近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくる話

とある主婦の憤怒

少し前、Twitterで「専業主婦バカにすんな!」というツイートが話題になっているのを見た。

詳しくはその話題をまとめた記事でも見ていただければいいが、ツイートの内容としては「専業主婦の一日」と「サラリーマンの一日」をタイムスケジュールに表したものだった。

左側には専業主婦の一日として、起床から夫の朝食と弁当調理開始、夫の着替えの準備、水筒にコーヒーを入れる……等々、主婦業としてやらなければならないことがこれでもかとびっしり書いてある。一方で右側にはサラリーマンの一日が書いてあるが、妻に起こされて(なぜかルンルンで)出社してタイムカードを押したらお昼を食べて一服休憩して……と非常に内容が薄い。

要するに専業主婦はやることがたくさんあって大変だがサラリーマンは気楽だと言いたいらしい。これについては既に「逆にサラリーマンをバカにしている」旨の批判など議論が一周しているし、既にツイートもアカウントも削除されているようなので中身を云々する気はない。

個人的に思ったのは、これは結局、専業主婦だろうがサラリーマンだろうが、各自の人生は近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくるという一般論のひとつの発現にすぎないのではないかということだ。

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誰のものでもない私の人生

本記事のタイトルにもしている「近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくる」というのは椎名林檎さんの曲『人生は夢だらけ』からの引用だ。震えるくらいの名曲であり名フレーズの宝庫だが、僕は特にこのフレーズが好きだ。

痛感したいです 近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくるでしょう それは人生 私の人生 誰の物でもない

「専業主婦は大変」も「サラリーマンだって大変」も一般論として言うのは簡単だ。しかし個別的で生々しいこの目の前の人生は私だけのものだ。

朝起きるとき腰が痛く、通勤電車で近くの人の香水がキツく、仕事のノルマは達成できず、同僚の嫌味が胸に刺さる。こうしたひとつひとつの具体的な質感は一般論には回収され得ないものがあり、私の人生を生きている私にしか実感できない。

結局はそれが事の本質ではないか。このために近寄れば悲しく離れれば楽しく見えるという一般的な性質があり、専業主婦だろうがサラリーマンだろうが立場を変えればお互いに同じように感じるのではないか。

追い風と向かい風の非対称性

しかし、近寄れば「はっきり」、離れれば「ぼんやり」見えるだけならわかるとして、悲しく・楽しくという非対称性が生まれるのは何故なのだろうとふと考えた。

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そこで思い出したのが、以前Freakonomics Radioで聴いた心理学者トマス・ギロビッチ氏による「追い風と向かい風の非対称性(The Headwinds/ Tailwinds Asymmetry)」の議論だ。

一般的に言って、人は、「他人の人生よりも自分の人生の方が困難だ」と感じる傾向がある。「いやそんなことはない」と思う人もいるかもしれないが、思いあたるところがある人も多いだろう。

人は自分を悲劇のヒーローと思いたいのか、困難な中でも頑張っていると褒めたいのか、努力ができないことへの言い訳を探したいのか。素人が素朴に考えると色々な要因が頭に浮かぶが、ギロビッチ氏はこれを認知の問題として説明する。

つまりこういうことだ。

僕たちは、自分の目の前に困難が現れるとき、それを乗り越えるか回避しなければならないからその困難に注意を払う。しかし、自分に有利に働いている事柄については、それに対処をする必要がないから注意を払うこともない。ここに、困難は認知するが恩恵は認知しないという非対称性が生じる。

これが「追い風と向かい風の非対称性」であり、結果として人は「自分には恵まれた点が少なく困難ばかりが多い」と感じることになる(あくまでも傾向として)。

父親が毎日のように暴力を振るう人はその度に痛烈な悲しみを感じるだろうが、暴力を振るわない平凡な父親を持つ人が毎日のように「ああ今日も暴力を振るわない父親でよかった」と強い幸福を感じることはないだろう。ここに困難を味わう者と味わわない者との非対称がある。

これで「近寄れば悲しく離れれば楽しく」見えることも説明できる。二人の人間がお互いに遠くから相手を見れば、相手に存在する様々な恩恵も見えるが、当人には恩恵は認知しづらく困難ばかりが認知される。

言われてみればたしかにそうだという説得力のある議論だし、こうして考えると人生の困難性に関する議論を認知の仕組みとして整理することができ、つらさを語り合うときに「自分ばっかりつらいと思うな! みんなつらいんだ!」といったような精神論で殴り合わなくてよくなるという点で僕はとてもこの考え方が好きだ。問題はきちんと認知するような仕組みができているかどうかなのだ。

冒頭の主婦に関してもそうだろう。あの主婦に「サラリーマンだって大変だ!」と怒るのは簡単だ。しかし、彼女は単に知らないだけなのだ。もちろん、サラリーマンが会社で様々な仕事をしていることについてなんとなくの想像はあるだろう。しかし具体的に知らない限り、認知上は存在しないのと同じになってしまう。

もしかしたら、夫婦できちんとお互いの大変さを相手にも認知できるように可視化し説明したら、不満が解消する糸口になるかもしれない。各自の人間性や境遇が問題なのではなく、認知の問題なのだ。こう考えると救いがあるような気がする。

近寄れば楽しく見えることもある

もっとも近寄れば悲しく見えるのはあくまでも傾向であって、僕の経験則上、近寄れば楽しく見えてくる場合もある。

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ラジオで誰かが話していたエピソードで、うろ覚えだが、次のような話を聞いたことがある。

子供の頃満員電車の疲れたサラリーマンを見てこんな風にはなりたくないと思った。しかし今から思えば、彼らも職場では仕事が充実していたり、家庭では子供と遊んで楽しい時間を過ごしていたりしたのだろう。

つまり、傍から見ると悲しい人生のようであっても本人の視界には具体的で幸福な光景が広がっているのかもしれない。

「追い風と向かい風の非対称」といった一般理論があるとしても、個々の人生について、近寄れば悲しいと決めつけることもまた失礼なのだろう。

結局、誰にとっても、誰の物でもない私の人生がここにあるだけだ。

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