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オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム のライブビューイングが最高だったという話をしたいだけなんだが

私はこのnoteは資産形成や節約やその他生活のことについてまとめて細々と発信するために始めた。

それ以外の個人的なことやエンタメの感想などを書くつもりなど毛頭なかった。私は若干自意識過剰を拗らせた人間なので
「お前誰やねん」
と思われるのではないかと常に考えてしまう。何者でもない自分が個人的な感想など発信して、読み手に何か得があるのか、そんなことを想う。

しかし他に発散する場所がないのでここに記す。

お前誰やねん?

知るか。今日は誰のためでもなく自分のために書くのだ。



夫の一言に熱くなって反論してしまった話

夫とは全くエンタメの好みが被らないので、こういったイベントに一緒に行くことがほぼない。なので今回も私1人で戦地に赴いた。

「オードリーのイベントのライブビューイングのチケットを取ろうと思う。その日夕方から夜まで子供を1人で見てもらうことになるが大丈夫か?」
と持ちかけたら。

「いいんじゃない?行って来たら」

という答えが返ってきて拍子抜けした。反対されると予想していたから。

誤解の無いように言うと、夫は別に私が土日に子供を夫に託して出かけることに懸念を示す人ではない。ただ、妊娠中だということに加え、インフルエンザやコロナに感染するのは今の時期避けたいので十分気を付けてほしいという話はお互いにしていたので、先述のような言い方になった。
夫は「まあマスクして気をつけて行くなら良いんじゃない?」と言っていた。

今回のイベントから帰ってきた後も夫に詳細な内容を伝えるつもりはなかったのだが、二人のトークの中でこの部分だけは一緒に笑えそうだな、と思ったくだりがあったのでその話だけしようと思った。

のだが、その時の会話

私「昨日のイベントでさー」
夫「あ、サプライズゲストで〇〇が出たんでしょ?}
私「は?なんで知ってんの?もう出回ってるの?」
夫「昨日、君が返ってくる前にはもうyahooニュースに出てたよ」

ここで熱くなってしまった。
(以下、オタクの早口で)
「そういうのほんと嫌だよね!数日経って本人たちが言い始めるのは構わないし情報が出回るのは仕方ないけど終わった直後にニュースで出るって関係者かその場にいた人がリークしたとしか思えないし、その書き方だと話題作りや会場を盛り上げるためだけに呼ばれたって捉えられるよね?その人とオードリーがここ数年どんな関係性でやってきてラジオ上でどんな絡みがあって、去年こういう番組をやってて、とかその流れを全然知らない人にキャッチーな部分だけ切り取られて伝わっていくのマジで腹立たしいんだけど!!!!」

気がつくと勢いでまくしたてていた。夫はやや引いていた。

夫は今回のイベントを「公開収録」を兼ねたものと思っていて、いずれラジオでそのまま音源が流れるものと思っていたようだ。

なるほど。それならゲストが公開されていても内容がある程度事前に出回っているのも別に自然なことである。

でも、そうじゃなくてね、ファン向けのイベントで、来場者とライブビューイングと配信で見てる人しか全容は知り得ないし、ある程度閉じた空間のもののはずなんだよ?
という話をしたら理解はしてくれた。

夫はビートルズのファンなのだが

「例えばポールのライブにサプライズでリンゴスターが出てきたとして、帰りの電車でyahooニュースでそれが流れてきたらブチ切れるよ。だからそれでムカつくのは理解できる」

だそうだ。知名度と規模が違いすぎるし、音楽イベントだとまた趣が違ってくるのだがとにかく理解と同情は示してくれた。


気にすることはない。私が知っていればいい「宝物」だ

イベントが18日(日)に行われ、これを書いてるのが3日後の21日(水)で、現時点ではゲスト出演した人たちが自らのラジオでそれを語っていたりSNSで発信をしているので多くの人が知っている。それは別にいい。本人たちが本人たちの目線で語るのは全然自然なことだ。
だからここで、名前を挙げても別に問題はないのかもしれないが、私はそれはやめておく。イベントのリポート記事を書きたいわけではないのだ。

冷静になった頭でイベントのことを思い返してみる。

閉じた空間で起こったことを切り取って文脈とか無視で発信されることに関しては相変わらず腹立たしい。

だからと言って別に、自分が受け取ったものが損なわれることもないしその瞬間の感情を味わえたのはそこにいた自分が一番知っているのだから、いつまでもイラついてなくて良いのではないか、と今は思えるようになった。

適当に書かれた切り抜き記事、こたつ記事に反応し喜んでる人なんて、その意味や背景をなんも知らないわけで、そんなの私が受け取った物に比べたらぺらっぺらだ。かわいそうな奴ら。

ライブヴューイングのチケットを買って足を運んで、無事にそこに行くことができた。そのことに感謝だし自分をほめたい。
結果、行かなければ得られないもの、あえて恥ずかしい方で「宝物」と言おう。参加しなければ決して手にできない「宝物」がある。

