タマキンについて

 例えば、万人にとってのタマキンの像を作るプロジェクトが動き始めたとする。すると我々はすぐに、そもそもタマキンの像とは何か、という定義付けの必要性に直面することになる。これは決して我々が社会においてしばしば直面する曖昧さの克服として浮かび上がってくるのではなく、タマキンというもの自体が、個々人において非常に具体的にイメージされうる性質を持つためにそこに待ち受けてい
るのである。

 タマキンの像を作る。それに際してこの具体的な形状について考えるとき、ある者は伸び切った玉袋の中に重力に従って垂れ下がるタマキンを想定する。かと思えばある者はできる限り縮こまった、桃の果実のような状態を想定する。玉袋だけでなくチンまで含めた造形を想定するものもいるであろうし、はたまた己の理想を反映した、どっしりと構えた美しいタマキンを思い描く者もいるだろう。あるいは、そのありのままを記すためシワやシミ、チン毛まで作り混むド変態もいるかもしれない。
 今挙げたのはあくまで一部の例に過ぎず、まさしく千差万別に、個々人にとって思い描かれるタマキンは異なってくる。もしタマキン像の製作について、まず会議で設計の案を出し合うとなった際、これではそのコンセンサスを確立するのは難儀になろう。

 また、もっと根本的な食い違いとして、夫々がタマキンに抱いているイメージに相違がある、という事実が浮かぶ。特段意識しない者がいるかと思えば、ある者は信頼を抱いていたり、あるいはやや心細く思う者もいるし、愛情を持って接する人も、逆にトラウマを抱いていたり、出来ることなら今すぐにでも潰してやりたいと強く憎む者もいる。女性の場合、そもそも意味不明だという人もいるだろう。像とは実物でありながらそこに確かな造り手の精神性を宿すもの。そこに込められる意志の数だけ清濁、静動、明暗、様々なイメージの可能性がありうるために、誰かの思惑を第一にすれば、他の誰かの思惑は比率が下がる、あるいは完全に無視されうる可能性だってあるのだ。

 このことを踏まえると、果たしてタマキンの像を造ることは中々に難しいように思えてくる。特にそれが一人のための芸術活動ではでなく、万人のためであるとき、問題点が浮き彫りになる。国の君主の立像が倒されることが革命の象徴とされうる世の中だ。たった一つのタマキン像から、軋轢や争いが生まれうる可能性は大いにある。


 ならば、どうすれば良いのか。ここで私は一つの有効的な案を提唱したい。それはすなわちタマキン・ブリッジの建設である。沖縄と本州の間を繋ぐ、長く大きなタマキン・ブリッジを建設するのはいかがだろうか。
 なぜ橋なのか、それは橋が定着の象徴であるからだ。例として山間に位置する土地を想像して欲しい。そこには川が通っており、数名の人々がいる。周囲には森林などもあり、土地としては恵まれている。これは初めの、すなわち人間がここを訪れた時点では単に人⇔自然であり、人間と自然がただそこにそれぞれあるだけである。ではその次段階として、人間が向こう岸の木の実を採集したいと考える場合、どうなるか。初めのうちはただ単に川に入って渡るだけであろう。しかしこれが何度も行われるうちに、いちいち足や身体を濡らすのは効率が悪いこと、また天候が悪く、川の流れが急な日は、足で渡るには命の危険が伴うことにも目が向き始める。すると、川を安全に簡単に渡るための人間による働きかけとして橋がかけられるようになる。そのことによって向こう岸へ渡ることも楽になり、また狩猟採集の範囲も広がる。するとその川の周辺に人が集まり、やがて家屋や畑を伴う集落を作り定住し始める。こうして人間の原初的な共同体社会が完成するのだ。

 橋という一つの端緒から環境に働きかけ、集落を構築する。人間にはそれが可能であり、文字通り橋は人と環境を、環境を介在して人と人を繋ぐ役割を果たす役割を持ちうるのだ。

 タマキン・ブリッジではこれを利用するのだ。その橋はあくまでも道具で、単に中心部に丸い膨らみを2つ、といった最低限のデザインのみを備えさせるだけでよい。それが、本州と沖縄というこれまでに実現しなかった大きな交通の進歩に関わる。おそらく多くの人がこの橋を利用することになるだろう。そしてその中心にはタマキンを名乗る2つの膨らみがあるとなると、長い橋を渡るテンションも相まって確かにタマキンに見えるねえという話題が生まれ、プラシーボ効果的にそれをタマキンだと思い込むようになる。各々がそのふたつの膨らみと、自分が元々持っていたタマキンの個性を保ったままに間接的に繋がる。こうして、想像というものの無限性に対して、抽象の一次性をぶつけるというかたちで、万人にとってのタマキンの像という難題を解決しうると、私は考える。

 この論理については、まずどう考えても橋じゃなくてよく、普通に簡単な丸をふたつ用意するで済む話で、明らかに予算の無駄であるという欠点があることを私は自覚している。ただそんなことは私にとっては些細な話、むしろ当然の結果とも言える。私は大学の研究費にたかる虫。どんどん食い破って、じきに内部から穴を開けてやりたいと考えている。

 最後に、眠たい中こんなウンコみたいな文章を書ききった私に最大限の賞賛を贈ると共に、明確に橋についての話は彼の本からパクったのに、元の本のタイトルが思い出せてないし言ってる旨があってるかも分からない、ハイデガーの空間論の何かに対して感謝の意を述べてこの文章を締めくくる。

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