中学校三年間ガチ不登校引きこもりでSTAYHOMEを先取りしていた僕が気付けば税理士バッジをつけていた話

STAY HOME中に蘇った心象風景

2020年のゴールデンウィーク、東京は外出や人との接触をできる限り控えるSTAY HOME週間という未曽有の事態を迎えていた。

僕は、もちろん、行楽や帰省などの外出はせず最低限近所のスーパーへ食料品の買い物をするのみで、あとは家で料理を作ったりNetflix・YouTubeを見たりする時間を過ごしていた。

3月頃からはじまったこの「不要不急の外出を控える」行動様式は、外出ができないという物理的な問題もさることながら、人々の間に閉塞感やいわゆる「自粛疲れ」と呼ばれる鬱々とした空気をもたらしている。

しかし僕は全然大丈夫だった。

なぜか。

今でこそ普通の社会人のような顔をして生活をしているが、僕は中学校の3年間、ほとんどずっと、ガチの不登校引きこもりだったからだ。

言い方を換えれば引きこもって外出をしないことに慣れている。むしろそれが普通といってもいい。みんなが水の中でもがいている間、僕はほとんど魚のように、平然と漂っていられる。「外出自粛、それがなにか?」と、あたかも当たり前のように。

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大人になり、生活をしていて、いちいち自分がかつて引きこもりだったことなど思い出すわけではない。このSTAY HOME週間で、ふとそうした日々の心象風景が懐かしく蘇ってきた。

何故このnoteを書いているか

ここまででもし「お、これはちょっといい感じのnoteかも?」と思われた方がいたら謝りたい。

正直このnoteに意味はない。Twitterで時折見かける「エモいnote」を自分もやってみたかっただけだ。

やけに長い情緒的なタイトルで、意味深で抽象的な画像を貼り付け、素朴だが少しポエティックな文章で自分の体験や想いを綴ったnote。けして揶揄しているわけではない。憧れがあるのだ。

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(こういう緑の淡い画像とか、それっぽくない? 若葉のように幼く眩しかったあの頃、みたいな?)

というわけで、これは「エモいnoteごっこ」に過ぎず、特にこれ以降を読む必要はない。が、せめてもの罪滅ぼしとして、タイトル通りの記事は書いてみようと思う。

引きこもりの日々

どうして引きこもったかについては、自分でも説明がむずかしい。

ものすごく細部を捨象して表面的に言えば、部活が嫌だったからだ。4月に中学に入学して夏休みまで通いその部活で過ごしてきたが、夏休み明けからは1日たりとも中学校へは行っていない。

ではその部活に入っていなければ結果は変わっていたか。おそらく変わっていただろう。しかし、ある結果について何かが原因足り得るとき、それが原因足り得る原因もまた存在するはずだ。

例えば僕にそのとき、部活への嫌悪感を跳ね返すくらい学校へ行きたい動機があったり、部活を楽しいと捉えられるような発想の転換や自分を変える力があったりすれば、その部活という条件は同じでも学校へ行っていただろう。

つまり、たしかに僕は部活が嫌で学校へ行かなくなったのだが、部活が嫌で学校に行かなくなる程度には不登校になる素質があったともいえる。

たいていの物事はクモの巣状に絡まっていて、ある事柄は他のいくつもの事柄に影響を与え、また影響を受けたいくつもの事柄は元の事柄にフィードバックを与えながら、さらにまた関連するいくつもの事柄に影響を与える。だから、ひとつの事柄を取り上げて云々するのにどこまでの意味があるだろうか。

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抽象論はやめよう。

確固たる事実は、僕は夏休み以降ずっと不登校だったということだ。そしてずっと人目を避けるように引きこもっていた。外に出て知り合いに会うことはとても恐ろしく、どうしても外に出るようなときは野球帽を深めにかぶった。

大げさではない。ドラマで見るような引きこもりだ。

一週間や数か月「不要不急の外出を控える」ことなど、この経験を持つ僕からすればはっきり言って何らのストレスでも障害でもない。

世の中の平均的な人は買い物や遊びで外出をすることは当たり前だと思っているかもしれないがそうではない。「あ、不登校のあいつが歩いてる」と後ろ指をさされる恐怖を覚えることなく普通に外出ができるというのは(当時の)僕からすればとんでもなくすごいことだ。

論理的思考と構造主義

つらい時期のことをそれっぽく書けば情感(エモさ)を得られるかと思ってやってみたが意外に長くなり自分でも飽きはじめた。スマホで読んでたらだらけてくる頃合いだ。

さっさとカタルシスパートへいこう。

ほとんど選択肢もなく通信制高校へ進学した僕は、建前上こそ高校生だが、中学校時代とほとんど変わらない暮らしを送っていた。たまに通学はあるが、ほとんどは家で最低限のレポートをこなす日々だ。

ほとんどの時間を家で過ごし必要最低限の外出しかしないことを引きこもりと呼ぶなら高校3年間も十分にそれに該当したといっていい。ここでもセルフSTAY HOMEをしていたわけだ。

「社会には適合できなかったが実は数学の天才で…」などという有難い話もなく、勉強はできなかったし興味もなかった。高校を卒業できたらフリーターにでもなる(しかない)かとぼんやり考えていた。

そんな僕を変えたのが論理的思考の面白さだ。高校の卒業が近付いてきた時期にひょんなことから論理的思考の面白さを知り、それっぽい本を読み漁った。そこからだんだんと政治経済・ビジネスなど社会の仕組みを知ったり考えたりすることにも興味が湧き、大学へ進学するのも悪くないかもしれないと思うようになった。

