根岸及近傍図 現代語訳注釈付き

現代語訳にあたっての注意
1.「根岸及近傍図」内の解説で○印付で説明書をしているものを、「@数字」で順番に通し番号を振った。「図中の文字情報」も「#数字」として通し番号を振り、相互に関連する項目には該当の番号を挿入することで検索の便を図った。
2.「*」は訳者による付け足しの記述(西暦や読み仮名など客観的なもの)
3.「訳注」は訳者が一歩踏み込んで、蛇足的に付け加えた情報(主観的なもの)。

上部右~左の解説文

東京根岸の里は、かつて武蔵国豊島郡(*明治11年11月2日からは北豊島郡)金杉村の一部であったが明治22年(*1889)5月1日より、村内の石神井用水から南の土地が下谷区内に編入され、上、中、下根岸町となった。用水から北の土地は日暮里村となった。
金杉村は、室町時代の応永年間(*1394-1427)の文書に「金曽木」と記されている。「金曽木」という地名は所々にある。「鉋」を昔は「かな」といい、「そぎ」は殺ぎ(*削ぎ)の意味で「こけら」(*屋根に用いる薄い板や鉋屑。「こけら落とし」のこけら)の厚いものを指す。「こけら」の産地であることに由来した名と考えられる。
(訳注:この地名由来の説明にはいささか、疑念がある。一般的には、「新編武蔵風土記稿」で紹介されている鶴岡八幡宮の文書(*1399)から、この地に住んでいた金曽木彦三郎なる人物の名に由来しているという説が主流である。だがその名前「金曽木」は何に由来するのかは不明)
天正(*1573-1592:室町時代)の文書にはすでに「金杉」という地名が見える。正保3年(*1646:徳川家光の世)に東叡山寛永寺領となり、金杉町とは分かれた。
(訳注:この頃に町屋村、三河島村、谷中本村、中里村、田端村、新堀村も寛永寺領になった。また、金杉町とは町方支配地である奥州裏街道沿いの金杉上町、金杉下町のこと。現在の金杉通り沿いの下谷3丁目と根岸4・5丁目の一部である)
金杉村の中央以南の地の字(*あざ)名は、南部を「根岸」、西北及び新田を「杉ノ崎」、東北を「中村」、更に東北を「大塚」と分けて呼んだ。「根岸」が一番南側なので、江戸のほうからはこれらの地をまとめて「根岸」と呼んでいた。「根岸」という地名は、上野山の根の岸にあるから付いたものである。
(訳注:「江戸往古図説」(1800年ころ)には「上野の下也よって山の根岸なるべし」とあり、根岸の名の由来はこれが定説。異説として「台東・下谷町名散歩」(1991)で小森隆吉氏は「奥東京湾が後退して行く過程で、根岸東南一帯の地は入江・沼・池という変遷を経たとみなせる。恐らく室町時代末期まで、沼か池になっていたであろう。・・・根岸の岸はこの沼・池の岸を指したのではないだろうか」と唱えている。ちなみに金杉村の中央以北の地の字名は、谷中前、中下り、大下り(おおさがり)、井戸田の4つである)
長禄(*1457-1460:室町時代)の江戸図というものには金杉村と根岸村が並べて書いてあるが、そんなはずはない。この図は後世の偽造の図であるので、取るに足らないものである。金杉村民の戸数は、昔は18戸にすぎなかったが、のちに36戸となり、文化文政の頃(*1804-1830)には230戸となった。
この場所は上野の山の北の影に位置し、元々、静かで趣き深い環境であったので、江戸の武士や町民で別荘などを設ける人が多く、文政天保の頃(*1818-1844)もっともそれがブームになった。天保6年(*1835)の「諸家人名録」を見ると根岸に住む者は文人だけで30名もいた。ところが、天保の華奢厳禁の政令(*老中水野忠邦の天保の改革での倹約令)で、武家町人が百姓地に住むことを禁じ、みな家を引き払ったため一時原野のようになったと、今に伝えられている。

さらに、天保12年(*1841)1月5日に、村内貝塚(*現在の荒川区東日暮里5-42アインスタワー付近か)より失火して、金杉・坂本・入谷まで全焼した。30~40年前(*1865年頃)まで、上野山の裾野にはきつね、たぬき、山うさぎなど、多く棲んでいたという。その後、だんだんと都会人が来て、住む人も見られ明治維新後(*1870年頃)になるといよいよ、その傾向が強くなり、今では(*1900年)田んぼまで人家となっている。地元の大地主、文人、いろんな技芸士の住まいが軒を連ねて、去年(*1899年)の調べでは根岸3町(*上、中、下根岸)だけで975戸ある。「幽静の趣」は昔のこととなってしまったが、いまなお、俗世から離れた小天地である。

@1大塚(下根岸62)#52
大空庵、宗派は真言宗。40メートル四方くらいの小さな丘の上にある。文政(*1818-30)の図(*月崖の図のこと)には、この場所に「ビクデラ(*尼寺) 大塚イナリ」と書かれている。「大塚」という地名もこの塚に由来するものだろう。
太田道灌(*1432-1480 室町時代の相模国守護であった扇ケ谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣、現在日暮里駅前に銅像がある。墓は伊勢原市)の七塚(*道灌が築いたとされる斥候用の塚)の1つといわれている(谷中本行寺の道灌の物見塚もその1つとか)(訳注:本駒込1丁目(駒込曙町)の下総古河藩土井家下屋敷にあった鶏声塚(曙町古墳)もその1つともいわれている。『新修荒川区史 上巻』では「史跡と名所」の項で、この七塚を「恐らくは古代豪族を葬つた円墳であったのであろう」としており、また『荒川区史 上巻』でも「すべてが古墳ではないにしろ、道灌山遺跡や延命院貝塚遺跡の延長の古墳時代の遺跡の一画を形づくっていた可能性は極めて高いといえるのであろう」と記述している)。
雪中庵蓼太(*1718-87 俳人 雪門、大島蓼太ともいい、芭蕉庵を再興した。深川要津寺に墓)が「大塚の小高きところの尼寺の中で過ごした」というのはここと思われる。そのときの句として
「端居(*はしい)して 鶯に顔 みしらせむ」
(訳注:風通しのいい縁側に腰掛けて 鶯に顔を 見知ってもらったよ、の意)
「礼帳や まず鶯と 書初めむ」
(訳注:年賀の芳名帳の 一番目に鶯と 書いたことよ、の意)
がある。

