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根岸人物誌の記事より

*文中のカッコは読み仮名もしくは注釈  ●は判読不能文字

巻之一 20 市川白猿

四代目海老蔵の実子にして、俳名を三升または白猿といい、狂歌の号を花道のつらねという。幼名は松本孝蔵という。宝暦4戌(1754)年初舞台にして同年冬、父の元名松本幸四郎を継ぎ、明和7寅(1770)年五代目を相続して團十郎と改め三升と号す。寛政3年11月、市村座にて「金めっき源家の角つば」と題し渋谷金王昌俊に●●を務む。この時、團十郎を倅海老蔵に譲り、自ら蝦蔵と改め俳名を白猿と号す。改名の句に「毛が三すぢ上手に足らず蓑寒し」の句あり。のち56歳のとき、牛島須崎の前に閑居して、名を七左衛門と改め雅名を反古菴という。●●て根岸円光寺の隣に住す。同寺もとより藤花で名高し。よって「猿猴の手よりも長き藤の花」の句あり。文化3寅年10月29日朝没す。法名を還誉浄本臺遊法子という。行年66。辞世あり「凩に雨もつ雲の行衛(ゆくえ)かな」芝常照院に葬る。●技を●り、また俳諧狂歌に親しむ。(山東)京伝、(曲亭)馬琴、(烏亭)焉馬、(大田)蜀山(人)、●●( 鹿津部)真顔、(山東)京山等と親交あり。「錦着て畳の上の乞食かな」の句、人口に膾炙す。白猿人となり●●て高し。馬琴の狂歌に「江戸見ては外に名所もなかりけり 団十郎のはなの三月」

巻之一 35   伊藤正見

名正見また通して号となす。別に孤松と号す。勝見の長子なり。明治13年8月生まれる。初代正長氏より代々幕府の鍔師なり。父勝見、梅玉と号し、狩野梅軒に絵技を学び、また金属彫刻を東龍斎清壽に修む。9世伊藤正廣の家を継ぎて、10世となり、正隆と号す。
正見、家業を父に受け、長じて海野勝珉の門に入りて究む。兼ねて絵画を阪巻耕魚(注:月岡耕漁)に修む。明治43年その箕裘(注:ききゅう 父祖の業)を継承し第11世となる、以来金工協会競技会、美術協会展覧会等に出品して銀銅賞牌を受けること数次。方今(注:ほうこん だだ今)両会の委員たり。傍ら新派俳諧を嗜み「あつち」会を創設し雑誌を発刊しその道の奨励に努む。また能楽を好み能用装束模様を蒐集し所蔵する数は多しという。台北鴬谿(桜木町2番地)に住す。

巻之一 54   江川八左衛門(昌平黌御用木版師)

名美啓。世々根岸鴬塚に住す。昌平黌(ショウヘイコウ 昌平坂学問所)にて刊するところの刻本は皆その手に成る。常に林祭酒(林羅山を始祖とする儒学者の家系)の間に出入りし常にその介を以て水府(水戸)の命を奉じ、大日本史を刻せり。文政乙酉(文政8年のこと)齢ついに八十五、病を獲り自ら起たざるを知りすなわち祭酒の臣某に請うて曰く「小人常にこの技を関根某に受け、生計しばしば裕にして以て妻子を養うに足る。その恩の大なるあに報いせざるべけんや。しかも某はすでに没し、その家もまた絶つ。小人豚児に遺命してその後を紹(ツ)がしめんと欲す。祭酒小人の業を以て彼に命せらるれば幸甚と」。また辞世の歌を作りて云う「人となる人になる身はなにがなる心の花が咲いて実になる」祭酒これを聞きて大いにその志に感し、その乞を許し眷遇(ケングウ 特別に目をかける)ますます厚し。後、その病癒に及び自らその歌を彫って小箋に刷りし親戚故旧に頒かち後、●に寿を以て終わる。

