この物語の中で一番記憶に残ったのは、
実は純真無垢なジョスリーヌの言葉よりも、レイモンのこっちの言動のほうだった。
ここにはレイモンの本音と苦痛がにじみ出て、いや、吐き出されている。

第2話では、そのようなレイモンのワルっぷりと、名声をつかむまでに上り詰めるところまでが描かれる。

そして最終回である第3話。

ここで話は意外な展開を見せる。

再会を果たしたジョスリーヌはなんと目が見えなくなっていたのだった。

レイモンを追い詰めた村の人たち誰も彼もを激しく憎み、
しかしはっきり彼らに向かって自分のそのような気持ちを伝える代わりに、
自分で自分の目を見えなくすることで、人々、ひいては世の中への拒絶を表わしたのだった。

元々クリスチャンとして、すべての人を愛するように教えられてきた彼女にとって、
村の子であるというだけで、なんの罪もない赤ん坊にまで憎しみを抱いてしまったことは恥ずべきことだった。
それと、ジプシーの子だというだけでレイモンを忌み嫌った村人たちとなんの変わりがあるのか、とジョスリーヌは心から自分を恥じていた。

そんなジョスリーヌの告白にレイモンは愕然とする。
彼はその時初めて、自分のしてきたことも同じだと気づくのだった。
自分が地位を得るために誰彼かまわず人を踏みにじってきた行為は、
よってたかって彼を虐げてきた村の人々となにも変わりはなかった。
問題は自分自身のあり方にあることに彼は気がつき、
今さら気づいても取り返しがつかない、と自分で自分を嘲笑うのだった。

と、ここまで改めてつぶさに筋をたどってみると、
傷ついたり傷つけられたりしたと思った時にどうしたらいいのか、
というより、傷ついたり傷つけられたりしたと思ってもどういう態度を取ってはいけないのか、の答えは、城章子さんはやっぱり持っていたような気がする。
もちろん、それを実践することは、聖女のようなジョスリーヌでもかなわなかったのだから、難しいことなのだけどね。

そして、キャラクターの雰囲気や、感情の表わし方は、
きわめて大雑把な区分けかもしれないとはいえ、やはり竹宮惠子の系列だと思う。
第2話で屈辱の日々を思い返すレイモンの横顔など、
心なしかジルベール(*)が悔しそうな顔をした時によく似ているような気がするし。
なにより激情的なキャラクターは、誰より竹宮惠子が得意としていたものだ。

さて、長い年月の末に自分のしてきたことの愚かさに気づいたレイモンはその後どうするのか、
そして、ジョスリーヌの目ははたしてふたたび見えるようになるのか、
といった最後のクライマックスシーンは、
すべてを覆い尽くさんばかりの激しい山火事の炎の中で描かれるが、
これがまたドラマチックで、まるで映画のような壮大なシーン。
まあ、舞台はフランスだし、この少し前の時代までの少女まんがには、
外国を舞台にしたドラマがたくさんあったから、それ自体はそれほど珍しいものではないかもしれないが。

こうして粗筋を詳しく書いてしまうと、話のすべてを語ってしまっているように見えるかもしれないが、
もちろん実際の作品はもっと込み入っていて、エピソードもいろいろある。
特に、マダムを黙らせるためにレイモンが使った切り札は、
当時の少女まんがの読者にだってちょっとショッキングなものだった。

そして、のし上がっていく時のレイモンの冷酷な顔。同時にその陰に潜んでいた虚無感。
ジョスリーヌは自分を蔑んでもやはりどこまでもお嬢さんっぽく、気品が失われることはなかったが、
レイモンは時に血をたぎらせた表情をし、かつふとした横顔に寂しさを浮かべる。

今回、丹念に読み直してみたら、こちらも長い年月を経てから再読した分、以前とはまた違う味わいがあった。
前に読んだ時には、私はそこまで深く登場人物たちの心に入り込んでいなかったかもしれない。
しかし、ドラマ性があり、前回紹介した『見果てぬ夢』とともに、私にとっては忘れられない作品なのだった。

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これはほんとうはもっと前に書きたかったのだけれど、
持っていると思っていたこの作品の切り抜きがどうしても見つからなくって、
"おかしい…"と段ボール箱をあさっているうちに日々が経ち(経ち過ぎだが)、
しまいにゃ、米沢嘉博記念図書館に行って読み直してから書いたという始末。

もっと早くそうすりゃよかった。

(*)もちろん、『風と木の詩』(竹宮惠子)のメインキャラクターであるジルベール。







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