『モノノケ記』 - 1話

目を開けると、母がボクを覗き込んでいた。
母かボク、どっちの汗か涙か分からないほどボクの顔は濡れていた。
起き上がり公園を見渡すと、数台のパトカーと救急車が来ていたけど、一緒に遊んでいた女の子を見つけることはできなかった。
母は「大丈夫、大丈夫だから」と繰り返しボクの髪を細い手で撫でた。

確かにあの時、ボクは彼女の足をみた。
靴が顔の高さまであったから、彼女の顔も、笑ったクマのTシャツも見えなかったけど、彼女は”飛んでいた”。うん、ボクにはわかる。

警察は熱心に何かにカメラを向けていた。

(...先っぽだけ赤い)

警察がそれを持ち上げると、ドブ色のブヨブヨとしたものがボトっ、ボトっと地面に落ちた。
警察は、ブヨブヨと汚いものの中から真っ赤な靴を取り出した。靴を取り出す様はまるで、父と一緒にデパートの屋上で見たマジックショーのようだった。

ーうん。僕には分かる。

呆然と立ち尽くし、やがて泣き喚き始めた息子を私は必死に抱きしめた。
息子がどこの誰と遊んでいたのか分からない。警察と息子の話によると、どうやら赤いパンプスを履いていた女の子だそうだ。

私はホッとした。

それから警察によって女の子の捜索が行われたが一向に見つからず、公園の周りは一足早い盆を知らせるかのように、メディアの関係者で溢れかえっていた。連日、ニュースはこの事件で持ち切りで、数週間に渡りメディアを騒がせたこの事件はネットでもトレンド入りのネタとなった。

ー少女謎の失踪。いまだ現れない少女の父と母!
ー女の子はすでに両親に殺されているんじゃない?
ー男の子は軽い脳震盪だったんでしょ?そもそも女の子なんていなかったとかじゃね?
ー子供の自作自演。騒がれたいだけの男子小学生乙。
ー謎の物体ってどうせスライムだろ。UFO見たとかそっちのほうがまだ可愛げあるwこれはやりすぎw

批判や陰謀論などで加熱するニュースやネットに反比例し、警察の捜査意欲は徐々に下がっていった。捜索願が出されていない状況が続き、捜索範囲を広げることもこのまま捜査を続行することもできずにいたのだ。そして事件から1ヶ月が過ぎた頃、ニュースもネットも事件を話題にしなくなった。警察は「捜索願を早く提出してほしい」、最後にそうTVで呼びかけ、捜査を打ち切った。

女の子は2度と帰ってこなかった。

ーそして11年の時が経った。

「いってきまーす!」
勢いよく靴を履き、家を飛び出した少女。
左足の踵を彼女の細く長い指が触れ、つま先を地面に数回当てる。
新調したセーラー服、山を駆け下りる彼女の揺れる胸の上で赤いリボンが踊っている。

(今日は入学式。友達、出来るかな...)

元気な体の動きとは裏腹に、学校に近づくにつれて募る不安。
ものの10分で着いた正門からは、来客用の駐車場と職員用の昇降口が見えた。生徒は正門を通り、右手に進んだ先にある生徒用昇降口に吸い込まれていく。

(ここが私の学校!はじめての学校!)

川の流れをせき止める岩のように、正門前に仁王立ちで佇みながら学校を見つめる彼女。先程までの不安は消え、代わりに興奮と期待が胸を膨らませた。訝しげな目を彼女に投げる生徒たちだが、男子生徒の多くは彼女のスラリとした長い脚と、遠慮がちにセーラー服に収まっている胸に気づき、数回視線を泳がせてはコンビニの青年向け雑誌コーナーを通りすぎるかのように、何事もなかったかのように歩いていく。そんな彼らの視線に彼女は気づかない。

決意したように勢いよく一歩を踏み出した彼女は、正門を抜け昇降口へ向かっていった。

「えっっと...1-A…そが...そが....」
下駄箱に靴を入れる生徒たちの背中越しに、自分のクラスの下駄箱を探す彼女。

(菅...須賀...蘇我...田口...あっ、あった!)

