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田舎教師の墓

埼玉県羽生市の建福寺。東武伊勢崎線の羽生駅からほど近い場所に、それはある。

田山花袋の『田舎教師』に登場する主人公・林清三のモデルとなった人物、小林秀三の墓である。

かれらの群れは学校にいるころから、文学上の議論や人生上の議論などをよくした。新派の和歌や俳句や抒情文などを作って、互いに見せ合ったこともある。一人が仙骨という号をつけると、みな骨という字を用いた号をつけようじゃないかという動議が出て、破骨の、洒骨だの、露骨だの、天骨だの、古骨だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙をやるにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通った連中の一人だが、そのほんとうの号は機山きざんといって、町でも屈指の青縞商の息子で、平生は角帯などをしめて、つねに色の白い顔に銀縁の近眼鏡をかけていた。田舎の青年に多く見るような非常に熱心な文学好きで、雑誌という雑誌はたいてい取って、初めはいろいろな投書をして、自分の号の活字になるのを喜んでいたが、近ごろではもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を縦横にそのなかまにして聞かせるようになった。それに、投書家交際をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇消息には、武州行田には石川機山ありなどとよく書かれてあった。時の文壇に名のある作家も二三人は知っていた。
 やはり骨の字の号をつけた一人で――これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じなかまにおつき合いにつけてもらった組であるが、かれの兄が行田町に一つしかない印刷業をやっていて、その前を通ると、硝子戸の入り口に、行田印刷所と書いたインキに汚れた大きい招牌がかかっていて、旧式な手刷りが一台、例の大きなハネを巻き返し繰り返し動いているのが見える。広告の引札や名刺が主で、時には郡役所警察署の簡単な報告などを頼まれて刷ることもあるが、それはきわめてまれであった、棚に並べたケースの活字も少なかった。文選も植字も印刷も主あるじがみな一人でやった。日曜日などにはその弟が汚れた筒袖を着て、手刷り台の前に立って、刷れた紙を翻しているのをつねに見かけた。
 金持ちの息子と見て、その小遣いを見込んで、それでそそのかしたというわけでもあるまいが、この四月の月の初めに、機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行ったが、帰る時、「それじゃ毎月七八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ。原稿料は出さなくったって書き手はたくさんあるし、それに二三十部は売れるアね」と言った顔は、新しい計画に対する喜びに輝いていた。「行田文学」という小雑誌を起こすことについての相談がその連中の間に持ち上がったのはこれからである。

田山花袋『田舎教師』。青空文庫より引用

私にとっては、『田舎教師』という作品は、20代の終わりころ、明治後期の青年たちが、雑誌を発行しては寄贈したり文通をして「投書家交際」を行なって、地方文壇の付き合いが活発に行われていたこと―「誌友交際」のネットワーク―に気づく重大な示唆を与えてくれた作品でもある。
舞台となった行田の図書館には、実は小林秀三の関係資料や、石山機山のモデルとなった石島薇山関連の資料もある。それを使って、論文を書いた。


田山花袋(近代日本人の肖像より)

もう7,8年前になるだろうか。
ある夏、群馬の実家に帰省しようとした折、ふと思い立って東武線の途中で下車して、墓参りに訪れた。歴史研究というのは亡くなって反論したくても出来ない人を取り上げてあれこれ書くことになるので、せめて論文で書いた人のお墓は、できるだけお参りしたいと思うからだった。


小林秀三のお墓の脇には、作中に登場する文を刻んだ碑も建てられている。

運命に従ふものを勇者といふ

墓参りを終えたあと、それから羽生から秩父鉄道に乗り換えて、行田市まで行き、行田の街の中を歩いた。「田舎教師」にちなんだお菓子などもあることを知った。

そういえば最近出たらしいこの本、まだ読めていない。早く読まなければ。


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