「アメマチ」を制作するに至った経緯など

初めての自分名義のアルバム「アメマチ」を制作しようと思い立つまでには紆余曲折ありまして。
1985年暮れに音楽業界の真っ只中に突如入り込んだ自分ですが、それまでアマテュアバンドではありましたが曲を作り、録音の面白さも知り、つまりは自分の音楽をつくる楽しさを味わいつつ、プロにはなれないもどかしさの中にいた、若者でした。
そんな日々、突然にいろんな点が繋がって高橋幸宏さんのオフィスインテンツイオに入る、というか拾われる的なミラクルが起きて、いわゆる裏方として業界に潜り込んだのでした。
それから、ユキヒロさんや教授など、すごい方々とダイレクトに仕事ができて、夢中なまま日々が過ぎていきます。
しかも最先端の機材が事務所には揃ってるので、その使い方を試すがてら自分の曲を録音してみたりして。
知り合ったスタジオ付きの若いエンジニアの方々、ミュージシャンの方々もいろいろ試してみたいことがあったりして、それに乗っかって自分の曲を試し録りしてみたりしてました。豪華メンバーで。

けれども、音楽の内容以前に「うけるかうけないか」というベクトルがあり、それに乗っかったプロジェクトが世に出ていくのを日々目の当たりにし、そこが違和感としてひっかかる自分は同じくそこがひっかかるアーティストを世知辛い世の中にレイアウトするべく悪戦苦闘していたわけで、ともかく自分のことは最後にしてサウンドプロデュースに奮闘していたわけです。
そしていくらか手応えありつつも虚しさもありつつの日々の中、子供を授かりまして、東京撤退を決めた時、一人多重でアルバムをつくることにしたのでした。
それが「アメマチ」。

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世田谷の自宅にて。sonicのストラト、、今はない。アコギはmartinの00-28VSだった。12フレットジョイントで軽いけれど深い音ですごくよかった。もうアルバムでしか聴けないけれど。

世田谷の家はマンションで大きな音も出せないし、スタジオを借りる余裕もないので、アコースティックで録ることに決めました。
リズムはカホンとパーカッション、ギターはアコースティック。けれど縛りがあれば工夫も生まれるわけで結果的にすごくいい作品になったと思います。畳の部屋で録ってたので、うまいことデッドな響きになりました。
DAWはcubase5。クリックなしの生演奏にあとでテンポを書き込んで同期できるという、80年代の自分が知ったらうらやましい、進歩したソフトウェアでした。
後に告井延隆さんが二胡とペダルスティールをダビング(秋田にて)してくれて完成しました。

おそらく自分の音楽は、なにがしかの生きづらさを慰めるためのものなんだな、と聴き返して思ったりします。

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当時住んでた部屋にほど近い畑にあったフェンス。サビ感がいいです。

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