@2御行の松(中根岸57)#67
笠をかぶせた形をした巨大な松で、西側の枝振りが一番いい。金杉村の水帳(*検地帳)に大松と書いてあるので、これが本名だろう。輪王寺宮の旧臣の本間八郎氏は、「上野の宮様が、御加行として100日間、毎朝上野山内および根岸あたりの神社仏閣を徒歩で廻られることがあり、この松の下で一息つかれるのが常であったので、地元の民は御行(*おぎょう)の松と呼んだ」という。この説を採用するのがよさそうだ。
(訳注:ご加行繞堂(にょうどう)といって輪王寺宮は一代に一度、2月の初めより100日間、毎朝3時に起きて、御掛かり湯を浴び、粥を食べ(お供のものも同様に)種々のご修法を行い、これを加行という。次に繞堂とは、山内の中堂、法華堂、常行堂、東照宮、山王社、慈眼堂両大師、御本坊うちなる東照宮、弁天社、稲荷社、将軍家の霊屋、位牌所、女霊屋、律院など巡拝することをいう。<大槻文彦著 「根岸御行の松」より>)
小畑詩山(名は行簡 呼称は良卓) (*1794-1875 現在の宮城県大崎市古川の出身で公現法親王に仕えた医師)は、上野の宮様の侍読(*個人教授)だった。その御行の松での作品として、「後凋松偃翠髯清 雨雪風霜老倍栄 一自台王蒙御幸 晝宵時有吹笙声」がある。
(訳注:松偃(しょうえん)、しぼむ後も翠髯(りょうぜん)清く、雨雪風霜、老いて栄えを増す。一人、台王、自ら御幸(みゆき)を蒙り(こうむり)、昼宵時に、笙吹く声有り、といった意)
拙い作品であるが、間接的な証拠として紹介する(空海や文覚(*もんがく 平安末期・鎌倉期の真言宗の僧。源頼朝に気に入られ神護寺を再興し、東寺を修理したが頼朝没後、策略で佐渡および対馬に流される)が行法をしたという説は採らない)。
この松の下に不動堂がある。ここは昔、奥州路だったとも伝えられており、文明年間(*1469-1487:室町時代)の道興准后(*どうこうじゅごう 京都聖護院門跡)の「廻国(*かいこく)雑記」(*1486)に「忍ぶの岡というところの松原のある陰に休んで、霜の後 あらわれにけり 時雨をば 忍びの岡の 松もかひなし」と読んでいることに因んで、ここを時雨が岡といい、松を時雨の松ともいう。
(訳注:ただ一般に「忍が岡」という場合には上野の山を指すため、上の歌で詠われたのは上野山中の松原と考えるのが自然である。また御行の松は昭和3年に枯死したが、その年輪はおよそ350年だったという。よって1580年頃に芽生えたことになり、文明年間にはこの木は存在しなかった)

@3円光寺(中根岸38) #77
臨済宗の寺。以前は園内に名木の藤があった。藤棚の長さは約50メートル、幅1.2メートルで、花房の長さは1.2~1.5メートルもあった。開花の頃には都下の人が群れ集まってきたため藤寺ともいわれた。
市川白猿(*1741-1806 5代目市川団十郎、後の市川蝦蔵 東洲斎写楽の錦絵に、彼を描いた「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)竹村定之進役の大首図がある。辞世の句は「凩に雨待つ雲の行方哉」)は、かつてこの近所に住み
「猿猴(*えんこう)の手よりも長き 藤の花」という句を詠んだ。藤は、いまはない。
(訳注:2019年現在、規模は小さいが藤棚は再び造られている。猿猴とは、中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種。海または川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。この妖怪のモデルは中国に住むオナガザルであるともいう)

@4梅屋敷跡(上根岸131)#234
天保14年(*1843)、村民の小泉冨右衛門が梅園を開園した。弘化2年(*1845)2月、時の将軍徳川家慶(*いえよし)の世継ぎ家定公が鷹狩りの時、「お通り抜け」と称して園内を鑑賞された。安政・文久の頃(*1854-64)、園は閉鎖された。嘉永元年(*1848)の「初音の里鶯の記」の碑が、この跡地に残っている。(訳注:現在も根岸2-18のウィルレーナ東京根岸の敷地内に残っている。戸川安清(1787-1868)の題字、関根江山の書。文面に関しては別項にて記載)

@5石神井用水 #105
地元の人は「せき」と言っている。音無川と記す場合もある。西方の王子村金輪寺(*きんりんじ 王子神社の別当寺)の下で、石神井川の水を5mの堰で止め(*明治25年に経費1748円をかけて大改修を実施)村内を東に流して、近隣の数カ村の用水とし、最後には隅田川にそそいでいる。