駅前の本屋で買ってきた参考書で勉強をし、家から近い大学をネットで検索して資料を請求し願書を出した。絶対に落ちたと思ったが、受かっていた(誰でも受かる大学なのだろう)。

そうして入った大学の教養の講義で出会ったのが、構造主義だ。講義の中で構造主義に触れた本の引用を数ページ読み、これは大変に面白いと思いすぐに書店に原典を買いに行った。

馴染みがない人向けに一言で説明すると構造主義とは社会の構造や歴史的条件が人々の思考を規定するという現代思想の考え方だ。みんなが大好きな「自分の自由な意思」といった観念をぶん殴りにかかるので、好みが分かれるかもしれないが面白い。自分は元々決定論的な考えを持っていたせいかよくハマった。

結局構造主義そのものについては一般書を数冊読んだ程度であり、思い出深い分野として語るのもおこがましいが、とにかく構造主義の考え方に触れることで「学問をすると頭に雷が落ちるくらいの衝撃を受けることがある」のを知った。

そこからはむさぼるように本を読んだ。なにしろこっちは中学・高校と6年間はろくすっぽ勉強をしていないから、スポンジが水を吸うように知識を吸収することができた。何もむずかしい本を読む必要はない。どんなに簡単で易しい本であれ、僕には新鮮で刺激的だった。

とある階段教室の講義

論理的思考や構造主義との出会いによって何か物事を考えるということについて興味が出て来たちょうどその頃、転機となる講義を受ける。

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それは内容自体はなんてことのない講義だった。位置付けも「選択必修」くらいの、まぁ経営学部(僕は経営学部だった)ならこんな感じの勉強をするよね、という程度のものだ。

当時僕が所属していた学部には、お世辞にも勉強熱心な学生はいなかった(失礼だと思うかもしれないが僕にはそれがわかる。なぜなら僕はそこまですごく勉強熱心ではなかったが、そんな僕が学業成績最優秀だったからだ)。大人数の階段教室で、やまない学生の私語。静かに聞いているかと思えば、バイト・サークルの疲れで寝入っている者。

その講義を担当していた先生は非常にエネルギッシュで変わった人で、いつもどこか学生に対してもどかしさや苛立ちを感じていたようだった。

あるとき先生は苛立ちも隠さずに、冗談めかしつつ、けれどもたしかに本気で叫んだ。

「あのねぇ、君たち! いまバイトとサークルで遊んで楽しいとか思ってるかもしれないけど、そんなの大学2年までやったら後はずっと一緒だから! これ以上楽しくならないから! この大学2年の夏に本気で何かに目覚めなかったら、君たちはもうそのまま死ぬ!笑」

「医学部に入ったら医者になるでしょ? 建築学部だったら建築士? 君たちも経営学部に入ったなら会計士なり税理士なり経営の専門家になれよ!」

もちろん言葉遣いに適切でない部分はあるかもしれないし、後から文字面だけを取り上げればそれほど論理的に説得力があるわけでもない。僕自身、その場で「たしかにそうだ!」と思えたわけではない。

しかしこの先生の叫びにはたしかに魂がこもっていた。世間知らずで甘えた学生の目をなんとかして覚まさせたい、そんな悲痛さがあった。

そして、結局は、これが税理士を志すキッカケになった。

人はみな泣きながら生まれてくる

それからは試験に受かるために必死で勉強した。

もちろんその過程にはたくさんの迷いや葛藤や苦悩があった。税理士を目指したところで、試験に受からないかもしれない。そうしたら時間を棒に振ることになるのではないか。「それからは試験に受かるために必死で勉強した」という一行では済まされない細かくて個別的な現実がある。

しかし、それも遠ざかった今となればぼんやりと霞んで見える。ここでひとつひとつの苦労を自慢する気はないし、その必要もない。

税理士の資格を取るというのはそれなりに大変だ。自分は4年程度の試験勉強で終えることができたが、幸運な方といっていい。こんなにろくでもない息子を大学に行かせてくれる親がいた(もちろん学費には貸与の奨学金を利用したが)ことも幸運だったし、学生中に出会って受験を後押ししてくれた恋人(現在は妻)に恵まれたことも幸運だった。

それからあれよあれよという間に2年の実務経験を経て、気付けば税理士バッジを胸に着けて式典で記念撮影をしていた、というのが今から振り返ったときの率直な感覚だ。

誤解のないように言っておくと、別に僕は、税理士になったことが偉いとか税理士になったから人生成功したとかいうことを言いたいわけではない。資格はただの資格だし、税理士にならなくてもそれはそれで幸せだったかもしれないし、そんなことはどうだっていい。

ただ、ふと、暗い部屋の隅っこでうずくまっていたあの頃から、思えば遠くに来たものだ、という個人的な感慨に耽っているだけだ。

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人はみな泣きながら生まれてくる。ルールのわからないゲームに巻き込まれ、わけがわからないままダンスのステップを踏まされた。つまづいて、暗い部屋の片隅でうずくまって泣いていた時期もある。

しかし、うつむいた目線の先に小さな花が咲いていることもあれば、耳をすませば聞こえてくる音楽もある。恐る恐るステップを踏み出せば、曲の途中からだってまた踊ることはできる。

あの頃、あんなにも生々しく鋭かった悲しみや苦しみも振り返ればぼんやりと遠く、ふと手の平を見れば「今」だけがある。

音楽は、鳴り続けている。

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