ATAT-SMSM-SKTM理論

前回のおさらい

賢明なる読者の皆様、僕がかつて学会で提唱した「ATAT-SMSM理論」については十分にご理解いただけただろうか?

うっかり見落とした・忘れてしまったというおっちょこちょいさんのために復習すると、ATAT-SMSM理論とは「夜10時頃にラーメン屋に行くと開いとる店は開いとるが閉まっとる店は閉まっとる」という経験則から一般化された次の理論をいう。

【ATAT-SMSM理論】ある事柄の性質は人の期待や予想の通りであることもあるしそうでないこともあるから、安易に断じることはできない。また、ある集合の各要素がどのような性質を備えているかは個別の要素によるのであり、一般論を導くことは難しいという考え方。

たしかにこれはこれでわかりやすく、重要な教訓を含むし運用しやすい理論だ。しかし僕は日夜ATAT-SMSM理論について考え続け、この理論はさらなる一般化・普遍化が可能であるという気付きに至った。

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ATAT-SMSM理論に欠けているものは何か?

それは程度問題という視点だ。

たしかに「東大卒は仕事ができるか」という問いに対して「仕事ができる東大卒は仕事ができるし、仕事ができない東大卒は仕事ができない」と答えるのはそれ自体としては間違っていない。

しかしATAT-SMSM理論は目の前の問題に対して具体的な答えを導くことを直接の目的とするものではなく、まずは冷静な現状認識を促すことによって安直な思い込みを防ぐことに主な意図がある。

そして冷静な認識において重要なのはゼロヒャクの極論に走らないことだ。ナイーブなATAT-SMSM理論はこれを単純化してしまう。

つまり「東大卒の若手って仕事ができるのかねぇ?」という問いへの答えは「東大卒と一口に言ってもその個別の人物によって仕事の出来る度合いは0でも30でも60でも80でも95でも100でもあり得るから何とも言えない」だ。

ほとんど何も言っていないに等しいつまらない返答だと思うだろう。でもそれが現実であり、その現実の複雑さを安易に単純化するなというのがこの理論の要諦だ。そして答えは「仕事ができる・できない」の二極ではないことが肝になる。

想像を絶するような優秀さではないかもしれないが十分に丁寧に仕事をしてくれるかもしれないし、所属する部署によってその人物の能力が活かされたり活かされなかったりするかもしれない。連続的で相対的なものだと理解する必要があるだろう。

ATAT-SMSM理論をATAT-SMSM-SKTM理論(開いとる店は開いとるし閉まっとる店は閉まっとる、そして結局は程度問題理論)へと拡張し、再定義しよう。

【ATAT-SMSM-SKTM理論】ある集合に含まれる各要素の性質は個別の要素によって期待の通りであることもあるしそうではないこともあるから、集合全体について安易に一般論を断じることは難しい。また集合やそこに含まれる個別の要素が期待される性質を満たすかどうかは往々にして程度問題であり、二者択一的な結論を導くことはできない。

思えばATAT-SMSM理論構築の契機となったラーメン屋の事例では事柄の性質は「開いとる・閉まっとる」という二者択一的なものだった。この語感に引っ張られて、往々にして多くの事柄の性質は程度問題でしか表現できないという点が抜けてしまったのだろう。この点についての発見と整理が遅れてしまったことを恥ずかしく思う。

もっとも突き詰めて考えれば、ラーメン屋が開いとるか閉まっとるかですら「閉まっとるけど店主に頼み込めば作ってくれる」場合や「開いとるがさっさと食べ終われという無言の圧力をかけられる」場合があり得ることを考えると「夜10時にラーメン屋は開いているか」という問題に関して「開いとる・閉まっとる」という離散的な結論だけで有効な分析ができるかは若干の疑問もあり、連続的に捉えて議論を行う余地もあるものと思う。

なお、ある事柄の性質を結局は程度問題、連続的に捉えるほかないという着想は過去に議論した「幸せはマーブル模様」論とも共通するところだ。

具体的な議論へのあてはめ

一般論を定義したところで具体的な議論へのあてはめについて考えてみよう。

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例えば「人生、結局は自分の力で生きていくしかないんだよ。人に頼っちゃいけないんだよ」といった意見についてはどうだろうか。

これに対する答えは「人に頼ってはいけない側面もあるし自分の力でなんとかしなければいけない側面もある。どのくらい人に頼っていいかは場合によるし、結局は程度問題」になるのではないか?

自分で書いていて恐ろしいくらいに正しい理論だ。

こう言うと「いや、そんな漠然とした一般論は誰でも最初からわかってるけど、場合によるとか程度問題とかだけ言っててもしょうがないでしょ(苦笑)」という反論が聞こえてきそうだ。

しかし、どうして「場合による」し「程度問題」なのがわかっているのに単純化して決めつけようとするのか、わかっていないことよりそのことの方が恐ろしいともいえる。

もちろん、単純化は重要だ。現実は複雑で、「現実は複雑だ」と言っているだけでは世界を分析することはできない。ただし、単純化の仕方が問題であって、単純化するときにどんな複雑性を切り落としたのかについていつも注意しなければならない。

これについて冷静な立ち返りを促すのがATAT-SMSM-SKTM理論というわけだ。

「大企業を辞めてベンチャー企業に転職しようかと思うが、やはり不安定だろうか? しかし、挑戦するのはいいことだろうか?」という問いはどうだろう。

これに対しては「それはどんなベンチャー企業かによるし、大企業だからといって完全に安定しているともベンチャー企業だから完全に不安定とも言えず、相対的な差にすぎない。また転職後の自分の充実度や幸福度合いも業務内容や職場環境との兼ね合いによる程度問題でしか語れない」というところだろうか。

これも心底つまらない答えだが「やっぱり人生において挑戦は大事だよね!」と挑戦の大事さだけに問題を単純化して突っ走る場合よりは少しは冷静な検討を促せるのではなかろうか(もっとも、ATAT-SMSM-SKTMを用いると冷静に現実を見つめやすいと言っているだけで、冷静に現実を見るのが良いことか悪いことか、そうあるべきか否かについて論じる気はない)。

当たり前を当たり前に受け止める謙虚さ

世界は世界としてそこに存在している。あなたの信条や理解がどうだろうが地球は丸いし、太陽の周りを回る。

自分が単純化した認識は世界の在り方と実は違うのかもしれない。大事なのはそれについての謙虚さだと僕は見ている。

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