@6笹の雪(@37も参照)(金杉191)#218
豆腐の名前であり、これを売る店がある。ここには元は二軒茶屋といって両の角に2軒あって飴菓子などを売っていたところである。80年前(*1820年頃 文政年間)に京都出身の奥村忠兵衛がこの地に豆腐店を開店し、今までに5代営業している。
(訳注:80年間で5代、代が変わるのはいささか代わりすぎと思う。「笹の雪」で伝える歴史は以下の通り。「元禄4年(*1691)初代玉屋忠兵衛が上野の宮様(公弁法親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが当店の始まりです。宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と称賛され、「笹乃雪」と名付け、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は現在も店内に掲げてございます」。一方、幸堂得知(*1843-1913 通称鈴木利兵衛もしくは鈴木利平。上野東叡山御用達青物商 高橋弥平の息子。三井銀行に勤めたのち、東京朝日新聞に入社し演劇評論、劇作を行う)が明治40年に書いた「上野下一巡記」にはこうある。「文化初年(1804)頃の開店にて、元は三河島より市場へ野菜を出す者、朝飯を立ち寄りて食し行くために出来たる店ゆゑ、朝は未明に門を開き正午には売り切るというのが定めなりしも、明治の後は百姓より他の客が多く…」。また「明治末期において店で提供したのは、お酒のほかはあんかけ豆腐と焼き海苔とご飯だけで、営業は午前5時から11時ぐらいまでだった」(出典不明)と伝わっている。あんかけ豆腐については「上野の宮様がご来店になりました折、大変美味しいと仰せになり、今後二椀ずつ持って来る様にとお言葉を頂き、それ以降お客様に二椀ずつお出し致すのが当店の慣わしになっております」と笹乃雪のパンフレットにはある)

@7おまじない横町(金杉265と266の間)#76
文政(*1818-1830)の頃、呪術にて病を治す者がここに住んでいた。その術ではすべて脚で患部にふれて治したという。弘化(*1844-1848)の頃、浅羽某という者がここに住み算術にて灸をすえて治療を施したという。
@8一本橋(上根岸124の前)#226
かつては丸木橋であった。この西北角の酒屋(*金杉161)は、彫物師の濱野矩随(*はまののりゆき<2代目>1771-1852 江戸中期・装剣彫金工の一派、浜野派の一人。腰元彫りともいわれ帯留、つばなどを作った。講談および落語で知られる「浜野矩随」のモデルである)の旧宅である。また平田篤胤(*あつたね 1776-1843秋田佐竹藩出身 江戸後期の国学者・幕末国学の主流 平田神道の創始者。若い頃には5代目市川団十郎家で奉公していたころもあったという)は、この橋の北の田んぼ辺りに住んでいた(*1835年12月~1841年1月までの間。輪王寺宮の用人 進藤隆明の世話で引っ越してきた。1836年には著書「大扶桑国考」を舜仁法親王に献上した)とのこと。
@9五本松(上根岸85の南西)#127
上野山の津梁院(#128訳注:寛永寺裏に規模縮小なるも現存)の北裏の崖上にある数株の松をいう。その東には笠松というものもあった。この辺の上野の森の雪景色は美しい。
@10台の下(上根岸85~103付近)#204
五本松の崖下の地をいう。かつてはこの辺りは松原と田んぼであったが、今はみな人家となってしまった。
@11御隠殿跡(上根岸96及び107~114)#220
上野の宮の隠居御殿であった。古図には御隠居所とのみ記しているものもある。宝暦3年(*1753 吉宗の死去後、家重の世 輪王寺宮公遵法親王の隠居時)7月、杉ノ崎の土地4反1畝(約1230坪)余りを買い上げられて造営した。荘厳を極め、ふだんは宮家の庭園だった。五本松の下に茅門(*かやもん)があって、宮は裏伝いに御殿へ入られたそうだ。御殿内の絵は狩野洞春美信(*かのうどうしゅんよしのぶ 1747-1797 江戸後期の画家。駿河台狩野家4代目。3代元仙方信の養子)の作であり、庭には池、池中の島、そして朱欄の橋などがあり、池の中には錦邊蓮(*白花の蓮の一品種 英名 Pink Tip White Bowl)を植え、月夜などには舟をうかべて音楽を奏でたという。
徳斎(*原徳斎 1800-1870 儒者「先哲像伝」「徳斎日新録」といった著書がある。古河藩の地誌『許我志』を著した原念斎の養子)の記では、この地の四季の景色を「月は御隠殿まえ、また台の下 松原辺り最もよし、いわんや管弦の音、山岳にひびく夜は、また仙界の趣あり」と書き記している。
戊辰の彰義隊の戦争で、官軍により旧殿は焼き払われ、その跡はいま民家(訳注:明治6年に駒形どぜうの渡辺家が払い下げを受けたが、明治16年の鉄道敷設の際に大部分が失われたいう伝承もある)となり、残っているのは御隠殿の表門前にあった用水に掛かる大石橋のみである。
(訳注:この御影石づくりの橋は長さ2.7m×幅3.9mで、44cm角2本、33cm角9本の石材でつくられていたが、1935(昭和10)年にその橋も撤去され、その瓦礫は国鉄の線路際に打ち捨てられていたというがそれもいつしか何者かによって持ち去られた。ただ橋桁だけはいまも道路の下に残っているという)
元禄図にはこの西に火屋とでているが、火葬場であろう。
(訳注:4代将軍家綱(1641-1680)は東叡山参詣の際、火葬の臭気が山内の及ぶことに不快を示しため、小塚原の一町四方の土地への火葬寺の集団移転を行ったという)

@12水鶏橋(*くいなばし)(上根岸114の前)#223
御隠殿の敷地の東北角の、用水に掛かった幅30センチほどの石橋を指す。近年、石橋を架け替えて「うぐいす橋」との名を刻んだ。かつてはこの辺りの用水の北側は田んぼで、この辺や御隠殿の池などに水鶏が最も多く棲んでいたという。(訳注:東日暮里5丁目のリーデンスタワー前にこの橋にちなむモニュメントがある)

