大反響御礼!【連載】猪木とは何か?〈親族編〉サイモン・ケリー・猪木、その半生を激白!(11)「生まれながらの『アントニオ猪木』が誕生!」
アントニオ猪木の娘婿にして、元・新日本プロレス社長と現IGF取締役の肩書きを持つ男。それがサイモン・ケリー・猪木である。その肩書きが示す通り、サイモンの人生は常に激動の中にあった。
そんなサイモンが半生を振り返る大反響の連載。注目の第11回は、二人のサイモンの息子たち――A猪木の孫に関する話! その時いったい何が起こったのか!? 迷わず読めよ。読めばわかるさ!(聞き手◉“Show”大谷泰顕)
〈前回までの内容はこちら⬇︎〉
【連載】猪木とは何か?〈親族編〉サイモン猪木、半生を語る!
(素顔のA猪木とその愛娘・猪木寛子、そして倍賞美津子…、親族のみが知る真実!)
▪︎サイモンが用意した選手が全勝した『ROMANEX』
――中邑真輔は感覚が日本人的じゃなかったんですね。
サイモン (中邑は)プロレスラーは強いっていうコンセプトを持っている選手だったから、デビューしてからすぐ『INOKI BOM-BA-YE』かな? MMAのほうにも挑戦したりしましたよね。
――『INOKI BOM-BA-YE 2002』ではダニエル・グレイシーと、『Dynamite!! 2003』(2003年大晦日、ナゴヤドーム)ではアレクセイ・イグナシュフとMMA戦をやって、裁定で揉めたりしましたもんね。
サイモン だから、そういうチャレンジ精神のある選手なんですよね。
――ぶっちゃけ、中邑×イグナシュフ戦はどう思いました?
サイモン あれはすぐに映像で見て、(中邑の抗議は)間違ってないと思ったから、すぐに再戦をさせたいとは思いましたね。レフェリーのストップが早過ぎたから抗議したら無効試合になったんですよね。あの頃の中邑は、サンノゼのブライアン・ジョンストンのジムに1カ月くらい長い間、行って練習をしていた気がしますね。
――ジョンストンはリハビリがうまく行ったんですね。
サイモン 直接は教えられないけど、コーチみたいなカタチで指示を出しながら、練習メニューを作ったりして、キッチリ教えていましたよ。確かあの頃の中邑は、ジョンストンの自宅に住まわせてもらっていたんじゃないかな。
――結果的に、中邑×イグナショフ戦は『ROMANEX』(2004年5月22日、さいたまスーパーアリーナ)っていうTBSで中継した大会で再戦されるんですよね。
サイモン あの大会は中邑の試合以外に、藤田さんがサップとやったんですよね。
――そうでしたね!
サイモン 確かあの大会は、こっちが用意した選手が全勝したんですよ。
――あ、そうなんですか?
サイモン 藤田さんが勝って、中邑がアレクセイ・イグナショフに勝って、ブデ(ブルー・ウルフ)がトム・ハワードに勝って、ジョシュ・バーネットがレネ・ローゼに勝って、LYOTOがサム・グレコに勝って、みたいな。それでなのかは知らないですけど、1回で終わっちゃったんですよ(笑)。
――『PRIDE』と対抗するまでには至らなかったですね。
サイモン そうですね。
――ええ。
サイモン あ、そういえば『PRIDE』の話でいうと、あの頃、イケイケ状況だったから、それこそバラさん(榊原信行・現『RIZIN』実行委員長)が、猪木さんがパラオにいて『PRIDE』の会場に行けない、となった時に、プライベートジェット機を出すから来てくれ、みたいな話がありましたよね。
――『PRIDE25』(2003年3月16日、横浜アリーナ)でしたね、その話があった時は。
サイモン そこまでするんですか! って思いましたもんね。
――ありましたね。結局、その大会に猪木さんは来られなくて、映像で出演したんです。
サイモン そうだったんですね。
――実はその映像を撮ったのは自分だったんですけどね。
サイモン あ、その時に?
――そうです。『PRIDE25』の何日か前にパラオに行って、猪木さんの挨拶映像を猪木島の目の前の海岸で撮りましたね。その時のパラオには藤田和之もいたし、映像には映さなかったけど、確か高山善廣もいたんじゃないかな。
サイモン 高山さんもいたんだ。
――いましたね。その大会は、その年の年頭に、『PRIDE』の森下直人社長が亡くなってから最初の大会だったんですよね。
サイモン あ、そうだ。森下社長が亡くなったんでしたね。
以下、その内容を一部紹介
▪︎A猪木の初孫出産秘話
▪︎生まれながらの「アントニオ猪木」が誕生!
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