自分の下駄箱に学校指定の黒いローファーをしまい、人の流れに沿って教室へと向かう。この学校では1年生の教室はすべて1階にあり、学年が上がる毎に2階、3階へと移っていく。Aクラスは昇降口から一番近いところに配置されている。

彼女は教室の扉を開くと熱い視線を感じた。既に半数以上の生徒が席に座っており、教室の扉が開くたびにどんなやつが入ってきたのかと、視線を投げている。

すべての生徒が席に着いて、みんなが無言でいた頃、制服を着ていない無精髭を生やした男が入ってきた。教師のようだ。

担任教師「みんなー、おはよう。俺がこのクラスの担任をすることになった。よろしく。」
担任は、教室を見渡すように生徒に視線を向ける。

担任教師「みんな緊張が顔に表れてるなー。ちょっと、横のやつ見てみろー」
生徒たちは恥ずかしそうに顔を合わせる。

担任教師「それが、いまのお前たちの顔だ。緊張して強張ってるだろ。普段そんな顔を鏡で見ないだろーから、よく拝んどけ」
と、笑いながら話す担任。

生徒たちはお互いに顔を見て、まるで子供が転んで5秒後に泣き出しそうな顔になっていることを知って吹き出す。緊張からの緩和。クラスの空気が少しだけ明るくなった。

ガヤガヤ。教室内に生徒同士の会話が飛び交う。

担任教師「じゃあ、出席を取る。」
黒いノートを教壇に開き、席を確認する担任。

担任教師「空席が無いからみんな来てるだろうけど、クラス間違えてないか?大丈夫か?」
「よし、では相澤」
相澤「はい。」

担任教師「井上」
井上「はい。」

ガヤガヤ。続く出席確認。

担任教師「蘇我」
蘇我「はい!」
返事とともに彼女の指先は誰よりも高く天井へ向かって伸び、それはざわつく教室の空気に針を指した。

[パンッ!]

彼女の凛々しい返事と、その美しい所作に担任を除いた誰もが息を飲み、彼女を見た。彼女が手を下ろすと同時に次の生徒が呼ばれた。

担任教師「田口」
田口「...はっ、はい!」
虚を突かれたような田口のひょろひょろとした返事は他の生徒を我に返らせた。次々と呼ばれる生徒たちの声は気だるさ5、興奮3、緊張2の割合で感情がMixされている。やがて、全員の点呼が終わった。

担任教師「呼ばれてないやつはいないかー?1-A総勢36名、みんなよろしくなー。10分後、入学式のために体育館に向かう。廊下に出席番号順に2列、進行方向右側が若い番号な。並んでおけよー。先頭はC組側だ。またその時に声かけるから、それまでは自由に教室内でゆっくりしてていいぞー。以上」
そう言うと、担任は窓側の席に戻り徐に書類を確認し始めた。

(窓側の席がよかったなぁ...)

窓からは中庭を挟んで反対側の校舎が見える。反対側の校舎には4組から8組まであるそうだ。胸のリボンに指を絡めては解きを繰り返す彼女。男子生徒は腰から伸びる彼女の長い脚を隙きがあれば見ている。

「ねぇねぇ、蘇我さん。蘇我さんってどこの中学校出身?」
後ろの席から彼女に話しかけたのは、先程クラスの静寂を破った田口だった。

田口「あ、私、田口明菜(たぐちあきな)。私、なんかさっき蘇我さんを後ろから見てて驚いちゃった。」
蘇我「...驚いた?」
右側に体を開き、彼女の顔を見る彼女。

田口「うん。よくわかんないんだけど、一瞬なんだけど蘇我さんに見とれちゃった」
蘇我「私、なんかしたかな?」
田口「あ、違う違う。さっき担任から呼ばれたときの蘇我さんの手、すっごく綺麗にまっすぐ伸びてて...それに蘇我さん綺麗だし...指も長いし...それで...」

(田口さん、私を褒めてくれてるのかな...)

蘇我「ほんと?緊張してたし気にしてなかったけど...あっ、私の声震えてなかった?」
田口「ううん全然!むしろ私のほうがなんか変な声出ちゃってたし...恥ずかしかった(笑)」
蘇我「全然そんなことないよ。あっ、そういえばさっきなんか質問してくれた?」
田口「ああ、そうだ!蘇我さんってどこの中学出身なの?」
一瞬俯く彼女。