@13貝塚(金杉134~148付近)#202
金杉村の北、三河島村辺りは大昔、海が入り込んでいた。むかし3万坪にも及ぶ蠣殻山があり、享保(*1716-1736)の頃まで盛んに胡粉(*ごふん 日本画の白色顔料のひとつ)を製造したという。いまでもこの辺りの土の中は蠣殻である。蘭学の開祖、前野良沢(*1723-1803 名は熹(よみす)、字は子悦。蘭化、楽山とも号す。大分中津藩出身。1771(明和8)年3月に小塚原刑場にて、えたの虎松の祖父(90歳くらい)が行った通称青茶婆(50歳くらい京都出身)の腑分けを見学。1774(安永3)年に杉田玄白らと「解体新書」全5巻を著す。1780年大槻文彦の祖父大槻磐水(玄沢)が24歳で良沢のもとに入門し、1783(天明3)年に「蘭学階梯」を出版する。1793年頃から1802年頃までこの地もしくはこの近辺に居住した。良沢の墓は池之端七軒町の慶安寺にあったが、大正3年の寺の移転にともない杉並区梅里1-4-24へ移動。吉村昭著「冬の鷹」が参考になる)がここに住んだという。
(訳注:大字金杉字杉ノ崎141番地付近では、現在でも地面を少し掘れば大型の貝のかけらが次々とでてくる)

@14善性寺(貝塚の西、日暮里村大字谷中本字居村下1031の2)#108
日蓮宗で関小次郎長耀入道道閑(*鎌倉時代の豪族)が開基といわれる(西日暮里の道灌山はその宅地であったという)。日蓮上人(*1222-1282)がかつて関氏のところに泊まり、自筆でしゃもじにお題目を書いたという。それをこの寺で保管していたが、今は谷中の瑞林寺にある。徳川6代将軍家宣の母、長昌院(*1637-1664 甲府宰相徳川綱重(家光の三男で、家綱の弟・綱吉の兄。6代将軍家宣の父)側室。北条氏直の旧臣であった田中勝守の娘 お保良の方。次男の清武を身ごもった後、甲府家臣の越智喜清のもとへ身を寄せ、産後28歳で死去)は初めこの寺に葬られたが、宝永2年(*1705)上野(*寛永寺子院の林光院)に改葬された。(訳注:現在は寛永寺墓地内 徳川家裏方墓地にある)
寺内には松平清武(*1663-1724 家宣の異父弟。母は長昌院。上野館林藩の初代藩主、後の石見<島根>浜田藩主家 宝永年間(*1704-1711)に当寺に隠棲という)、篠崎東海(1686-1740享保期の儒学者。荻生徂徠の門に出入りし、林大学家にも短期入門。主著『不問談』(とわずがたり))、吉田圓齋(1755-1794暦学者 吉田子方、名は平)(鵬斎(@18参照)の碑文)、一刀流中西忠太郎(-1801 小野一刀流)(葛西因是(*1764-1823 儒学者)の碑文)の墓がある。

@15団子や(@39も参照)(日暮里村大字谷中本字居村下1137)#109
文政図に「フジノチヤヤ」と出ており、菜飯を売っていたという。お年寄りは今でも藤棚といっているが、藤はもうない。明治元年(*1868)より村人の澤野庄五郎が団子を名物として売りはじめ、羽二重団子として今は有名である。
(訳注:なお、「羽二重団子」自らは創業を1819(文政2)年といい、寛永寺出入り植木職人であった初代庄五郎が、街道往来の人々に自慢の庭を見せながら団子を供したのがはじまりという。酒も提供したので、団子で酒というのが上戸下戸を兼ねるとして妙案とされた。1838(天保9)年の妙めを(みょうみょう)奇談に「芋坂下酒店の軒、何れも盛なり」との記述あり。1907(明治40)年頃までは軒先に澄んだ水をたたえた井戸があったという)

右下の解説文

@16古奥州街道(中根岸82ほか)
月崖という人が文政3年(*1820)につくった根岸図では、中根岸の二股榎(*#83)の路に「古オウシウミチ」と出ている。お年寄りもこの樹は奥州路の土手にあったものと今に伝えている。また天保9年(*1838)の原徳斎の記には、上根岸の西 上野山の崖上の五本松(*#127)について「村人の説では、かつて奥州街道の並木の松だったという。また金杉の新屋敷(*#82)内に一本の古樹があり、その下には古い地蔵がある。それも奥州街道の跡だと伝わっている」と述べている。
この古地蔵というのは中根岸新屋敷(*#82 しんやしき)の旧構内、安楽寺表門の向かいの辺りにあって、小野お通(*戦国~江戸期の伝説的な才媛。岐阜の北方の里に小野正秀の娘として生まれ、池田輝政の家臣に嫁ぐが離縁。豊臣秀頼の正室千姫に仕え大坂城に入るが、家康の招きで駿府城を経て、江戸城へ入り、将軍家大奥の行儀作法の指導を行ったという。1616年に彼女が根岸で横たわっている地蔵を見つけ、1630年に的山(願蓮社勢誉的山)が京都から奥州へ向う途中で草庵の中のその地蔵を見つけ、一堂建立したという)に縁のある仏像といわれたが、明治維新後に同じ中根岸の西念寺(*#84)に移して、いま身代地蔵といわれているものにあたる。
また下根岸のざるや横丁の土手通りの北角(*下根岸85 現在の根岸5-11-1)にも南向きの地蔵があったが、これも奥州道の傍にあったものと言い伝えられている(最近、同じ下根岸の大空庵に移した)。
また千住道(*現在の金杉通り)三ノ輪通り西側の薬王寺境内に、今も後向地蔵としてある像は、かつて西側に奥州道がありそれに面してあったものなので、今は千住道に対して背を向ける形になったと伝えられている(像には正徳4年(*1714)と書かれているが後世の改作であろう)。また嘯月(*左下の解説文中で出てくる)という人が書いた古い絵には、薬王寺境内の東北隅に「奥州道一里塚」いうものが描かれており、その塚は維新前まではあったという。今の上野の下寺通りと千住道は後世に切り開かれたものといわれれば、そうだろうと思う。
(訳注:鎌倉時代からの古奥州街道は、滝野川から西ヶ原、田端、尾久、三ノ輪を通っていたが、江戸前期までに本郷から上野の山を横切り照崎(現在の忍岡中学)を通り、中根岸の新屋敷付近から土手通りを通った後、音無川沿いに北東に向かう道になったようだ。そして寛永寺創建以降、新街道が出来て古奥州街道はすたれたようである)

