子供に指示を出さない理由

私が子供と接するときに一番考えていることに、世界が滅亡しそうになったときに、すんでのところで右か左かどちらにいくのか、自分で決められる子になってほしい、というのがあります。世界が滅亡するときとまで言わなくても、危機的状況に陥ったときに、生き延びてほしい。例えば突然私が死んで、子供二人だけで部屋に閉じ込められたりとか。リモコンのつけ消しや、お菓子を自分で開ける知恵とか、そういうものが身についてないと、怖くて怖くてたまりません。はたまたそんな状況は滅多にないとしても、例えば将来、誰かにとても恋してしまって、でも振られることって必ずある。そのときに、自分を大事にしながら哀しみを味わえるかどうかとか。何かに依存してしまったりしたとき、例えばパチンコとか、借金とか、飲酒とか、誰でも依存する可能性が十分あるのですが、そんなときに、愛する人のアドバイスをすんなり受け入れられるかどうか、とか。そういうような、危機的状況に陥ったときに、這い上がってこれるかどうか、信頼する他者がそばにいてその声が聞こえるかどうかって結構重要ではないかと思っていて、その観点から、私はなるべく、なるべく小さい頃から、親が何かを決めてそのルールに子供を従わせるのではなく、子供に「自分で選ぶ権利があるということ」と「その責任を引き受ける必要があること」「無条件で愛されていること」を繰り返し行動の中で伝えています。具体的に言えば、

お菓子を食べ過ぎたらお腹を壊したり虫歯になること。

急に道に飛び出したら車に轢かれて痛い思いをするか最悪死ぬこと。

自分以外の人にも気持ちがあること。

ただ生まれてきたというだけで、親は感謝し愛しているということ。

などなど。

親が指示しないと子供は底抜けに落ちていくんじゃないかと不安に思われる方が多いと思います。否定はしないんですが、それより毎日機嫌よく過ごしていた方が身体にいいのもまた確か。怒鳴られすぎたり殴られすぎるといつも親の目につかないような格好で(顔色を伺って)生活するようになります。姿勢が悪くなって血流が悪化する。そしてネガティブな意味で余計目立つ。こういうことがマジで起こってきます。怒鳴られ殴られてビクビクしつつ、怒りつつ、大きくなった私は、体験的にそう思います。

それに1日2日お菓子を食べすぎても死にませんが、食べるかどうか自分で自分の体に尋ねる訓練を積んでいないと、大人になってから間違ったダイエットに手を出してしまうかもしれない。その瞬間スリムでいることだけに価値があるとは私はあまり思っていなくて、なるべく寿命に近いところまで快適に生きていってもらえたらいいなあ、そして危機的状況を自分でできる限り回避してもらえたら、他の人も助けられる余裕が出てくるのではないか、そういうことを考え、時折快楽の沼に落ちていく子供に手を差し伸べながら、なるべく私自身も自分の頭で考えて、子供にも自分で決めてもらう毎日を過ごしています。

毎日便が水に浮くかどうか、バナナ状かどうかを気にする息子、面白いです。下痢が続くとお菓子を完全にやめて本人の希望で納豆と味噌汁生活に入ります。私たちは可能な範囲で、言われるがままに料理しております。

あと親が気をつけていることとして「〜させる」とか「〜しなさい」というワードは禁句にしています。命令を彷彿とさせる言い方は自分が散々されてきて本当に本当に嫌だったので、子供には「させてもらっていい?」と「お願いしていい?」を多用しておりますです。親は指導者ではなく、サポーターで、子供が自分の人生を歩む上で、できない部分を一時的に補う係だと私は定義しています。だから上から目線の言葉は絶対に使用しないと肝に命じています。

あと単純に、毎日子供に感謝の言葉を伝えていると、本当にありがたい気持ちが後から湧いてくるし、毎日好きだと伝えていると、好きな気持ちが抑えきれなくなってくるし、いいことしかありません。それにしても私の親世代は、子供のことを尊重したり子供のことを可愛いと自慢したりすることに本当に抵抗があるようです。うちの母だけだろうか?

好きなものに出会ったら、真っ直ぐ目を観て好きだよと言えるように、まっすぐ手を伸ばして抱きしめられるように、私が、成長中です。

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