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五百旗頭真『占領期』

いままでちゃんと読んでこなかった自分の不勉強を晒すようなのだが、先日、熊本学兄の『幣原喜重郎』に触発されてようやく、本当にようやく、五百旗頭真『占領期』を読んだ。つくばの古本屋で売っていて運命的な感じがしたのでその場で買った。この読売新聞社の「20世紀の日本」シリーズ、私が大学に上がるか上がらないかくらいの刊行なのだけれど、結構その後影響を与えた本が多いように思う。

まず文章がすごい。引き込まれる。危機の時代のリーダーシップについて、あれこれと考えさせられる。

例えば東久邇宮内閣下、陸軍少壮軍人による皇居占領計画の最中で、東久邇首相が首謀者にあって説得する場面。

あの事態にあって、確かめようもないまま、放置することもできまい。はったりかもしれないと疑いながらも、最悪に備えて真剣に対応する以外に、責任者の選択肢はなかったであろう。そうした政府の姿勢が伝わることが無意味ではないのである(p.40、引用は読売新聞社版)

あるいは、公職追放の指示に翻弄され抗議として総辞職を考えたが踏みとどまった幣原首相を評するつぎのくだり

一兵卒に潔い戦死が名誉でありえても、全国民の運命を預かるトップの政治家が、滅びの美学に魅入られていることは無責任である(p.228)

政治信条の上では農地改革には反対なのだが、「しかしどうしてもやらなければいかんとあなたがおっしゃればやります」といって、和田博雄農相を庇う吉田首相への評価は結構高い。

吉田首相は一面において信頼した人を徹底的に守り抜くことができる器量の持ち主であった(p.263)

片山内閣末期の様相も、この記述だけでも読むと思わず息が詰まる。

西尾は激しい抗争と策謀が応酬されるなかで、政策的合理性よりも、統治感覚よりも、ライバルに対する権力本能に忠実に反射神経を働かせるモードに自らを設定した感があった。そのことを感じとれたであろう片山首相が、神経疲労の激しい西尾を救い出す言葉をかけることができなかったのは、なぜであろうか。高潔で善意の人であることは、最高位者としての責務を免除するものではない(p.314)。

これらと比べるとその後の芦田首相評はかなり気の毒になる。評価が高いのはその後再登場した吉田首相だ。『劇画小説吉田学校』などでも名場面で書かれる山崎首班工作のあとで。

歴史の曲がり角におけるこみ入った戦場を決した最大の要素は、吉田総裁が不退転の闘志をあらわにして正論を語り、決意を表明したことである。修羅場にあって骨太く方向性を示し、それに体を張る素養がリーダーには求められる。それは片山首相が平野問題などに際して発揮しえなかったものである。芦田もまたなりきれなかったところのものである(p.364)

部下が渾身の力をこめて奮闘し、それでも矢つき剣折れて討ち死にしそうになたっとき、吉田首相は修羅場に現れて部下を守った(p.376)

どなたかが、疲れたときに元気が出る英雄物語というような評をされていたが、確かにそんな感じだ。

どんな組織であれ、昨今の改革で疲れ切ったなかで、リーダーシップの理想について宰相たちの行動を見ると胸に沁みるのではないか。同時に、20代までしか歴史の勉強しないのはもったいないなと少し思った。こういう文章が書けるようになる気はまったくしないが・・・。


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