『ちょうどいい』が『ちょうどよくない』と大変だ

さっき晩ご飯を食べていたときの話。

今日の晩ご飯は「グレービー」とうちの家族が呼んでいるメニューだった。

ややこしくいうと、出汁を抜いたお好み焼きの粉をアツアツに温めた固体感の強い液体。

簡単にいうと、シチューみたいなやつである。

ちなみに、味は表現しがたい。

強いて言うなら「素材そのものの味」という具合なんだけれども、いかんせん原材料が小麦粉、塩、サバ缶、ほんの気持ち程度の玉ねぎなので、ほぼ無味に近い塩味だ。

今日は一段と塩が効いてなかったから、ほぼ無味だった。忙しそうにしてたから塩を入れ忘れたんだろうなぁ。ちなみにぼくは素朴で好きな味です。

味のことはさておき、今日は一口目を口に運んだ瞬間に「ん?」という違和感を感じた。

なんだかいつもと食べた感じが違う。

「なんなんだ、この違和感は?」と、その源をすぐに探してはじめた。するとすぐに見つかった。


届かない


これだった。

届かなかったのだ。

スプーンの "グイッ" と湾曲してる部分、シチューを救ったときに溜まる皿の役割をする部分が深すぎて、上唇がスプーンの底に届かないのだ。

「つぎの一口はこれくらい食べよう」と思ってすくったその分量がすべて口に入らないこと、口に運んで "グイッ" とスプーンを引き抜くときに上唇がスプーンの底に触れないことがこれほどまでに違和感と食べ心地の悪さを生むとは知らなかった。

これまでの人生でぼくは1度も「スプーンの底の深さ」について考えたことはない。

いつでもすくった分量はそのまま全部上唇でねぶって口の中にほうりこむことができた。

スプーンってものはそうやって食べるのにちょうどよくつくられてるものだと思ってた。

だから食べながらぼくはこう考えた。

身のまわりの「ちょうどいい」が『ちょうどよくない』になったら大変なことになりそうだな

って。


たとえば、いつもよく使うカメラ。

このカメラのシャッターがもう1センチ奥側にあったら、きっと押したいときに届かなくて「あぁ、もうっ!」ってなるだろうし、人差し指が届かないから薬指で押すとかなると一気にカメラを撮る格好がわるくなる。

ペットボトルのキャップなんかも、もうちょっと浅い(短いともいえるか)とちょっとシメがゆるかったときにふとした拍子で外れて中身がこぼれちゃいそうだし、深い(長い)と閉めたり開けたりするときに時間がかかってむだに骨が折れるんじゃなかろうか。

「カメラのシャッターの奥行き」も「ペットボトルのキャップの深さ(長さ)」も、身のまわりの『ちょうどいい』の仲間だ。

この類の『ちょうどよさ』を発明した人ってどんな人なんだろうなぁ。

きっと『ちょうどいい○○』について、いろいろと試してあーでもないこーでもないと言って、試行錯誤の末に「これ!ちょうどいい!」って、「よっしゃ!ちょうどいい!」ってなったんだろうなぁ。そんな人たちにぼくは頭が上がりません。

でも頭が上がらないなと思う一方で、今現在『ちょうどよくない』なにかを見つけて、それの『ちょうどいい』を発明したいなぁという野望もあったりします。

きっとそんな過程や発想のことを「デザイン」って呼ぶのかなって最近いろんな記事を読んでて思います。

勉強したいなぁ、デザイン。どうはじめればいいんだろう。

と、そんなことをぼんやり考えてたら、知らぬ間に「グレービー」をぺろりとたいらげていた今晩でした。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

時間とか場所とかにも『ちょうどいい』ってありますよね〜。できるだけ多くの人の『ちょうどいい』を見つけられる能力を磨きたいです。

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