蘇我「…実は、別の県から引っ越してきて。中学はそっちで行ってたんだ。」
田口「そうかぁ。じゃあ私の中学言っても分かんないねー。」
蘇我「ごめんね」
田口「いや、逆になんかごめん!蘇我さんが謝ること無いよ!」
蘇我「この街もよくまだ知らないんだ。だから、よかったら教えてくれると助かる。」
田口「もちろん!私の家も近いし、この辺は私の庭も同然だから!何でも聞いて!」
蘇我「うん、ありがとう」
田口の短く切った髪は綺麗に整えられ、前髪は眉毛にかかるかかからないかの絶妙な位置でたむろしていた。耳にかけた髪から覗く耳は、丸く小さく控えめにそこにいた。

「蘇我さん!」
田口と話をしていた彼女の背後、窓側から声が聞こえた。

片山「俺、片山。よろしく」
片山は、野球部よろしく丸刈りの頭と野球部らしくないひょろい体つきで彼女の後ろに立っていた。片山を見た10人中9人は坊主頭を見てすぐ「野球部」といい、残りの一人は「野球って何?」と言うだろう。

片山「蘇我さんってもしかしてモデル?」
そう問いかける片山の目線は、彼女の顔から胸、そしてつま先でUターンし彼女の目まで戻ってきた。

蘇我「いや、違う。」
片山「うそ!マジで!?絶対モデルだと思ったのに!有名人と友達になりたいっていう俺の夢が...じいちゃんとの夢がぁぁぁ!」
田口「じいちゃん共々ちっちゃい夢だなそりゃ。」
片山「なんだと、田口!人の夢に口出すなよ!」
田口「あんた男でしょ!なら自分が有名人になってみなさいよ!」
片山「すでに有名人になってるやつと友達になるほうが早いじゃんかよ!」
田口「そんなすぐに達成したところで、一体何になるのよ!あんたの夢は手段が目的になってんのよ。」
片山「手段が目的ってなんだよ、訳わかんねぇよ。てか田口には聞いてねぇ!....なぁ蘇我ぁ、お前ならすぐなれる!だからモデルになって俺と友達になってくれ、頼む!」
両手を合わせて拝む片山はまるで僧侶のようだ。

蘇我「片山くん。片山くんは、有名人と友達になってさ。それからどうしたいの?」
顔をあげて彼女の顔を見た後、俯き考え込む片山。

田口「あんたは、有名人と仲良くなってから何かやりたいことがあんの?」
矢継ぎ早に言葉を放つ田口。
「それを達成するための手段がまずは”有名人と友達になる”ことなんじゃないの?あんたのはいつの間にか、その”手段”が達成したい目的になってんのよ。」

片山「はぁ...。」
更に考え込む片山。呆れる田口。
束の間の静寂の後、片山の方に体を向き直した彼女は口を開いた。

蘇我「...でも、夢があることはいいことだと思う。それが手段でも目的でも。結果で考えればどのみち過程は同じだから。手段を目的にして、それを達成した後にまた新しい目的を見つけられるかもしれないし。きっと、その先で何かに繋がると思う。私はモデルにはなれないけど...」
彼女に見つめられ「応援してる」という言葉を貰った片山は、頬を赤らめて口をぱくぱくさせていた。微かに聞こえてくる「お....おぅ....おぅ...」という声。

田口「お前はオットセイかよ。」

担任教師「よし。じゃあみんないいかー?おい片山ー、鞄抱えてなにやってんだー?荷物はいらないぞー。」
片山「お....おぅ....おぅ...」

女性徒A「スマホ持ってく?」
女性徒B「えーでも持っていっても使わなくない?」

担任教師「スマホはおいてけー...と言いたいが、盗まれても責任取れないから持っていってもいいぞー。ただし、音をならしたり、式を妨害したとみなされる行為があれば停学なー。」
男子生徒A「え、なにそれめっちゃ厳しくね?!」
担任教師「去年、スマホで式を撮影した動画をネットにアップした学生は退学処分になってなー。1年後に”自殺”したそうだ。」
男子生徒B「まじかw」
男子生徒C「さすがにそこまでしねぇw」
男子生徒D「てか、なんで1年後に自殺してんだよw」

ガヤガヤ。

担任教師「まぁ、好きにしろー。でも忘れるなー。この学校のルールを決めるのはお前らじゃない、学校だ。」

ガヤガヤ。

「お前らが何を言おうがルールはルールだ。その中でどう生きようがお前らの勝手だが、ルールを変えたければそっち側に行くしかない。」

ガヤガヤ。

「そうそう、その”自殺”した生徒ー」

ガヤガヤ。

「俺の息子だ。」

ざわ。

一瞬のどよめきは数秒の静寂を生みクラスを包んだ。担任の表情は最初の挨拶と変わらず、ただただ普通で、告白までの一連の流れはまるで歴史の教科書を読んでいるように淡々としていた。

