見出し画像

『その島のひとたちは、ひとの話を聞かない』

 ぼくは本を読みながら、気になったページの端を折りつつ読むのだが、一読めの途中で、ページの端を折る作業をやめた。あまりにも数が多くなるのが途中でわかってしまったからだ。これをやってたらキリがない。本の気になるところにアンダーラインを引いたら、アンダーラインだらけになりそうな予感がその時点でひしひしとした。だから二読めの前は億劫だった。そして案の定、アンダーラインだらけになった。まったくもう、弱ったなあ。

 森川すいめいさんが自殺希少地域を尋ねる本で、自殺希少地域の特徴を探っていく内容だが、支援や援助という文脈でもハッとさせられるところがたくさんあった。いや、あり過ぎた。だから嬉しい気持ちもあるし、いささか混乱した気持ちもあるし。軽くショックも受けている。でもやっぱり、この本に出会えたことを喜ぶ気持ちが大きい。たぶん。

 すこし長くなるが、いくつかの例。

「上手な支援者は困っている相手に対して、『どうしますか?』と相手のことばによる返事に答えをゆだねるようにはあまり聞かない。『こういうのがいいと思うんだけど、どう?』と聞く。相手がNOと言えば、その気持ちを感じ別の提案を考える。(中略)あまり支援に慣れていない支援者は、「どうしますか?」と聞いてしまう。もちろん聞かなければならないことが多いのだが、どうしますか?と聞かれると、支援を受ける側は躊躇してしまう。現実的には助けが必要なのだが、相手に迷惑をかけてまで助かりたいとは思わない。迷惑なのかどうかをいつも考えてしまう」

→ああ、これ。やってしまいがち。支援を受ける側の気持ちがわかっているかどうか。そしてこれ、自分が困ったり助けられたりした経験が少ないと、なかなか出てこない発想のように思えた。支援者は、助け慣れているのと同時に、助けられることにも慣れていたほうがいい。きっといい。でもそういう機会って、じつはあんまりない。

べつの例。

「老人が家に閉じこもるのに対して、老人だからとして家にリハビリを導入するのか、バスを本人の家の前まで届けるのかは、課題のとらえ方しだいである」

→課題や困りごとの背景を聞けていなければ、頓珍漢な対処になってしまう。これも結構陥りがち。あー、やべーと思う。

「できることは助ける、できないことは相談する」

→そうだよね。でももし、援助者自身が孤立していたら、後半部分はできなくなる。業務が忙しいと、いつのまにか孤立してしまう。自分だけでなんとかしようと思い、自分だけで抱え込んでしまう。まわりが見えなくなる。そのうち潰れる。

 旧海部町で、「特別支援学級反対」と考えるひとが多いこと。「わざわざ分ける必要はない」「それはなくていい」と。

「障がいをもつひととそうでないひとを子どものころから分けると、お互いにお互いのことがよくわからなくなってしまう。どういった場面でどういった助けが必要なのか、それを自然とできるようになるためには日常の中にお互いがいなければならない。(中略)困っているひとがいたら困っている部分を助ける。その当たり前のことができないのはお互いをよく知らないからなのだろうと思う」

→「わざわざ分けることは、慣れる機会を奪うことだ」ともとれる町民の意見には、何か無視できないものがあるように感じられる。旧海部町では、慣れる環境があるのかもしれない。

そのほか。

人生はなんかあるもんだ(まさに!まさに!)
出会うこと。
対話すること。
リファーの仕方。
接し方と聴き方。
どういうときに排除が生まれやすくなるか。
組織マネジメントや意思決定について。
理念、共通のゴール。
政治とNPO。

 なんや、盛りだくさんやないか。

 この本では、偉そうだったり大上段からとかではなく、同じ目線の高さからことばが発せられる。生活の、旅の一場面からの気づきがそのまま口にされる。著者のことばに暑苦しい熱意はない。むしろどちらかと言えば、淡々としている。だが、それを読んだぼくは、気づきや考えるところが多過ぎて煩悶してしまった。

 やはり対話なのかな。各所で分断が起きるのは、対話がなされていないからではないかという気がした。モノローグよりもダイアローグなんだよな。自分の好み的に。

 それと、オープンダイアローグ。実経験がないので、過大な期待を抱き過ぎているかもしれないが、やっぱりやりたいなあ。おもしろそうだよなあ。そんなことを思いつつ、いまも煩悶している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?