@17雨華庵(*うげあん)跡(下根岸86)#57
酒井抱一道人(*1761-1828 姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として小石川の藩邸に生まれる。病弱のため出家し西本願寺文如上人の養子になり、画業では尾形光琳に私淑し、後に江戸琳派と称される一派をなした。谷文晃、亀田鵬斎の3人は下谷の三幅対<三幅で一組になる画軸・掛物>といわれよく飲み歩いていたという)が文化6年(*1809)から過ごした旧宅跡。維新の3,4年前に焼けてしまった。家来で門人の鈴木其一(*きいつ 1796-1858 江戸の染物屋の家に生まれ、抱一の内弟子となって間もなく、酒井家の家臣で抱一の付き人だった鈴木蠣潭(れいたん)が急死したために、彼の姉と結婚、鈴木家を継ぐ。以後、抱一が亡くなるまで付き人として、また抱一亡き後も酒井家に仕え、絵師として活躍)、蒔絵師の原羊遊斎(*はらようゆうさい 1770-1845 抱一の図案を用いた作品が多く残っている)もこの庵の隣に住んだ。

@18石稲荷社(下根岸22)#65
小祠、ご神体はともに石でできている。この稲荷の向かいに亀田鵬斎(*1752-1826 儒学者・書家 「寛政異学の禁」で排斥されるのち諸国放浪)と浮世絵師の北尾重政(*1739-1820 北尾派の祖。絵本さし絵を多く描く。弟子に山東京伝<北尾政演 まさのぶ>がいる)が住んでいた。

@19火除(ひよけ)(金杉上町)#9
金杉通りの火除の十字路あたりは、かつては上野の火除地として野原に松などが生えていたという。また金杉町の西側の裏通りを土手通りと呼ぶのも、かつて防火堤があったためだという。一方ここにある三島神社の東側の裏手の了源院に火除観音という像があり、火難の守り神なので地名になったのだともいう。北峰山崎美成(*よししげ 1796-1856 北峰は号。随筆家、博識家。下谷長者町の薬種商の子に生まれる。通称新兵衛。文政8年(1825)暮れごろ下谷金杉町に居を移し、文政末ごろ旗本の鍋島直孝に仕える。著書「三養雑記」「世事百談」)はこの火除の辺りに住んでいた。


@20二股榎(中根岸82ほか)#83
西念寺前にある。元は東側の囲いにあったのだが、路を広げたので今は路上に立っている(*大正2年までに伐採された)。上のほうの幹は一本だが、下のほうは股となっている大木である。根の土を崩されて、根が露出したためだという。文政図には根岸三本の一本と書かれており、他の一本は御行の松、もう一本は「カイホウノモミ」といい、またの名を天狗の樅ともいう。今は上根岸の諏訪家邸内(*#233上根岸72 信州高島諏訪家)にその大きな切り株が残っている。

@21世尊寺(中根岸88)#85
宗派は真言宗で、応安5年(*1372:室町時代)に豊島左近将監輝時(*-1375豊島宗家10代目 石神井城主)の創立だという。

@22西蔵院(中根岸26)#81
真言宗。天正年間(*1573-1591)以前からの寺である。かつては元三島神社、石稲荷の別当寺であった。寺内に村田了阿(*1772-1843 国学者 主著「事物類字」)の墓がある。この寺の構内の東北隅に寺門静軒(*1796-1868 生まれたのがここだったようで、水戸藩江戸詰の妾の子だった。漢詩人で塾は谷中・三浦坂下に開く。主著「江戸繁昌記」は幕府により取り締まられ、のち諸国放浪。杉本章子「男の軌跡」(文春文庫「名主の裔」に収録)を参考のこと)が住んでいたことがあるという。


@23根岸小学校(中根岸29)#80
明治20年(*1887)に新築したもの。ここの向かい側辺りに(*中根岸47付近)浮世絵師の柳川重信が住んでいた(*-1832 りゅうせんしげのぶ 葛飾北斎の弟子。北斎の長女美与と結婚し一子もうけるが離縁。「南総里見八犬伝」の挿絵などが代表作。この中根岸47、48番地には二代目重信(天保9年の「妙めを奇談」を製図)も暮らし、後に岡野知十(1860-1932おかのちじゅう 一時期、子規と覇を争った俳人 句集「鶯日」)が住む)。

@24札の辻(坂本町3丁目)#40
坂本村の高札があったところ。去年(*明治32年 1899)路を大きく広げた。
(訳注1898(:明治31).4.20午後に坂本3,4丁目の一部、箪笥町全域、中根岸町の一部が焼失し、それを受けて道路改正を実施した。ちょうど岡倉天心が、美術学校を辞め日本美術院を旗揚げするにあたり、中根岸4番地の家を売ろうとしていたが、その直前にこの火事で焼失。(参照文献 九鬼周三「岡倉天心氏の思い出」)

@25大猷公(*だいゆうこう 3代将軍家光公 1603-1651)廟跡(上野山、新坂上)#145
新坂(鶯坂)上の地。承応元年(*1652)造成、享保5年(*1720)焼失。路沿い西側にある五葉松は家光公のお気に入りの松。

@26鶯谷(桜木町1~6番地付近)#146,#164
文政図では徳川家霊屋下の地を「ウグヒスダニ」と記している。元禄(*1688-1704)の中頃、上野の宮が鶯を多くこの地にお放しになられたと伝えられている。もともと霊屋の下は火除地で、一面に樹木、笹が生い茂り、池には大蛇が住んでいるなどといわれた。維新後(*1879)、上野から大猷公廟跡を貫いて坂を通し(*新坂)、坂下はことごとく人家となったが、今でも徳川家の所有地である。

@27桜川(上根岸24~26付近)#163
上野の山際の清水が流れ出て、今の徳川長屋前の大溝を通る入谷辺りの用水であった。鉄道が開通して(*明治16年)つぶされた。