巻之三 77  江川八左衛門

林氏の物語に凡そ都下剞劂(キケツ 版木を彫ること)多しといえどもその精工は根岸に住む江川八左衛門という者に過ぐるはなし。その人となり質朴正直なる者なり。よって昌平黌の官報皆その手に成れり。また林氏私用の雕梓(チョウシ 版木を彫ること)も渠(キョ 首領)に命すとぞ。水府にて日本史開刻の挙(キョ くわだて)の時、彼の有司(ユウシ 役人)より林氏に問い合わせて是もその者に命ぜられるに成りしと。今茲(ここに)乙酉(キノトトリ 文政8年のこと)行年八十五夏の頃、篤疾(トクシツ 重病)にてすでに殞(シ 死)んとす。林氏の臣に請(コ)いて曰く「某(ソレガシ わたし)が業の師を関根某(ナニガシ)と云いて精工なりき。某(ソレガシ)その指授を得て当業を励み飢寒(キカン)を免るのみならず、今は家累(カルイ 家族)数口を養い余貨あるに至る。師恩甚大なり。恨むらくは関根の後なくして家絶えたり。某(ソレガシ)死せば劣子に遺嘱(イショク 生きているうちに依頼する)して、別に関根の家を興し、その祭りを絶やさずせん。こいねがわくは、以来関根江川の両家をして永代学校の官用を命じたまえ。これ没前の至願なり」と林氏聞きてその志を感じ必ず請願の如くならんと話せしむ。また八左衛門辞世の歌を作りしとて一覧を請う。林氏観て立志の着実を褒詞(ホウシ ほめたたえる)す。然りし後はや世に思い残すことなしとて、静かに終焉を待つこと数日、計らずもようやく病怠りて仲秋に及んでまったく癒えたり。この上は己が業のことなればとてかの辞世の歌を自刻して墨本(ボクホン 拓本にして折本したもの)とし、病起の後初めて出行して林氏に呈せりと。如何にも矍鑠(カクシャク)たる老人なりと同氏また語る。歌曰く
「人となる人になる身はなにがなる こころの花がさいてみになる」
八十五歳江川美啓(ヨシヒロ) 甲子夜話(カッシヤワ)六十九

