見出し画像

お寿司「桃太郎」

忘れぬうちに観劇記録を書いておく。お寿司はこの週末、初めての東京公演を敢行する。お寿司とは、私が演出を行う公演の際たびたび衣装として帯同してくれた南野詩恵さんの演劇ユニットを指す。

この文章を読むにあたって、私が詩恵さんを個人的に知っていること。そしてお寿司のお芝居も割とほとんど観ていること。また、1歳と5歳をつれて観劇したことなどから、初めて見る方とはかなり違う条件だと思うので、その点を留意して読んで欲しいと思います。もちろん、ネタバレありまくりですので、お気をつけください。

いつもはありったけの言葉を使って劇を構築するお寿司だけど、今回は台本を書かなかったとどこかで読んだ。ウェブサイトには書いていないので、確かなことはわからない。もしかしたら最後はテキストがあったかもしれないし、なかったのかもしれないけど、今回はその俳優が実際、面談か何かで発したであろう言葉を切り口に、それぞれの俳優のセリフが紡がれているように思った。

今回はだから、劇を通して、俳優、つまり南野詩恵ではない人々、の言葉の連なりが、南野詩恵の外枠を作り、南野詩恵の亡霊ようなものがおぼろげに立ち上がっていくという構造をとっており、いつもは詩恵さんの言葉についていけなくなる私でも、だから今回はある程度ついていけたのだと思う。「思う」というのはどうしても周りに子供たちがいて、その子供たちを「放置」しながらソワソワと観ていたからで、残念ながら子供が階段から落ちないか、隣の人の迷惑になっているではないか。という不安が出てきた時点で劇中の大事なものをいくつか逃していると思わざるを得ない。

「桃太郎」という題名から想起されるもの、例えば「おじいさん」とか「桃太郎」とかいうのがビジュアル的にそのまま出てくるんだけど、劇中に言われる「鬼」というのが概念ではなくビジュアルでもなく日常の一コマだったり日常にいる俳優の極私的な相手だったりするので(本当はもっとあるのだろうけど見落としてる)、その非対称性に脳内がバグる。

やっぱり自宅で桃太郎の絵本を子供たちに読むときには、登場する生き物は全て同等にカリカチュアされているので、子も私も全てを無理なく受け入れ、本を閉じるときにそれを突き放すことができるのだが、劇に出てきたあの孤独で戦う相手の見えない「桃太郎」の滑稽さは、もしかしたらそれこそ詩恵さんの内面なのかもしれないと思った。戦う相手が見えないというか前提条件が全く違っているので、そもそもどうやって対峙していいのかわからないにもかかわらず、詩恵さんがビジュアル的に桃太郎というだけで「鬼にだって事情があるのに!」と責められたりする。そんな光景を思い浮かべた。

何はともあれお寿司を見続けている私からすると、今回はお寿司の武器ともいえる言葉を劇作家が用意せずに、俳優の言葉を拾って、それでもって劇の形を作っていこう、という試みがとても面白かった。そのようにして作っているにもかかわらずどうしても立ち上がる南野詩恵の怨念、これは、言葉があるからこそのものではなかったことが証明された、言葉がなくても詩恵さんは強烈なのだ。強烈だからこそどうしたって何をしたって立ち上がる。またその受け皿、というか起爆装置?はお寿司以外あり得なくて、だから詩恵さんはお寿司を立ち上げて本当に正解だったなと思う。

俳優さんたちは総じてとても魅力的だったのだが、それも全員京都の人たち、つまり私自身がどこかで見たことがあったり一緒に作品を作ったことがある相手だったので、そういう意味でやっぱり、冷静には見れていないと思う。ただ詩恵さんは、俳優もダンサーも地域の方も友達の子供も「人前にただ立ってもらうだけの人」として扱うようなところがあって、その手つきがやっぱり、独特だと思う。今後は全員が詩恵さんの全く知らない人と作る劇も観てみたいと思った。そういうことを積極的にやっていくのが良いのだと思う。

音楽はとても好みで心地よかった。私はいいところで流れるいい音楽が大嫌いで、自分に合わない音量の音楽が大嫌いで、とにかく音に対して過敏で小うるさい小さい人間なのだが、お寿司の音楽は、全然的確じゃないことをわざとやっていて、それがとても的確だった。

お寿司『桃太郎』
2021年7月3日、4日
d–倉庫(東京)にて公演予定
詳細は、告知画像をクリックかこちらをクリック

■カンフェティチケットセンター
Web予約:http://confetti-web.com/osushi_momotaro
TEL予約:0120-240-540(平日10:00~18:00)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?