@28元三島神社(上根岸42)#250
金杉村の元々の村の中心は、昔は上野のお霊屋の地にあり、三島神社もそこにあったという。今も第一、第二霊屋の境にある大楠は、かつての三島神社の神木であったという。宝永6年(*1709綱吉死後、第二霊屋ができたころ)4月に浅草寿町へ移されたが、この場所にも一社あり、この地の鎮守となっている。(訳注:台東区寿4-9-1に現存。付近には「笹の雪」という豆腐屋もある)

根岸名物
@29鶯
元禄の頃(*1688-1704)、時の上野の宮第三世 公辨法親王(*こうべんほっしんのう 1669-1716 輪王寺宮門跡在位なのは1690-1715)が「関東の鶯には訛りがある」とお思いになられて、上方から数百羽の雛をとりよせ根岸の地に放ったことから、この土地の鶯の声は訛って聞こえないという。それから鶯の名所となり、初音の里とさえもいわれた。鶯はこの地にある竹林に巣をかける。他所の鶯の脚は黒いが、根岸産のものの脚は灰色で赤みがあり、その道の人は見分けられるという。

@30鶯会(訳注:鶯の鳴き合わせ会のこと)
昔は毎年、向島の請地村(訳注:牛島須崎村の茶亭 梅本)で開かれていたが、弘化4年(*1847)6月に根岸の梅屋敷に移ってきて今まで続いている。
(訳注:梅屋敷廃園後は鶯春亭(#239)で行われ関東大震災まで続いた。その後は日暮里渡辺町の方で太平洋戦争中も開催されていた様子)
毎年4月、各地より飼鳥を持ち寄って、笹の雪あたりで軒並みに人家を借り、美麗な籠に入れて軒先につるす。人々が次々に立ち寄って耳を澄ませて、鶯の声を評して優劣を判定する。一等の鳥を「准の一」と称した。
(訳注:江戸前期から中期にかけての養禽家である根岸の松川伊助という者が自ら工夫した笛で子飼いの鶯につけ声を行った。これが縁日で売られる鶯笛の始まりと伝わっている)
鶯の覚束なくも初音哉<子規 明治26>   鶯や東よりくる庵の春<子規 明治26>
雀より鶯多き根岸かな<子規 明治26>   鶯の糞の黒さよ 笹の雪 <子規 年不明>
鶯の籠をかけたり上根岸<子規 明治30>  鶯の隣にすんで今朝の春<子規 明治27>

@31鶴
文政図には根岸の三鳥として「ウグイス」「タカモリヒバリ」(訳注:三ノ輪町誌にはタカノモリヒバリとあり、タカノモリとはカンカン森のことである)「ツル」と記してあり、大塚の田んぼには「ヒバリ」とある。鶴は徳川の時代に三河島道(*今の尾竹橋通り)の沼(*明治初頭まであった「前沼」のこと。今の東日暮里3丁目の東日暮里3丁目遊園周辺(旧大曲通りの東日暮里3丁目部分はこの沼の周回路と思われる))で餌付けをしており、その鳴き声は喧しいほどであった。将軍は鶴御成として、毎年(*11月~2月の間に)鷹にて鶴を捕まえて、「おこぶし(御挙)」と称して京都へ献上された。今は鶴も雲雀も来ない。
(訳注:1628(寛永5)年より将軍の御鷹場に指定され、一旦綱吉は鷹を伊豆諸島に放鳥するが、吉宗の時代に復活。将軍自らが拳に鷹を据えて獲物を捕ることから「おこぶし」といった。鶴の血を絞って酒に入れた鶴酒は珍重され、その鶴はいったん臓腑を出して改めて縫合し、昼夜兼行の早飛脚で京の朝廷に献上したという。朝廷は半分を受取り、残りは東下りの早飛脚で改めて将軍家へ下された。年頭登城の諸大名旗本に鶴の吸い物が振る舞われた 参考:広重 名所江戸百景「蓑輪金杉三河しま」)

@32水鶏(くいな)
これも根岸名物であったが今は見ることができない。しかし、私の庭の池(*金杉130<現 上根岸110大槻文彦宅)などに稀にやってきて、夜、汽車の響きに合わせて叩く(訳注 戸を叩くように鳴くので「叩く」という)こともある。ほととぎす(時鳥、子規)も喧しいほど鳴いていたが、鉄道が出来てからは声を聞かなくなった。
(訳注:子規が明治25年の高浜虚子あての手紙のなかでこう書いている。「当地(*根岸)はさすがの名所だけに、鶯も鳴き、杜宇(*ほととぎすの意)も鳴き、水鶏も鳴くよし。今夜も陸氏と話しつつある時に水鶏の声しきりに聞こえければ座上即興。雨にくち風にはやれし柴の戸の 何をちからに叩く水鶏ぞ」)
水鶏叩き鼠答へて夜は明ぬ<子規 明治25>

@33山茶花(さざんか)
根岸産のものを「根岸紅(*ねぎしこう)」と称して別種としている。中くらいの大きさの花で、紅色が特に鮮やかである。金魚も根岸産のものは色がよいといわれる。
山茶花のここを書斎と定めたり<子規 明治28>

@34夏葱
金杉村の特産品として都下で食べられている。抱一の句に「枯葉ゆく 葱の小川や 牛の絵馬」がある。この句は「瀬見(蝉)の小川」(*京都右京区下鴨神社の東部を流れ、糺の森の南で賀茂川と合流する小川)に掛けたものであろう。ちなみに、かつては水の神への感謝の意味で、用水の所々に牛を描いた絵馬額がたててあったという。