ラジオのイベントを大きな箱でやる、というハイコンテクストな状況について

さて、ラジオはいわずもがな「音」で発信するコンテンツだ。ラジオ番組のイベントというのは結構行われるし、ラジオファンに向けたイベントであるのでもちろん「トーク」が中心ではあるが、リアルイベントになった時点で音声ではなく本人たちの姿を見ることになるし、音以外で楽しませるコンテンツを用意することになる。
っていうかそもそもラジオのイベントを東京ドームでやるって何事?!という話である。
普段ラジオでやっていることをどう大きな会場でやるのか、いつものラジオの良さも残しつつ、リスナーだからこそわかる内輪ネタもありつつ、でも内輪だけじゃないパフォーマンスも盛り込む。お客さんに楽しんでもらうことが第一だけど、そのうえで「自分がやりたいからやる」という時間ももったほうがいい。
今回も、その辺もちゃんと綿密に計算されバランス調整されているな。と感じた。
もちろん、ラジオを聞いたことがなくて単に面白そうだから、という人がいてもいい。でも、ここまで積み上げてきたことがある程度わかるからこそ楽しめるコンテンツであることは間違いない。
単に漫才ライブやります、とか、いつもTVでやっていることを大きな会場でやります、というわかりやすいものと違って、ラジオがベースになっているけれど、ここでしかできないことを追求し、映像も音響も会場も使えるものを使って笑わせに来てくれる。
あそこで起きたことを堪能するということは非常にハイコンテクストである。そういうハイコンテクストな笑いを楽しめる場に行けてよかった。そこに至るまでには積み重ねが必須だからだ。

飽和状態であった毎日に気づかせてくれたあの番組

Netflixに「LIGHT HOUSE」という番組がある(もうこうなってくるとサプライズゲストの名前を書かないことに何の意味もないが)
そこで、「好きな仕事ができているし、会いたい人にも会えたし、自分が昔夢見ていたようなことは大体叶ったのに、なぜか幸せじゃない」という話が出た。その話を受けた相手が出した言葉そのものずばり出すのはやっぱり有料コンテンツ切り取りになるのでやりたくない。だからめちゃくちゃふんわりした言い方で言い直すと、要するに「飽和状態」であるのだ、という結論になった。

新鮮さも驚きも通り越して、経験値からくる感覚でそれなりにできるようになってしまった。自分はどんどん年を取ってベテランになるし、人からそれなりに信頼されるようにはなった。でも毎日ワクワクはしない。これから先何をモチベーションに生きていけばよいのか。

1人で見ていたのに「わかる!」と大きく頷いてしまった。ここ2年ぐらい、仕事に対して持っていた感覚。それを見事に言語化してくれた。
「え?私のこと言ってる?」
と錯覚しそうになる。

芸能界にいてすごいことを日々やってのけているこの二人でもこういう状態になるんだ?!という新鮮な驚き。

多くの人がそうであったと思うが、私もこれに衝撃を受けたし、大いに励まされた。
あ、その境地に立っている人でも飽和状態になるんですね。じゃあ私ごときがそういう風に感じても何もおかしくないし、罪悪感をもつ必要もない。当たり前のことだ。そしてそれを発信することも自由だったんだ!

魂が震えるようなことがないと生きていけない

若林氏がこのようなニュアンスのことをどこかで言っていたと思う
「東京ドームイベントなんてやべえって思うし、震える。でも、怖くて震えるようなことがないと生きていけない」
そうだ、今のままなんとなく安定してるな、という日々を過ごすだけじゃ、毎日はモノクロだ。それでも全然困らないのに。
やっぱり怖くても、新しい何かに向かっているときは楽しいし刺激的だし、周りの景色に色がつく。

資産形成も節約も生活も結局、そういう瞬間を輝かせるために

なぜ、節約するのか、資産を増やしたいのか。

お金がたくさん貯まれば幸福なのか。

多分そうじゃない。 

この先、何か震えるようなこと、怖いけどこれはチャンスだ、と思うことが舞い込んできたときに、足場がしっかりしていたほうがちゃんと踏み込める気がする。
少なくとも「お金」が理由であきらめずに済む。
そのために私は、いらないものをそぎ落として本当に大事なものが何なのか、それを見極められるように、せめて身の回りはシンプルかつ盤石にしておきたい。それに尽きる、という結論に至った。

いろんなことに、文脈と背景がある、ということを忘れずにいたいと願う

さて、ラジオイベントはハイコンテクストだ、という話を先ほど書いたが、世の中のさまざまなコンテンツには背景がある。
SNSが当たり前になって、サクッと表現活動ができるようになり、140字で自分の考えを発信することが当たり前になり、その裏にある様々な背景や発信者が持ちうる情報を削ぎ落とした言葉に触れることが多くなってると思う。

気軽ではあるが、危うくはあるなと感じている。その人がなぜその発信をするに至ったのか、背景では膨大な情報、成育歴、日々の生活、人間関係などいろんなものが絡み合っているからだ。

それをこれから先、ずっと忘れずにいたい。表面だけの情報で一喜一憂する人生なんてぺらっぺらだから。そんな日々を私は送りたくないから。


ありがとう、またいつか

書いているうちに1週間経ってしまい、ホットな情報でもなくなってしまった。
以前の私ならこの記事を公開することはやめていたと思う。もう旬じゃないならだれも見向きもしないし価値もないだろうと。
でも、それを変えてくれたのもあのイベントだ。私は私で、私自身のコンテクストをもって感じたことは唯一無二であり、オードリーのANNと私の関係も固有で不可侵なものであることが分かったから。
圧倒的な情熱とあの場にこめられたリスナーに向けた感謝の想いを受け取ったから。

東京ドームでの講演を終えてしまってあの番組はあと5年後、どこを目指すのだろうか。
未来は誰もわからない。それでも生きるのだ。

ありがとう。またいつか。


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