巻之三 106  彫刻名匠江川八左衛門

東京日日新聞 明治43年4月18日/20日/21日の連載
▲江川の祖
江川氏は下谷根岸草分の名主(最初に土地を開拓して村落を作った家)で本家を権左衛門といい子孫は薪炭商(シンタンショウ)を営み、中根岸35番地に居る八左衛門はその分家で、何代目かの弟が木版師になった。また三代目八左衛門の妻は権左衛門の娘である。かくの如く本家とは長く血族の関係を保ってきたとの話。分家の江川は代々八左衛門で、隠栖するや美啓(ヨシヒロ)を名乗る。これが世襲であったという。初代八左衛門は寛保3(1743)年に生まれ12歳の時名匠関根某について木版の彫刻を習い、ついにその業を得て独立し91歳の長命を保って天保中(1830-1844)に没した。二代目八左衛門は水戸家の御用板木師で、有名なるかの大日本史初巻から本紀百巻まで彫り上げて天保12年病没。三代目八左衛門は天保9(1841)年に生まれ明治26(1893)年に卒去した。今の八左衛門は四代目である。
▲学問所御用
先代の八左衛門は旧幕府の学問所、昌平黌(今の聖堂)御用木版師を勤めもっぱら官版(カンパン)を刻んだ。桜木に鏤(ちりば)めて、裏面に「学問所」ならびに「江川八左衛門」とせる焼印を押した。その板木が今なお諸方に散在する。八左衛門は町人ながら玄関に「学問所御用」と書いた高張(提灯)を立てていた。また絵符といって、長さ2尺5寸(75cm)、幅5~6寸(15cm)、厚さ3分(1cm)くらいの牌(フダ)があって、これを荷車に立てると道普請や何か交通に故障があっても、構わず押し通せたものである。上野は徳川家の霊廟東叡山寛永寺の境内で山同心が日夜警護すれど江川の絵符は通り抜けを許された。すなわち官版を彫刻して、根岸から車につけて上野を通って学問所に納板するという次第でいわゆるこれが特典であった。官版のほかにも水戸家を始めとして水野越前守(天保の改革の水野忠邦)その他の諸藩邸へ出入りする。慶応3(1867)年神田鍛冶町に移転し、間もなく維新の改革に逢い、学問所とともに官版は絶たれて御用を解かれ、明治23(1890)年に及び、今の千代田町に引き移ったが、その昔高張立てた根岸の旧宅には今もって土蔵が2棟残っている。
▲四代目八左衛門
元治元(1864)年根岸に生まれて46歳になる今の八左衛門である。12の時から父について木版を習い覚え、かたわら片桐霞峰(カホウ 1834-不明 書家、坂川素石に学ぶ)翁の門に遊び、永字八法、書道通解の講義を聴いた。最も宋版、明版の翻刻(書物を原本のままの内容で再び出版すること)に長じている。明治18(1885)年東京木版業組合の成立するやその頭取に挙げられた。故あって美啓を襲わず別に羼提(センタイ)を号とする。同人には長男春太郎(20)、次男鍈次郎(17)、三男公三郎(15)という3人の息子があって、いずれも現今父とともに家業に従事している。
▲江川の門弟
先代の門弟に江川仙太郎というのがあって三代目まで継続して絶家した。初代仙太郎は北斎ものなどを彫刻してつとにその名を知られた。なお江川亀吉、江川左京というのもおって、門弟は江川の姓を冒したのである。
▲昔と今の道具
小刀で彫り、溝鑿(ミゾノミ)で粗取りして鋤鑿(スキノミ)で浚うというのが木版彫刻の法であるが、古人は手製の道具で巧みな仕事をして退けたものである。畳屋の針だとか傘屋の切出しだとかないしは古手の剃刀の鎬(シノギ 刀の刃と棟との間にある刀身を貫いて走る稜線)をヤスリで磨滅して用いたものだ。かの大日本史の如きも畳屋の針、傘屋の切出しが与かって(関与して)力あるのである。明治維新の後廃刀の令いずるや小柄の売り物が彫刻師に重宝がられた。限りある小柄のこととて品物が払底を告げたころ泉州堺の刃物師で清光の銘のある鑿、小刀の類が鍛えられて木版師の供給を充たした。幾ばくもなく信親(ノブチカ)、包平(カネヒラ)、正氏(マサウジ)等輩出して新紀元を開いたが、やはり清光を名作としてある。刀の数を分類すると小刀、溝鑿、鋤鑿で、器械刷にする場合には深浚を用い、また小型の鋤鑿として米利堅(メリケン)針も道具に数えらるる。これらの道具は下谷徒士町(カチマチ)2丁目の銅鉄商屋 号「研屋」(トギヤ)で一式揃えて買求め得る。一本の価4銭ないし11銭に過ぎす、その5~6本もあると普通なにに由らず彫刻されるので道具ばかりなら、1円も買えば沢山である。もっともひと月か半月くらいで折れて役に立たぬのもあれど、長持ちのするのは10年使いこなしてますます趣味を解する小刀もある。
▲ 木版と印版との差
版木を下に据えたまま彫るのが木版師で、手に持って刻むのが印判師で、道具も違えば修業が全く別である。木版師の年季は10年としてあったが、このごろは一箇年が見習いで7年が奉公。年季が明けると職人になる。器用不器用はその人にあれど一通り木版の道を心得るまでにはなれる。
▲ 筆意(ヒツイ)もの
書家や画家の版下があってそのまま寸分違わず刻む、たとえば習字帳だとか書物の標題だとか挿絵のようなものは、筆力を示す必要があるので、一点一画といえどもこれを忽諸(コッショ おろそかにすること)に附せられず、木版師は筆意ものとして別にしている。
▲版下なりに彫る
我が国の四書五経(儒教の経書の中で特に重要とされる書物の総称。四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)は宋版の崩れた書体でおそらく朝鮮版をそのまま翻刻したものならんとは今日、学者間の説である。新たに版木に起こすものは宋朝だとか明朝だとかおのおのその好みがある。されど版下は作らなかった。よしんば書いたところで縦の棒や横の筋が決して書物に見るような規則正しく真っ直ぐに行くものでない。版下があると版木師の意で自由に直すということになっている。そのくらいだから版下は無駄である。
▲左文字(鏡文字)を書く
版下は無駄であるから版木師が直接に、今や彫らんとする版の面に筆で書く。小さければ鉛筆でおよそその字配りをする。これを字入れという。左文字で書体は骨子に過ぎぬのであるが、直ちに刀(トウ)を把(ト)って刻む。明朝といい清朝といい職人が刻みながら刀で書体を決めるのである。
▲100字250文
江川は官版の御用達せあったが、幕府から別段扶持せられていたわけではない。当時職人の手間賃というと100字彫って250文が一般の相場であった。
▲図志画譜類の彫刻
活字のない時代で刊本というと必ず板に彫ってもので、その実用範囲は極めて広い。したがって文字を彫るのが木版師の持ち前であるが、図入りのものになるとやはりこれを刻むのである。たとえば平山堂図志(揚州で作られた名勝図集。趙之壁 編纂)だとか爾雅(ジガ 漢代の中国最古の類語辞典・語釈辞典)だとかいうのには1枚ごとに挿絵がある。挿絵の彫刻もまた付帯する仕事であった。
▲侍の内職
草双紙(江戸時代中期~後期に江戸で行われた絵草紙。広義には赤本,黒本,青本,黄表紙,合巻 (ごうかん) を含めた総称。狭義には合巻をいう)は合巻ものといって、何冊も綴じ合わせて豊国(初代歌川豊国1769 -1825)、国貞(後の三代目歌川豊国1786 - 1865)等歌川派の浮世絵が極彩色になって、中は挿画と平仮名とでもっとも緻密なのであるが、宋朝明朝体の硬い版木に比べると、その手間賃ははるかに低廉なので、主に貧しい侍衆が内職に彫っていた。
▲文字は人間の顔
文字は人間の顔を彫るのと同じようなもので、偏目(カタメ)や口がなかったら奇形である。文字も一画欠けたり点が一つ落ちても字にならぬ。画は着物の縞の一本くらい誤って浚い落としても格別目立たぬものである。かつ手間賃も余計とれるしすべてにおいて割がいい。
▲墨が溜まって始末に困る
今日活版が行われて文字の彫刻は著しくその需要を減じたが、絵画の方は格段の進歩である。それというのも銅版や写真版が出来て、これを比較されるから勢い緻密になり精巧になったのであるが、昔は正直に彫っている、今のは上っ面を彫るという傾きがある。新聞挿絵のごときも器械で印刷するから綺麗に上がるのであるが、昔日の刷毛を用いて馬簾で刷ると窪んだところに墨が溜まって始末に困る。これが(上っ面だけ彫っていることの)何よりの証拠である。
▲木版の新聞紙
明治初年には木版活字も彫ったが、まだその活字もなかったころ、全紙を木版に起こした中外新聞というのがあったが、木版の新聞紙で一枚の版下を八つ切りにして8人がかりで徹夜で彫刻した。この原稿が夕方6時ごろ来ると翌朝10時ごろまでに仕上げてその日のうちに発行したものである。
▲鳳紋賞牌受領
旧幕府瓦解とともに昌平黌の官板御用の名目を失ってから大学南校、慶応義塾その他書林(出版社)の求めに応じていたが、その後印刷局蔵板(ゾウハン 版木・紙型を所蔵していること)の大日本貨幣史の紙幣部を請け負い、また烈祖成績(レッソセイセキ 家康一代の実録。著:安積 澹泊)20巻を彫りあげて第1回内国勧業博覧会に出品し、鳳紋賞牌を得た。いわゆる二等賞である。明治18年には4~5人で水戸家の志類を彫ったが貨幣志と神祇志とであった。
▲教科書の盛衰
明治35年までは教科書の出版が盛んなので50人くらいの職人を使役して日夜励精したものであったが、教科書が国定になってから書肆に養わるる木版師は一頓挫を来たしたのである。
▲清国公使館の注文
最も苦心せるは清国公使館の注文で荀子(ジュンシ 中国、戦国時代の思想書。二〇巻。荀子著)を翻刻したのである。なにしろ文字の母国ではあり、自分も一世一代の名誉と心得たので5年間の歳月を費やして彫りあげたが、板下は公使館から廻されたが一寸写した粗雑なものであったのを宋版に直して行くので、これにはずいぶん苦しんだ。
▲昌平黌叢書の翻刻
この頃は文部省の仮名遣沿革史料一巻の彫刻中であるが、近業としては松山堂(ショウザンドウ 東京市京橋区南伝馬町の書肆、藤井利八)のために昌平黌叢書の翻刻をした。すなわち不足せる板木、腐朽(フキュウ)せる部分、文字の不明なる箇所を補ったのである。(終)