@35生姜・漬菜 #205
金杉村でも生産し名産ではあるが、谷中と三河島の名がもっぱら付けられている。

@36根岸土
壁塗りに使われる。50年程前(*1850頃)に平六という者が発見した。村内の地中に層をなして産出する赤茶色の砂土を搗いてふるいにかけたもので、江川氏が専売している。
(訳注:この亜種として茶根岸土、鼠根岸土もあるという。なおこの土で上塗りした壁を「根岸壁」という。その壁の色を「根岸色」という *新版「色の手帖」小学館刊)

@37笹の雪 (@6も参照) #218
京都の製法の絹ごし豆腐に葛餡をかけて食べさせる。初めに高貴な方から「柔らかきこと笹の雪の如し」と賞せられたのでこの名前にしたという。かつては大名や旗本が上野の寺院などへお遣物にしたり、吉原、根津、谷中(*いずれも江戸期の花街)の朝帰りの客や天王寺の富くじの客などが群れて訪れたという。今も入谷の朝顔を見てから朝飯を食べる客は多い。
(訳注:明治期の朝顔市は9軒の朝顔栽培業者の庭園を廻って鑑賞するものであり、毎年7月のお盆から、8月下旬までの約50日間が開園期間であった。入園料無料の業者と有料の業者がおり(当時の狂歌「朝顔におあし取られて貰い泣」)、菊人形ならぬ朝顔人形も展示された。モデルコースとしては、まず朝一番で不忍池の蓮が開くのを見た上で、朝9時が見ごろの朝顔を鑑賞し、帰り道に笹の雪もしくは上野池之端の揚出し(大衆料亭、豆腐の揚出しを名物とする。洋画家小絲源太郎の生家)で一杯やるのが推奨されている。今も7月の朝顔市の3日間は午前7時に開店する)

@38万年青(おもと)
栽培している家を篠常五郎(*1860-1917 明治18年に元勲三条実美、報知新聞社主筆栗本鋤雲、山岡鉄舟らの助力のもと「万年青図譜」「万年青培養秘録」を発刊。後に大槻文彦の編で「続 万年青図譜」を刊行。明治末期の地所は3000坪に達する)の肴舎(*さかなや)という。4代の祖である吉五郎は魚屋であったが、この草の栽培をはじめてから現在までその業を継いでいる。そのうち、根岸松(*名は御行の松に由来する)という種が国内でも絶品とされる。
明治10年に全国万年青競進会がこの家で開かれてから、毎年10月に開会されている。数千金の値がつくものもあり、およそ根岸にあって日本一と称すべきものはこの家の万年青であろう。
(訳注:この記事をうけて子規の病床日記<虚子、左千夫、碧梧桐 記>の明治35年1月22日の部分に以下の記述がある。
(前略)大槻文彦氏の根岸地図中に書して 根岸に日本一唯だ一つあり肴屋の万年青なりと 日本一を万年青なりとは何等の俗さ加減ぞ 若し日本一を言わば多田氏(?)の仮名でも挙ぐべきに など話さる
左千夫氏若し日本一を言わば山下の表具屋こそ正に適当なるものなれと語る
病人も大いに之を賛して万年青に勝る萬々と笑わる そう言えば根岸には日本一多し 第一不折 第二粂八などいろいろ数えらる(後略)

文中に注釈を加えれば
多田氏の仮名=多田親愛(1840-1905)のかな書を指す。1892年当時、金杉村215番地に暮らし、博物局(現在の東京国立博物館)に勤めながら、かな書道界の先頭にたっていた。明治20年に明治天皇の妃、昭憲皇太后の命により色紙24枚を奉献したことで一躍有名になった。
山下の表具屋(金杉160番地ほか一帯)=宮内庁御用経師 山下七兵衛(1850-1920)を指す。江戸時代は仏師屋を家業とし、明治期に入り美術院等諸大家の出入りを許される表具屋となった。根岸の大地主の一族(明治末期でおよそ4500坪を所有)であった(上根岸88の陸家の地主でもあるが、正岡家の地主は加賀前田家)。日本の印象派の先駆けで二科会創立メンバーの一人である洋画家 山下新太郎(1881-1966 代表作「読書」「靴の女」)の実家である。
不折=中村不折(#228下)

粂八=明治の女役者(女芝居の歌舞伎役者)市川九女八(1846-1913)。最初の役者名が岩井粂八。本名は守住けい。「女団洲(団十郎)」とも呼ばれ人気を博す。9代目市川団十郎門下になってからは市川升之丞、一時破門されてのちにゆるされて、明治27年に市川九女八と改名。新派や文士劇にでるときは守住月華を名乗る。月華の名は漢学者で団十郎のブレーンだった依田学海が命名。夫は狂言作家の藤基輔(守住新作)。

@39羽二重団子 (@15も参照)#109
極めて柔らかいのでこの名となった。三重や熊本の精米を用いて長く蒸すことを秘伝としている。小豆餡をまぶすものと、醤油をつけて焼くものがある。

@40煮山椒 (上根岸19-2)#246
元三島神社前の藤澤氏が売っている。原料は静岡県産の朝倉山椒の子(*木の芽)に限る。精製した絶品の醤油で長く煮ることを秘伝としている。
しばらく保存するとなお風味を増す。また青紫蘇の葉を粉にして売っている。種から精選して作っており年を経ても、香り、色に変化がなく、あまねく賞せられている。

