極にいることの危険性

 政治を語る上でそのスタンスを右から左かのベクトルで図ることがある。その「右か左」しかないというのはどれだけ危険だろうか。
 例えば右翼に属していたとする。あるいは右翼の政権であったとして、右翼であることを強調される戦前日本のような社会であったとする。戦前・中に日本で何があったかといえば、少数の意見を切り捨てて、自分たちの意見を正当化する意見にだけ耳を傾けるようなことだ。治安維持法であるとか、ソ連の間諜などの影響はあったとはいえ、社会主義・共産主義にシンパシーを感じる団体を弾圧した。言論で言えば讒謗律や新聞紙条例を制定して、政府に批判的な文字メディアを取り締まることを明治の頭頃からしていた。その結果日本は軍部の暴走を止めることができずに、ずるずると戦争の道へとひた走ることになった。
 もしここで(ifルートとして)、左翼への弾圧が行われなかったらどうだったろうか。もしかしたらソ連の指示を受けた工作員などが国家を転覆させていて、戦争に入っても入らなくても日本という国家が無くなっていたかもしれない。しかし一方で、右翼への歯止め役としての役割を果たしていたルートもあるのではないのかなと思う。

 また、現在日本では右翼よりも左翼の方が強く、昔ほどではないにしても、文芸界や政財界、教育の世界においても、比較的右翼よりも左翼の声の方が大きい。そこでもし、左翼が政権をとって、戦前日本のようなことをしたらどうなるだろうか。極端な例で言えばポル・ポトやスターリン、毛沢東のいる世界のように、比較的楽な例で言えばチトーやスターリン死後にある程度緩くなったソ連や現在のベトナム・キューバのようになるかもしれない。それらに共通することは言論の弾圧が社会としての団結のために罷り通っている点である。例えば中国で言えば地元政府への苦情は言うが、党中央(習近平)への批判はしない、というような世界になったり、そもそも批判なんかしたら北海道の極地とか、南アルプスの極地に飛ばされる可能性すらある。

 冒頭に戻るが、政治は右翼と左翼に分かれる。しかし、中道もある。Aという案があって、明らかに0か10ならば良いが、Aには A'とB'とC'の3つのやり方があった際にその3つのうちどれが良いかを比較検討し、さらにその3案をより良い方向へとするために、A'とC'(A'とB'、B'とC'でもよいが)を合わせた新しいD'という案を作ると我が国の国益にとっても、私たちの社会にとっても利益になるものがあるかもしれない。そうであった際に、右なのか左なのか、とか、A'B'C'のどれかひとつという考え方は不利益になりかねない。

これは政党についてもこの通りである。この政策提案なら自民がいいよね、でもこの方策を取るのであれば立憲民主とか共産党がいいよね、とか、この立場を堅持するのであれば国民民主党がいいよね、とか、、、。政治=選挙は強ち間違いではないのだが、選挙という枠にとらわれるあまり、どの案が、どの政党の言い分がその場面場面における国益に叶うのかが見落とされているような気がしてならない。

改めて私たちは「中道」という選択肢を持つことも考えてみた方が良いのではないだろうか…。

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