(補記)
西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベースより
(昌平叢書)昌平叢書目録の説明文は以下の通り。
官版の板木を用いて明治42(1909)年に後印復刊した『昌平叢書』の内容目録。全64種667巻。配列は『四庫全書総目』『官版書籍解題略』に拠り、各書について書名・巻数・冊数/編著者・刊年を記載する。序によれば、林述斎が祭酒であった寛政中、印書局が開設され、慶応年間まで二百餘種の群籍が校刊された。所謂昌平黌官版である。廃校後、その板木の多くは散逸、或いは海外に流出し、それを惜しんだ長門人島田蕃根(*追記 しまだ ばんこん1827-1907 幕末・明治期の仏教学者。徳山藩士。徳山の天台宗本山派修験道教学院の住職。維新後,還俗して徳山藩校興譲館の教授となる。のち教部省,内務省社寺局などに出仕。福田行誡らと「縮刷大蔵経」を刊行した)が数十車を購入し、六然堂(「吾六然堂」とあり、富田鉄之助の堂号らしい)に移管した。それらの書籍は坊間に獲難いものが多く、友人山田士英の勧めにより昌平叢書として刷印した。緒言によれば、①六然堂主人が所蔵する官版の板木は約七千枚、伊達伯(旧仙台藩主)がその城南大森邸の書庫を提供し、作並清亮(旧仙台藩儒)が管理したため、蠹蝕朽欠の災を免れた。②官版の板木師は江川八左衛門で各板木にその「烙記」(焼印)が捺されていた。今回の復刊に際し補刻を要するものがあり、遍く善工を索めたところ、江川氏後裔の八左衛門が見つかり、昔の焼印も蔵していた。③官版本の表紙は「栗褐色」で紋様は「藤花」であったが、その銅型は寺島村の紙漉職人の家に存しており、今回もそれを用いた。④この復刊の賛助者は子爵青山幸宜、久米良作、鈴木寅彦、朽木暉、作並良亮、国分高胤、中井敬所の諸氏で、印刷製本作業を監督したのは書肆松山堂。
序者で板木所蔵者の富田鉄之助は旧仙台藩士。勝海舟門人で、勝の薦により慶応3年米国に留学、経済学を学ぶ。維新後、日本銀行総裁、貴族院議員、東京府知事を歴任。大正5年2月27日没82歳。編者で復刊を企画した山田英太郎(士英)は実業家。岩倉鉄道学校創立者。昭和21年6月6日没85歳。