生徒たちは教室前の廊下に2列に並び出発を待っていた。
田口「うわぁー緊張してきたー。」
前のクラスの列が動き出し、担任を先頭に彼女のクラスも体育館へと動き出す。

途中、中庭が左手に見えてきた。
田口「うわ、何あれ、気持ち悪っ!ちょっと蘇我さん、あれみて!」
田口は彼女の肩を叩き、中庭の花壇を指差した。

手入れが行き届いている中庭にはデイジーが行儀よく並び、綺麗な白い花を咲かせていた。しかし、田口が指を指した先にはブヨブヨとしたスライム状のものがデイジーを包み、デイジーを灰色に染めていた。
大きく目を見開く彼女。

片山「うっわ、キモキモキモキモっ!」
取り乱す片山。
田口「うっさい!お前がキモいわ!」
ざわつく生徒たち。

担任教師「あー、なんか最近よく落ちてんだよ。あれ。よくわからんが、たぶん上級生のイタズラだろう。」
他の生徒が気持ちがるというより怖いもの見たさで興奮している中、彼女は目を背けず冷静にそれが何かを判別しようと瞬きもせずに見つめていた。

田口「蘇我さん...大丈夫?」
田口の言葉はシャッターボタンのように彼女の目に一瞬の闇を作った。

蘇我「あっうん、大丈夫。なんだろうね、あれ。」
取り繕うように他の生徒のリアクションを真似て、苦笑いを見せる彼女。
不思議そうに彼女の顔を覗く田口。いつの間にか、A組の列は体育館の前まで来ていた。

担任教師「いいかー、お前ら。中に入ったら、パイプ椅子があるからそこに座れ。列は崩さず椅子に座れるから何も考えずに前のやつについて来い。お前たちの保護者はすでに入場して後ろの席に座ってる。緊張しそうになったら、教室でみた隣のやつの顔思い出せー…時間だ。」

体育館のドアが開く。大きな拍手とともに、生徒が体育館に吸い込まれていく。体育館は神社の参道のような道が中央にできており、左右にパイプ椅子が並べられている。後ろにある保護者用の椅子は既に埋まっており、拍手がサラウンドで聞こえてくる。ステージ上の幕は深紅色で、金色の刺繍でできた校章は輝いていた。両サイドからステージに昇る階段がある。

列はステージに向かってまっすぐ進み、中央参道沿い右側の2列に向かっていった。すべての生徒が入場すると、アナウンスが流れた。

アナウンス「新入生徒は、着席してください。」
アナウンスと同時に、生徒たちはパイプ椅子に座った。
ぎしぎしと鳴り響くパイプ椅子の音。

アナウンス「これより、都立北高校第39期生入学式を執り行います。」
ステージ横に入学式次第と書かれた大きな紙が貼られていた。

(開式...国歌斉唱...校長式辞...入学者宣誓...)
紙に書かれた墨を目で追う彼女。目が反復横跳びのように泳ぐ田口。オットセイ片山。特に何事もなく式は順調に進んでいった。

アナウンス「続きまして...入学者宣誓。入学者代表 蘇我來那(そがらいな)!」
蘇我「はいっ!」
今回の彼女の指は天には昇らず、地面に向けられたまま、その高度は直立した彼女のスカートの裾よりも3cmほど上で静止した。

反復横跳びで疲れた目を休めていたのか、校長の式辞のせいか、閉じられていた田口の目は彼女の返事と、横に座っていたはずの彼女が立ちあがった反動でようやく開いた。田口は彼女を見上げ、そして後ろを向き、オットセイ片山を見た。相変わらず口は半開きだった。

田口「頑張って!」
蘇我「うん、ありがとう」
小声で応援する田口に背中を向け、彼女はステージに登った。

ステージ上には演台が横たわり、その上には自然に見えるように整えられた造形の盆栽が秩序よく左右に置かれていた。式辞後の校長は誇らしげな顔で、ステージに登ってくる彼女を見つめていた。すべての所作に品性が感じられる彼女。釣られてお辞儀を返す校長。制服の内側から白い紙を取り出し、広げる彼女。形を与えられた墨が紙を染めている。

