きょうのつぶやき2

人間って、
ほとんど全てが
「生まれた時点で持っている本質的な能力や特質
  +生まれた時点~少年期くらいまでの環境で得た後天的な性質」
で性格的な個性みたいなもの 思考や行動の特徴など も全部決まってしまうと思う。

で、残りの人生は 少年期までに出来上がってしまったそれらと
その後に自分が所属した環境との折り合いをどうやってつけていくか、だけで生きていく。
気持ちの良い折り合いがつけられる人もいれば、辛い折り合いしかつけられない人もいる。
それは、出来上がってしまったものと その環境とがどの位マッチしているのか、
そもそもその出来上がってしまったものが どんな種類の折り合いを好むのか、
などによって違ってくるんだろう。

そして、一定の割合で その出来上がってしまったものを拒絶して生きようとする人たちがいる。
その一例が、いわゆるスピリチュアルな人なんだと思う。
彼らは大抵 自分の中の内なる声に従うだの  あらゆる外的なしがらみから解放されるだの言って、
よりワタシらしいワタシ、みたいな生き物になりたがる。
ただ面白いことに、そういった人たちの ワタシらしいワタシ の姿は、
結構似たり寄ったりで いわば無個性にも見える。
それが 内なる声に従って 外的なしがらみから解放された場合のニュートラルな人間の姿なんだ、と
言うならば、それはそういうものなのだろうけど。
ただ、私の目から見るとそれは「なんだか清らかな 自由な存在としてのワタシ」というものを
想像して生きた時に 割と似たり寄ったりの姿しか想像できない、という人間の想像力の限界の
ようにも見えるのだけれど。

いずれにしても、
少年期までに出来上がってしまったもの=「少年期までに出来上がった私」というのがそれぞれに
それなりに個性的であるのとは対照的に、
いわゆるスピリチュアルな人たちの姿は 実に無個性ではある。


対して、泣き上戸・笑い上戸なんて言うけれど、酔っ払いの姿なんかも ある程度の類型には
分かれるけれど、そこまで個性的ではないとも思う。
泣く・笑う・暴れる・寝る・性的に解放される とかだろうか。

スピリチュアルもお酒も共通しているのは
「忘我の状態に近づいて 普段抑えていたり隠している“自分の内なる声”が解放されてしまうこと」
かもしれない。
ただ、そう考えると 自分の内なる声ってものは 単に「人間社会を生きていることについての
自分なりの感想・リアクション・心の叫び」みたいなものなのかもしれない。
そういえば感想文っていうものも、それなりに似たり寄ったりなものだ。

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