巻之一 131 幸堂得知

通称を鈴木利兵衛という。別に竹鶯居の号あり。上野東叡山御用達高橋弥兵衛の男なり。幼名は庄七。維新後三井両替店に勤め、三井銀行になりてより各地の支店に長として令名(*よい評判)あり。つとに(*幼少より)文筆に親しみ、特に劇に関する造詣深く、明治21年(1888)東京朝日新聞に入社し、幸堂得知の名をもって盛んに劇評を試む。退社して後もなお筆を捨てず、雑誌その他にその健筆を振るい、現時劇界の古実家(*故実に詳しい人)として他に比なしと称せらん。かたわら俳句をよくし、選評を乞うもの相次ぎしという。大正2年3月18日観梅のため向島に赴きて爾来(*それ以来)心気勝れず、同22日終に70才にして上根岸町音無川畔の茅屋(*ぼうおく)に没す。24日谷中三崎町金嶺寺に葬る。

巻之三 70  山崎主税


文化の頃、下谷根岸お●●の松辺りに山崎主税とて諸病の咒い(まじない)を●●ものあり。
日々三百人くらいも来りて咒い受くる故、当番をもって咒●●り。その咒い様は、白木綿の鉢巻きをしめ、また裸にて紺の股引きを●き、腰かけへ腰をかけ少しの●ひなればお白眼を出して白眼に●●し、大ひなるは●●痛み所または病気のところを撫●●しなり。
鍋釜の類 金気あるものも、●をもってか観回せば取

随聞雑録

巻之四 18 寛政安楽寺事件(その1)

