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魚の切り身は泳がないことを私は知っている。

アサリが怖い。
あの砂を吐き出すピロピロが怖い。

そんな私にもアサリが平気で食べられる時代はあった。
鍵っ子だった小学生のとき、母が砂抜きのため薄暗い台所に放置していたアサリを見てしまったのがきっかけだった。

調べてみたらあのピロピロは「出水管」というらしい。水を吸うほうが「入水管」。まんまだな。

ひとつ前のポストで私は「好き嫌いのない子供だった」と書いた。
昔から今まで、まあ食べようとすれば食べられるから、嘘ではない。

言うなれば「見た目に殺生を感じてしまうもの」が苦手なのだ。
魚介類が全般得意じゃない。
それでも綺麗に血抜きがされ、切り身になった刺身は好んで食べられる。

肉は好物だ。
もうすでにそれは「私の知ってる生命」とは形を変えてるから。
けれども手羽元のような、血管や腱の姿そのものが残っていて、食べるときに「命」を感じるものがつらくなる。

誰かの命を食って生きながらえることに、目を瞑っているわけじゃない。

幼い頃から父が釣りをするのが趣味だったから、
さっきまで生きてたものを「いただく」ってことが、どんなにありがたいことかはよくわかるつもりだ。

私が日常で「命」の意識をせず食べられるのは、
そういう風に誰かが屠殺や〆、そして骨や血合いの取り除きなどを誰かが行ってくれたおかげだ。

だから感謝して食べましょう……なんてありふれてる啓蒙じみたことを言うつもりはない。
ただ私はそういう誰かのおかげで、色々なものにありつけてるんだなぁと。

自分の好きなものをランチとしていただき、そのようなことをふと考えてみるなどした、
30歳1日目の穏やかな午後でした。




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