左下の解説文

図中の記事の多くは、江戸砂子(*1732享保17年刊 6巻6冊 菊岡沾涼(1680-1747)著 伊賀上野出身 主著「諸国里人談」)・続江戸砂子(*1735享保20年刊)、江戸名勝志(*1746年もしくは1733年刊 藤原之簾著)、武蔵演露(*大橋方長著)、新編武蔵風土記稿(*全265巻付録1巻 林大学頭述斎が1810年に幕府に建議し、11年かけてまとめたもの)、江戸名所図会(*1836年刊 7巻20冊 斉藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の親子3代で完成。645枚の絵は長谷川雪旦が描く)などに拠った。嘯月(その人について詳しくは分からないが)が描いた宝暦の頃(*1751-1764)の根岸の景16枚や(訳注:太田謹氏が所有していたが、現存せず)、月崖(やはりこの人についてもよくわからない)の文政3年(*1820)の版図も参考にした。原徳斎(*志賀理斎の三男)の記はその父である志賀理斎(*1761-1840名は忍、理助。幕府の士)の「妙めを(*みょうみょう)奇談」(*1838(天保9)年刊)の中に出ている。
そのほか、本間八郎(*1849- 元輪王寺宮の御用人。大本間と呼ばれる。上根岸73に居住)、斎藤信太郎、瑞雪湖、幸堂得知(*劇・文学に通じた古老 上根岸120)、内田佐平次(*下根岸87)、前島平五郎などこの地のお年寄りや三ノ輪の石川文荘氏(*漢学者。本名石川二三造。主著「覚書 根岸人物誌」都立中央図書館所蔵)などから聞いたことは多い。発刊の労を取ってくれたのは、太田謹(*上野帝室博物館職員で大正2年には部次長。校訂者 主な仕事として「増訂 古賀備考」 上根岸130)、平坂閎(*この地図の発行者)、藤沢碩一郎(*このみ庵主人 上根岸19-2)の3氏である。

上、中、下 根岸町の境 ・-・-
旧字(*あざ)根岸、中村、大塚、杉崎の境  ----


田舎道が曲がりくねっていて、おとずれる人が迷うのは、わが根岸だけであるまいか。抱一の句の「山茶花や 根岸はおなじ垣つづき」や「さざん花や 根岸たづぬる 革ふばこ」は、また一種の味わいであろう。ところが今は、名物であった山茶花や寒竹の生け垣もほとんどその影をとどめず、今風の石レンガの塀が造られ、名のある樹木は抉り取られ、いにしえの奥州道の地蔵など大切にされていたのに取り除けられ、鶯の巣は鉄道のひびきに揺り落とされ、水鶏の声も汽車にたたきつぶされ、およそ味わいや趣といったものは次第に失せて、ただ路地がくねっているのだけが昔のままである。「市区改正はどうすれば、この地にまで及んでくるのだろう」と嘆く人もいるが、「路が狭いからいいのだ。金持ちの馬車など入ってきたら、我らはここに住むものか」という貧乏学者もいる。わが根岸倶楽部の仲間は新年のお年玉として根岸の道しるべの地図を頒布し、人々に迷わせまいと思い、その製作を私に託した。絵ができてみたところ、余りに洋物っぽく、根岸の地図もこうでは鶯が泣くばかりという思いがおこり、少しばかり風雅めかそうと思い、余白に旧跡の説明などを加えることにした。今よりは空谷の足音(*くうこくのそくおん 静けさの中での訪問者の足音)を多く聞くことになるのか。金持ちの馬車の侵入を押しとどめられるだろうか。
それにしても、唐代晩期(*836-906)の詩「澧(*レイ)水の橋西 小路斜めなり 日高くしてなお未だ君の家に到らず 村園 門巷 多くは相似たり 処処の春風 枳殻の花」
(訳注:澧水(れいすい 湖南省より洞庭湖にそそぐ川の名)にかかる橋の西 小道が斜めに走っている 日は高いがまだ君の家にたどり着かない 村里では路地や門口はみな同じようなものばかりであちこちに春風吹き、白いカラタチの花はいまが盛りである)
のとおり、かつての脱俗の人々が静かに暮らしたさまを今なお慕っているこの図は雅なのだろうか、俗っぽいのだろうか。

明治辛丑(*かのとうし 明治34年)元旦 
          「仮名の舎」主人しるす(大槻文彦)(復軒)
(*1847-1928 おおつきふみひこ 号とて仮名の舎、復軒と称す 国語学者、史伝家 代表作「言海」「広日本文典」  やや寒み文彦先生髯まだら<子規 明治31 元光院観月会にて>)

明治33年(*1900年)12月30日印刷
明治34年(*1901年)1月3日発行
(訳注:ちなみに1900年12月30日から1901年1月1日にかけ慶応大学では午後8時より「19世紀・20世紀送迎会」を挙行した。1901年2月3日に福沢諭吉が68歳でこの世を去った)

根岸倶楽部出版
(訳注:根岸倶楽部とは、森田思軒を中心に、饗庭篁村、岡倉天心、須藤南翠、高橋大華、森鴎外、幸堂得知、幸田露伴などをメンバーとして明治23~24年頃にできた根岸に住む文人たちの集まりの総称で根岸派、根岸党ともいわれた。基本的には近くに住んでいる人たちが集まって飲み会をしていただけで、時に1泊旅行の能美努計無尽(のみぬけむじん)なるものを開催した。「美術之日本」第5巻第10号(大正2年10月15日発行)にこの会の逸話がでているという。なお「倶楽部」という言葉は明治20年ごろより日本では流行語としてもてはやされた)

代表者 著者兼発行者
    東京市下谷区上根岸町41番地(*元三島神社東隣)
    平坂 閎

印刷者
    東京市神田区東松下町16番地
    小柴 英侍(*明治33年刊行「大槻文彦閲 萬年青図譜」の印刷も手がける)

売捌所 
    東京市日本橋区通1丁目
    林 平次郎(*六合館館主 自宅は上野桜木(現 根岸1丁目)にあったという)

(訳注:六合館(りくごうかん)は教科書・辞書を中心に出版活動を行った出版社。明治20年代には神田区表神保町2番地にあり、30年代に日本橋区通3丁目6番地に移った。当初、文彦の自費出版として刊行された「言海」は後に同社にて出版された。大型判は明治22年が初版で昭和4年には15版、中型判は明治37年が初版で昭和3年には526刷を記録した。昭和7年10月には冨山房より言海の改訂版となる「大言海」が発売となり、「大言海」は昭和12年11月に索引が出て完結した)

発売元 根岸 このみ庵 藤澤   縮尺 2345分の1
(訳注:この縮尺率の表記にもユーモアを感じてもらいたい)

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