<譚海 4>より
(たんかい:津村淙庵(そうあん)の随筆集 寛政7(1796)年跋)
寛政3(1791)年8月27日金杉安楽寺住持(じゅうじ:住職のこと)遠島にせられぬ。これは同所根岸の村にある御家人の妹、従来(以前から)安楽寺弟子尼にてありけるが、当春の頃この尼兼ねて死期を知りて遺言に「我往生せば結縁(けちえん:世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと)のためしばらくそのままにて葬るべからず。七日の間諸人に拝ませよ」といいけるが、その日を過(あやま)たず臨終せしかば、家内の者をはじめ皆々尊きことに思い、住持も弔い来て世話をいたし、則(そく:すぐに)住持の指図にて棺(ひつぎ)をうどん箱のごとく差し蓋(ふたを差し込む形状のもの)にこしらえ、その中にこの尼を座せしめ、七日の間、人に拝ませける。殊に彼岸の頃にしありければ、真に生き仏のごとく、諸人(もろびと)聞き伝えて参詣夥しき。皆、極楽往生の著しきこと(はっきり形となって表れているさま)を嘆美(感心してほめる)せしなり。
第七日にあたり、葬りにあたるとき、安楽寺住持また来て世話せしに、この亡者の尼、眼を開き、住持に詞をかわし、その後瞑目して終わりければ、いよいよ奇異の事に、人言い合えりしを、公にも自ずから聞こえて、事の怪しき業に御沙汰あり。また片方(かたえ)には口さがしきものなど、この尼は実は死果たざれども、年来(何年も前から)住持に密通してありければ、住持と謀りてこの度往生することに世間へ披露して、葬りて後、密に掘り出し、尼を他所へ匿し置きたるなど、風説まちまちなるにつき、寺社奉行所よりお糺(ただ)しにて、住持召し捕られ、久々(長らく)入牢せられ、拷問にもおよび、その尼の墓もあばきご覧ありしかども、実証なきことゆえ、かく遠島に所せられぬるとぞ。
その兄の御家人もこれがために御改易せられたり。その後また住持の弟子尼、医師の娘にてありける者ありしが、この尼へ右の臨終往生せし尼の霊託(お告げ)して、時に不思議なりことを口ばしり、またこれに人々心を傾けて奇妙なりことに思いしかど、「全く極楽往生せし人、またこの世に迷い来たりて人に託すべきいわれもなき」など怪しみ言うことも絶えず。能々(よくよく)事のわけを知りたる人の言えるは、この安楽寺に悪しき狐、年久しく住わたるありて、初め死せし尼にも、この狐託して怪しき業どもを顕し、このたびの尼に以前の臨終せし尼の霊託をうけたまわるというも、皆々この狐のせいにて、住持もともにそれを知らずたぶらかされ、この災いにあえるなりといえり。さもあることにや心得ぬことども多かるになん。住持は全く放逸の僧にはあらず、住む所もいたって質素の住居にて如法念仏の行者(浄土宗の僧侶)なりしかども、愚なるによりて、かく狐にたぶらかされしことと語りぬ。

巻之四 19   寛政安楽寺事件(その2)


<御仕置例類集 二の帳 取計之部>
寛政7(1795)卯年御渡 松平右京亮(松平輝延てるのぶ:のちの上野高崎藩主、寺社奉行、大阪城代)伺
一、 下谷安楽寺隠居祐松の弟子 大禅 儀、遠島に成り居候師匠に付き添いたい旨(むね)、願いの儀につき評議

去る戌の年(人物誌は亥の年1791となっている)遠島申しつけ候、下谷金杉安楽寺隠居 祐松儀、虚弱ものにつき、遠島の付き添い、まかりこし(行って)介抱いたしたい旨、出帆以前、右弟子 蓮教願い出て、相伺い候ところ、師匠祐松の付き添いまかりこし候儀は成り難し、右の島へ相越し候儀はお構いなしの候。
もっとも同船、同居勝手次第致しべく、追って、出島の儀もこれまた勝手次第つかまつるべく段申渡すべき旨、仰せ聞かされ、すなわちその旨申渡し、かの島へ差し遣わし候。しかる処、今般、祐松より安楽寺当住(とうじゅう:今の住職)へこの書通、御代官江川太郎左衛門役所より披状にて相達し候処、蓮教儀、去る寅(1794)12月中、病死にいたり候、申し越し趣き候よし。当時、安楽寺に所化(しょけ:修行中の僧)相勤めまかりあり候大禅と申す僧は祐松の弟子にて、幼年より恩厚く受け、祐松儀、追々老年にも相成り候ところ、同居いたし候。蓮教相果て候うえは、代わりとして三宅島へ、まかり越したい旨、大禅願い申し出候。これにより例をも相ただし候ところ、的当(うまくあてはまる)の儀、相見申さず候得ども、先だって同居等勝手次第と申渡し候 蓮教相果て、右代わりとしてまかり越したい旨相願い、同居の者相増し候にもござなく候上は、先だって蓮教へ申渡し候おもむき(意向)をもって、かの島へ罷り越し候は、お構いなし候。同居勝手次第いたしべく、追って、出島の儀も、これまた勝手次第の段、申渡しべく候やの旨、相うかがい申し候。

