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加藤高明と田中稲城

これもあまり本筋に関わらないので拙著『帝国図書館』には書かなかった話。読者の方からご質問をいただいたので、整理しておく。

初代帝国図書館長の田中稲城は、東大で加藤高明の同級生だった。明治14年に卒業した彼らは「十四年会」という同窓会を作って定期的に会合を持っていたらしい。そのことは櫻井良樹『加藤高明』にも出て来る。

私は新書で「後年まで交友が続いた」(73頁)と書いたのだったが、加藤が偉くなったからか、両者は後年疎遠になったのではなかったかという質問をいただいた。

これは根拠がある。河上謹一「田中稲城君を億ふ」にて

他人に対しては最も義理堅い人であつて、人が君に物品を贈れば君は其価格以上のものを以て答礼せざれば気の済まぬのであった。富有の人が君を招待すれば君は必ず辞退して往かなかつた。それは返礼する力なきを自覚していたからで、旧友加藤伯との交際を中絶せるも全く此理由のためである。

『図書館雑誌』21巻2号(1927年2月)53頁。

と書かれてあるからである。こうなると加藤と田中が死ぬまで付き合いがあったかは確かに怪しい。

ただ、「後年」がいつまで含むかは、ちょっと検討の余地があるようにも思うのである。

例えば、1915年(大正4年)1月7日付の『東京朝日新聞』の2面の記事。

第2次大隈内閣の外務大臣だった加藤が、浅草で開かれた昨年末の大学の同窓会兼忘年会に出席。この日、集まったのは加藤、衆議院議員の鈴木充美(胸にバラを指していて、バラ充と呼ばれた)、女子高等師範学校の岩川友太郎という。

この席で、田中稲城からいきなり「オイ加藤、貴様はよく嫌はれる男だが実を云ふと一体、貴様の笑ひ方が人の気に入らないんだよ」と言われ、加藤が「例の態度」でニヤリと笑って、「此奴は何時の間にか政友会に入つたと見えるな」と返したというやり取りが描かれる。


さらに、同窓生たちの悪戯で、宴会の終盤、みんなで吉原に行くと動議を出し、加藤を強引に連れて行こうとしたが、狼狽した加藤は「ドウか今丈は勘弁してくれ」と小さくなってしまうという挿話も。
後で悪戯だとわかった加藤の一言。

「あんな筈でなかつたに外交が失敗した」

『東京朝日新聞』1915年1月7日

オチまで含めて出来過ぎた話ではある。

当然、田中稲城が政友会に入った事実はないと思われるし、新聞記者がこんな酒宴の冗談をつぶさに書けるとも思われない。

だから、内容は眉唾ものなのだが、しかしこの時点でもし田中が完全に加藤と交際を断っているようなことがあったなら、大正時代に入ってこのような新聞記事が出ただろうか?という疑問もある。

何らかの集まり自体はあって、田中稲城が加藤高明と顔を合わせる機会は存在したのではなかろうか。

今日伝えられる田中稲城の生真面目な性格からして、贈り物などはそれ以上のお返しをしなければならないと考えたのだろうから、交際を断ったと言われるのは、おそらくそれを辞退したのであって、面会を断る理由はなかったのではないかというのが、今のところの私の考えである。
その意味で交友が「後年まで続いた」とは書くのは一応許されるのではないかと。

ただし田中が帝国図書館長の職を退いたあとは、さすがにわからない。加藤自身も政界で多忙を極め、1920年代以降の晩年の接点は、あまりなかったのだろうとも思われる。


話のついでながら書いておくと、大正時代になり、田中稲城の同級生の出世頭である加藤高明は二度目の外務大臣を経験、野党第一党の憲政会を総裁として率いていた。都筑馨六も枢密顧問官、牧野伸顕も、パリ講和会議の次席大使を務めたのち、宮内大臣に就任していた。そういうなかで、田中稲城だけが一人奏任の帝国図書館長を粛々と勤め上げるという格好だった(退職直前に勅任待遇となっている)。田中の周りがどんどん出世していった時代なのである。というか、田中だけが出世しなかったというか(帝国図書館官制において、帝国図書館長は「奏任」と定められている)。

田中が名利に囚われない性格であったことは同時代人の複数の回想から確かめられるが、高等文官試験を通過して採用された官僚が局長や課長のポストを占めていくなかで、官僚の意識も大きく変化していた(拙稿「法科と文科」中野目徹編『官僚制の思想史』所収)。

本当に会う機会があったのなら二人がどんな会話をしたか、知りたい気もするが、とかく両者の手紙のやり取りもほとんど残っていないのが惜しまれる。丁寧に探していけば見つかるのかもしれないが。

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