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【メモ】本や小説、そして作品や展覧会を、演奏されることを待つ楽譜のような存在として考えてみると。

こんにちは。
Neki inc.のデザイナー坂田です。

最近考えていることのメモ投稿です。
この投稿、まとまってません。
が、めっちゃ気になっているんです……。
なのでメモの状態ですが公開します。

※サムネールは大学時代の友人と不定期に入るスタジオの風景。本文とは何ら関係ありません。


現在自分は38歳。芸大受験を控えた17歳くらいから本を読むのが習慣化されてきたので、かれこれ20年くらいは常に何か読んでいます。(といっても、乱読・積読・つまみ読み派で、年間通しての完全な読了は20冊あれば良い方)

そして、その20年は、ひたすら「本から何かを受け取る」という、「能動的受身」ともいえる姿勢で、いろいろな本(小説が多い)と向き合ってきたのでした。

しかし最近、ある小説を読んでいる期間に、とある展覧会を観て、なぜか少しだけ本への向き合い方が変わったような気がしています。

それは、「楽譜のように本を読んでみる」という、本や小説への向き合い方です。

楽譜というものは、書かれているのは音符やさまざまな記号で、それだけを眺めても、何も起きません。(少なくとも、音は鳴らない。)
その楽譜に合った楽器や技術、感受性や表現力によって演奏されることによって、その楽譜が初めて紐解かれ、本来の姿を表します。

最近感じたのは、「本」や「小説」も、それと全く同じものなのではないか、というか、同じものとして考えた方が、面白いのではないか、という事でした。(これ、大半の人が「何を今更・・・」って感じでしょうか?)

なんとなく、これまで自分は、「本」「小説」は、「演奏を聞く」ようなスタンスで向き合っていて、面白くない本があれば「下手な演奏を聞いてしまった」というような感想を覚え、逆に面白い本であれば「すごいコンサートに遭遇できた」というような感覚でいました。

でも、面白いものも面白くないものも、どちらも「演奏」しているのは、「自分自身なのではないか」と思うと、色々な可能性が見えてくるような気がしたのでした。(もちろん、面白くない「楽譜」もきっとあるのですが。)

そのように「本」や「小説」そして「作品」というものを捉えると、それらは常に、ものすごく観客参加型で、ものすごく体験型のインスタレーションのようなものにも思えてくるのでした。

しかも、時空を超えて著者とマンツーマンで繰り広げられる、観客参加型の脳内インスタレーションといえるような気もして、そう考えると、めちゃくちゃリッチな気もします。

また、それこそが、実は太古から言われ続ける(言われ続けているきがする)「やっぱ本を読む方がいいよ」の核心なのではないか、という気もします。「それは、過去の慣習を美化しているだけかも……。」と思っていたのですが、ところがどっこい、アニメや映画や、ポッドキャストやオーディオブックにはできない、というかさせてもらえない、「演奏する(比喩です)」という行為が、「本」や「小説」というメディアには、贈り物のように残されているような気がしたのでした。

なぜこんな事に、こんなに気になっているのか、というと、もう一つ要素があり、それは「人には、何かを作るという行為でしか理解できない事や、感じられない内容があるんじゃないか〜」といった内容の話と繋がっていくのですが、それはまた改めて。


以上、メモで公開します。
いやはや、まとまりなく、「何言ってんの?」という感じですみません。
でもこういう事がめっちゃ気になるんですよね・・・。

ジワジワと補足を追記していく予定です。(2023.0326 )

書いてる人
坂田佐武郎|Neki inc.代表 グラフィックデザイナー

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