「道徳の時間」と多様性

いつからか自分の頭の中で「道徳の時間」という言葉を使うようになった。

その趣旨は、人々は小学校の「道徳」の時間のような公の場では美しく模範的なことを言うが、それは道徳の時間だけのことであって実際の行動は往々にして全く別である、というものだ。

なんか、ありませんでした? カーテンを閉めた教室でいじめ撲滅の啓発ビデオみたいなのを見せられて、読んだ後の作文でみんなが「いじめはよくないと思いました」って書くような授業。

あのときはみんな「いじめはよくない」って書くのだけど、じゃあ世の中に実際にいじめがないかというと、そんなことはないわけで。

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「建前と本音は違う」くらいのことだったら殊更に名前を付けて概念にする必要ないだろうと思われるかもしれない。

でも、世の中には思った以上に「道徳の時間」なことが多いので、それらしき言説を目にしたときに「あぁ、道徳の時間のやつね」と、その種の事象として自分の中で整理するといちいち戸惑ったり苛立ったりせずに落ち着いていられるという効能がある。

「道徳の時間」のポイントは、別に本人が建前だけ自分を良く見せようと(意識的に)繕っているわけではないことだ。そりゃあ、「いじめは良くないことだと思いますか?」と聞かれたら誰だって良くないことだと思うだろう。本気でそう思って本気でそう答える。それだけに真実味がある(むしろその限りでは真実ですらある)。

しかし現にむかつく同級生が目の前にいたときにどういう振る舞いをするかは道徳の時間の外の出来事だから、必ずしも道徳の時間に言っている通りになるわけではない。

僕は別に「みんな建前だけの嘘を言ってる」とか「言ってることとやってることが矛盾してるじゃないか」とかそんな告発をしたいわけではない。

人間とはそういうものだ、と言いたいだけだ。そして、そのことを忘れないために「道徳の時間」という考えを頭の中に作っていつでも引き出せるようにしているだけだ。

もちろん、自分が正論をカマしているときに「あれ、俺道徳の時間だから気持ちよくなってるだけか? 実際の行動もそうしているか?」と冷静に省みる材料にもしている(つもり)。

僕が「道徳の時間」をよく思い出すのは多様性に関する議論だ。

社会的なニュースへのコメントではみんな多様性が大好きなようだ。たしかに多様性は素晴らしい。素晴らしすぎる。文句のつけどころがない。

でも「道徳の時間」以外の言動を見ていると、みんな多様性がすごく嫌いそうだ。電車内での空気の読めない行動を見かけたら即ツイッターでつぶやいて文句を言わずにはいられないし、芸能人の箸の持ち方も嘲笑わずにいられない。些細な例だけにしておくけれど、多様性を信奉する人々がすることではないだろうという言動が世の中には多すぎる。

みんな本当は、多くを語らなくてもわかりあえる、均質性の中で溶け合う方がよほど気持ちよくて好きなのだろうと思う。僕もおそらくそうだ。

多様性は人類には早すぎた概念なのではないかと思う。僕らには「道徳の時間」に礼賛するだけで精一杯だ。

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