この儀、祐松へ付き添い罷り越し候儀はなり難し、三宅島へ相越し候はお構いなしの段、先だって蓮教へ申渡し、右島へ差し遣わし候儀に付き、蓮教病死いたし候迚(とても)、右代わりとして大禅罷り越し候 趣意にはありござましき、しかれども、蓮教相果て候うえは、右京亮申し上げ候とおり、同居の者相増し候にもござなく候あいだ、祐松と同居の儀は、勝手次第の儀にあるべくござやにつき、伺いのとおり、先だって蓮教へ申渡し候おもむきをもって、大禅の儀、かの島へ罷り越し候はお構いなし、同居の儀も勝手次第いたしべく、追って、出島の儀も、これまた勝手次第いたしべく段、申渡しべく旨、仰せ渡され、しかるべくやに存じ奉り候。
卯十月 評議のとおり済み

巻之四 69 根岸閑話

上根岸町 番地俗称中道 角田竹冷(かくた/つのだ ちくれい: 1857 -1919 俳人・政治家。東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任。1895年、39歳で尾崎紅葉、巌谷小波、森無黄、大野洒竹らとともに俳句新派の秋声会の創設に関わった)の息住す。家屋●万円と称さる
圓光寺住職 大正10年12月5日寂す。同9日葬式
坂本警察署 大正3年金杉、坂本の2分署及び入谷の支署を合わせて坂本警察署と称し上根岸町に置けり。大正7年金杉下町5,6番地に移る。
同署歴代署長 市村、江種、山川、福原、前田
鰻屋富士川 主人、娘。姉妹の内 姉は陸軍大臣男爵田中義一(たなか ぎいち:1864- 1929長州閥。陸軍大将。陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣)の夫人にて、妹はその妾となる。
根岸戸数 大正12年9月調べ
上根岸町730、中根岸町630、下根岸町524
大正12年9月1日大震火災にて焼失せし数
下根岸町にて24戸 その他は無事
中根岸町にて圧死せしもの都合11人あり。中根岸町●屋にて妻子2人、安楽寺門南側荒物屋にて3人等なり。9月24日午後2時より西蔵院にて法会を営む
根岸の大木 染谷氏の話に西蔵院境内には御行の松よりも太き樅樹並びに椎樹ありたりと。
同話に根岸小学校第1期卒業生は入谷田圃太郎稲荷神官某の息なりしと。そのころは谷中芋坂上より通学する者多かりしと。
三島神社 同話に社殿改築したりし時、前田成彬公●の額を掲げり、現に傍らに掲げあると。
光妙寺三郎(こうみょうじさぶろう:1847-1893 外務官・検事・帝国議会議員 明治の二大ハイカラ―(もうひとりは馬場辰猪)。衆議院議員となり、第一回帝国議会ではフランス仕込みの大演説で、「東洋のクレマンソー」の異名をとる。フランス時代には、女流作家ジュディット・ゴーチエとの噂があり、当代一と言われた日本橋葭町の美妓・米八に惚れられ、一児をなす。光妙寺の死後、米八は新派女優・千歳米坡となり、その子は最後の元老・西園寺公望に養育され、後に俳優・東屋三郎となる。根岸の下宿で、家賃1円50銭という貧乏暮らしの中でも、7円50銭のパリ舶来の靴を履いていたという光妙寺。晩年、落魄したがダンディを貫き、死後残されたのは1羽のオウムだけだった)居宅は線路よりにて多分、宝生新の住みし家ならん●●

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