静まり返る体育館。片山は、ステージ上に向かう彼女のスラリとした姿を、身を乗り出すように見ていた。唾を飲む時以外は常に半開きの口、空気が口の中に入っては出ていく。彼女がお辞儀をし、白いものを胸から取り出している時、空気以外のものを、唇、そして舌で感じた。何かが口元を伝って落ちてくる。無意識に指で拭った。

片山「えっ...」
指の先には中庭で見たスライム状のモノがまとわりついていた。

誇らしげな顔で彼女を見つめる田口は、彼女の長い髪が揺れるのを見ていた。校長の前で立ち止まった時、規則正しく揺れていたその髪はまとまりを持って、彼女の腰の位置に収まった。自分のことのように嬉しくなる田口、少し照れながら前髪を整えた。

田口「えっ...」
指の先にはスライム状のモノ。それを認識した時、前髪がおでこに張り付き妙に冷たさを放っていたことに気づいた。

彼女は制服の内側から白い紙を取り出し、蛇腹折りの紙を最初の5行が見えそうな所まで広げた。突然、両手に感じていた紙の張力が失われたと同時に、折り目とは関係の無いところで紙が真っ二つに裂けた。

片山・田口
「うわーーーー!」
「きゃーーーー!」

彼女が紙の異変を視認した瞬間、後ろから片山と田口の悲鳴が聞こえた。
騒然とする体育館。ステージ上を見ていたすべての人が、叫び声のする方を見た。片山と田口は恐怖のあまり席を立ち、周りの生徒たちはその席を中心に波紋状によろめき後退りしている。椅子を引きずる音が体育館に響き、叫び声と共に床に倒れる生徒たち。

悲鳴を聞いてすぐさま振り向いた彼女はステージ下の顔面蒼白な田口を見つけて、ステージから飛び降りた。彼女が着地した瞬間、彼女の耳は矢が空気を射抜くような音を感じた。辺りを見回すと生徒たちはステージを凝視していた。顔面蒼白の生徒たちが見つめる先に視線を向けた彼女。先程まで彼女の目の前にいた校長の首が無くなっていた。首無しで直立、やがて、演台の上によりかかりながら倒れ、膝から崩れ落ちる。

「うわーーーー!!!」
「きゃーーーー!!!」

先程の悲鳴の数倍大きい悲鳴が体育館に響き渡る。
体育館の後ろに陣取っていた保護者は、体育館後ろのドアから外に慌てて逃げていく。来賓席の人々も体育館横のドアから逃げようと必死になる。何が起きたか理解できないまま直立する者、誰よりも早く自分の身の安全を確保しようとドアに逃げていく者、片山と田口は前者だった。田口に駆け寄る彼女。田口の額にはあのスライム状のものがへばりついていた。

蘇我「大丈夫!?怪我はない?」
田口に怪我が無いか目で全身を確認した後、田口の額から躊躇なくスライム状のモノを掴んで払った。田口の額には軽い炎症が見える。

田口「あ、あたし、、うん、だ、だいじょぶ...」
田口の引きつった声と顔、混乱している田口の目は泳いだままで焦点が定まらず、腰が抜け床に座りこんで動けない。

体育館には出入り口が左右に2個ずつ、後ろに1つある。パニックになった生徒は左右の扉に駆け寄り、その集団はドアを中心に扇状の形になっていた。体育館の中央付近にいた人々はもう既に出入り口のドアに逃げていた。逃げ惑う人々、混乱した女性教師がアナウンスで落ち着くように叫ぶが肝心の本人が落ち着きがなく、一番混乱している。

彼女は田口を抱きかかえたまま、周囲の状況を確認した。ステージ上の校長は、下からは見えなくなっていたが、出血した血はステージを赤く染めていた。アナウンスをしていた教師も既に出入り口ドアの方へ逃げ出していた。ステージ上の演台の赤い血を眺めていると、彼女はある異変に気づいた。ドブ色の水滴のようなものが点々と空中から滴り落ちている。ステージ上、ステージの下、パイプ椅子で形どられていた参道にもあった。それはステージから体育館後ろの方角へゆっくりと移動しているようだった。何もない空中から滴り落ちるその水滴は、彼女の視界に近づくにつれ水滴ではなく、液体よりも固体に近い、それはスライムと呼べるものだと彼女は認識した。

