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近代文語文読解練習 高山樗牛「美的生活を論ず」3

2の続き


 是の如く詮議し來れば、吾人は茲に一疑惑に逢着せざるを得ざる也。例へば古の忠臣義士の君國に殉せるもの、孝子節婦の親夫に盡せるもの、彼等は其の君國に殉し、親夫に盡すに當りて、果して所謂る至善の觀念を有せし乎、有して而して是に準據したりし乎。換言すれば、君國の爲にするは彼等の理想にして、而して死は是れに對するの手段なりと考へし乎。親夫の爲にするは彼等の至善にして、而して是れに盡すは彼等の本務なりと思ひし乎。若しくは、君國親夫と謂ふが如き具體的觀念の外に、忠義孝貞と謂ふが如き抽象的道義を認めて、是を奉體せりと見るべき乎。若し是の如く解釋する能はずとせば、忠義と云ひ、孝貞と云ふもの、道徳上の價値に於て言ふに足らざるものならむのみ。

道徳とは何かという話から始まって、道徳には意識と行為と両方が必要だみたいなことを話していた。その続き。

是の如く詮議し來れば、吾人は茲に一疑惑に逢着せざるを得ざる也。

逢着は「でくわす」で、そのあとは二重否定。本当によく出て来る。「このように検討してきたら、私はここで一つの疑惑にでくわさざるを得ないのである」ということだが、要するに大きな疑問にぶつかるということ。

例へば古の忠臣義士の君國に殉せるもの、孝子節婦の親夫に盡せるもの、彼等は其の君國に殉し、親夫に盡すに當りて、果して所謂る至善の觀念を有せし乎、有して而して是に準據したりし乎。

今度の「乎」は疑問で良いと思う。主君や国の為に命を落とした者、あるいは父母によく仕える子供、夫への貞節を守る妻たちは、国のために殉じ、親や夫のために尽くすというときに「至善」ということを考えたのだろうか。考えた上で、その上で「至善」に準拠して行動したのだろうか?ということだ。

今までの議論から言えば、意識と行動が伴って完全な道徳なのだから、もしそうでないとしたら、忠臣義士も孝子節婦も、道徳的な模範として不完全な例になってしまう。

換言すれば、君國の爲にするは彼等の理想にして、而して死は是れに對するの手段なりと考へし乎。親夫の爲にするは彼等の至善にして、而して是れに盡すは彼等の本務なりと思ひし乎。若しくは、君國親夫と謂ふが如き具體的觀念の外に、忠義孝貞と謂ふが如き抽象的道義を認めて、是を奉體せりと見るべき乎。

畳みかけるように疑問をぶつけている。考へし乎 or 思ひし乎は、「考ふ」(思ふ)+過去の助動詞「き」の連体形+「乎(か)」である。
国のため、あるいは主君の為に死ぬというのは義士たちの道徳上の理想であって、死ぬというのはその理想を実現するための手段だと考えたのだろうか。親や夫のために尽くすのは子や妻の至善であって、そして、これに尽くすことが自分たちの本務だと思ったのだろうか。もしくは国や主君や夫や親というような具体的な観念以外で、「忠義孝貞」というような抽象的な道義を考えて、それを奉体(心にとめて、実行しようとすること)しようとしたと考えるべきなのか?という解釈になる。

若し是の如く解釋する能はずとせば、忠義と云ひ、孝貞と云ふもの、道徳上の價値に於て言ふに足らざるものならむのみ。

「若し是の如く解釋する能はずとせば」。「能はず(あたわず)」は出来ないということ。漢文で書けば「不能」である。もしこのように解釈することができないならば、であろう。後に続く文章の意味はわかりやすい、忠義や孝貞というものは、道徳上の価値が言うに足らないものになるだろう、ということである。ならむの「む」は推定の助動詞。また文末の「のみ」は漢文訓読で用いられる強調表現。

推定に強調をつけるのは変な感じもし、「言ふに足らざるもののみ」で良いんじゃないかという気もし、強調しないで「言ふに足らざるものならむ」で終わった方が自然であるようにも思うが、高山はこう書いたのだった。


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