田口「あ、あれ...こ、これと同じ...」
彼女は田口を見た。錯乱している田口は震える指でスライムの行く先を追っている。彼女は、それが田口のスライムと同じであると分かり、田口が指す方向を目で追った。

(…!?…誰かいる)

スライムを追って動いていた田口の指の先には、体育館中央に佇む一人の男子生徒の姿があった。俯いて下を向いている彼の表情は長い前髪でよく見えない。

鼻で深く息を吸い、一瞬呼吸を止め、口からゆっくり息を吐く彼。
徐に左腕を体の正面に出し、手を広げている。

田口「だんだん...あ、あれ、速くなってる...」
スライムの行く先を追っている田口の指は、右から左に段々とスピードを上げていった。

(あの人の方向へ向かっていってる...!!!)

蘇我「逃げて!!!」

呼吸を整えていた彼。目の前にはドブ色のブヨブヨとしたものが、校長の血で染まったステージからこちらに迫ってきていた。
謎の男子生徒「ちっ、汚ねぇもんで汚しやがってー」
スライムが床に滴り落ちていくスピードも、彼に向かって近づいてくるスピードも段々と速くなった。スライムは見えるものの、それがどこから落ちているのか、その姿は見えない。体の正面、指先までピンと開いていた彼の五指が微かに前に屈折した。

その瞬間、彼は瞬時に右膝を曲げ、左足を伸ばして重心を低くし、上半身を右に傾け、左手を腰の右側に添えた。彼の見せた俊敏な動きに彼女と田口は唖然とした。

何かを避けるように体を右に反らした彼は、その左手を天井に向け虹を描くように右から左に一閃。
謎の男子生徒「ーよぉ!」

[ブンッ!]

彼女は空気の振動を感じた後に、鋭い音を聞いた。彼の左手が空を切った後、彼の上空に巨大なスライムが出現し、そのスライムは彼の左手が通った軌跡のあたりで2つに分かれ、バラバラと床に落ちた。

自分の目の前で一体何が起こったのか、彼女と田口は理解できなかった。二人は抱き合ったまま愕然としていると、散乱しているパイプ椅子をどけながら、片山が声を掛けて来た。

片山「ふ、ふたりとも大丈夫!」
片山の声は恐怖で震えていた。

蘇我「うん、大丈夫。田口さんも怪我はないみたい。」
片山「そっかぁ、よかった。」
安心する片山の口元、スライムが付いていた場所に赤い炎症が残っていた。田口の肩はまだ震えていた。

蘇我「片山くん。田口さんを体育館の外に連れて行ってくれない?ほとんどみんな外に出てるみたいだから。」
片山「う、うん。分かった。」
来賓席、教師達の席にも、もう誰も残っていなかった。田口を抱えながら横の出入り口に向かう片山。田口は腰が抜けているのでまともに歩けず、片山がゆっくりと彼女を支えて歩く。

彼はステージに上り、死んだ校長の様子を伺っていた。彼女は田口を片山に任せると、彼に近づいていった。演台を確認している彼に声を掛けようとする彼女。何かに反応したかのように急に顔を上げる彼。釣られて咄嗟にその方向を見る彼女。彼がさっき切り落としたスライムの大きい部分がブルブルと動き始めた。

謎の男子生徒「"核"が残っていたか…。」
彼はそう呟くと、ステージから降り彼女に見向きもせず、先程自分が真っ二つにしたスライムに近づいた。彼が近づいて来る間にも、スライムはハサミのような形状に変形し始め、鋭さを増して宙に浮き、片山と田口が向かっている方向に刃先が向いた。スライムの動きを見て何かを感じたのか、慌てて走り出す彼。

謎の男子生徒「危ない!逃げろ!」
そう叫んだ瞬間、ハサミのようなものが一直線に片山と田口に向かって突進した。

[バシュッ!]

蘇我「きゃーーー!」
彼女は最後までその光景を見ることが出来なかった。片山と田口は彼の声を聞き後ろを振り向いた。二人の顔は恐怖を感じる間もなく、彼女の目には虚を突かれたような顔、そんな風に見えた気がした。目を閉じ顔を背けた彼女の耳は、不幸にも現実を知らしめられるかのように、その音を誰よりも一番近くで聞くことになった。

ボトッ。分断された物体は鈍い音を立てて床に落ちたー。


モノノケ 1話 了

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