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近代文語文読解練習 高山樗牛「美的生活を論ず」1

青空文庫に入っているテキストなどを題材に近代文語文の読み方の解説を試みたい。

以下、高山樗牛「美的生活を論ず」(1901年)を取り上げる。底本は「日本現代文學全集8 齋藤緑雨・石橋忍月・高山樗牛・内田魯庵集」講談社とある。初出誌と比べた際に文字の異動がある場合があるが、練習用なので青空文庫版を用いる。

高山樗牛については以下を参照のこと

この論文は全部で七章からなるが、まず「一 序言」から。

 古の人曰へらく、人は神と財とに兼ね事(つか)ふること能はず。されば生命の爲に何を食ひ、何を飮み、また身體の爲に何を衣(き)むと思ひ勞(わづら)ふ勿れ。生命は糧(かて)よりも優(まさ)り、身體は衣(ころも)よりも優りたるものならずやと。人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと問はば、吾人答へて曰はむ、糧と衣よりも優りたる生命と身體とに事ふもの是れ也と。

一つ一つ見ていこう。

「曰」は、漢文だと「いわく」と読まれるのがほとんどだが、ほかに訓読みで「いう・のたまう」などがあって、高山は「曰ふ」という動詞で使っている。これの已然形が「曰へ」。また、辞書によれば接尾語の「らく」は「告ぐ」とかに続けて引用文を導くものとも説明される。

意味としては「昔の人が言ったことには…」くらいの意味でよいだろうか。

事には「つかえる」の読みで「奉仕する」という意味がある。また、能はずは、能う(あたう)=できるを「ず」で打ち消したものであるから、「できない」になる。よって、「人は神と財とに兼ね事(つか)ふること能はず」は「人は神と財と両方に奉仕することはできない」という意味になる。昔の人が言ったことには、神と財との両方に仕えることはできない、ということだ。

旧字体が使われている。「爲」=「為」、「飮」=「飲」、「體」=「体」、「勞」=「労」。接続詞「されば(然れば)」は「さあれば」の変化したもので、「そうであれば」「だから」という意味。文末の「勿れ」は「なし」の命令形なので、「…してはいけない」という意味になる。

旧字体が出てきて困ったら辞書を引いて慣れるのが一番なのだが、次のような解決法も試していただきたい。

ここでは「生命の為に何を食べ、何を飲み、あるいは身体の為に何を着ようかと思わずらうことがあってはいけない」と理解すればよい。

打消の助動詞「ず」に疑問の係助詞「や」の付いた「ずや」は、「…ないだろうか」の意味になる。そうするとここでは「生命は食べ物よりも重要で、身体は衣類よりも大切なものではないか」という意味。

なおここまで、『聖書』のマタイによる福音書の6章24節以下に出て来る神とマモン(富)に関する話題のそっくりそのままの引用である。

人は神に仕えるか、現実の世界でお金を蓄えるか、どちらかしかできない。真剣に神に仕え、信仰に生きようと決断する者は、自分は貧しくなるかもしれないと思い煩う可能性が出て来る。けれどイエスは、そのようなものに対して、何を飲もうか、何を食べようかであなた方の心を一杯にしてはいけないという。何を飲むか、食べるかという糧よりも命の方がはるかに大事であり、何を着ようかという衣よりも、体の方がはるかに大事だ、と説く。そんなことを心配しなくても、天におられる父によって、神に仕える者は養われているから。

こう書くと樗牛がキリスト教徒になったみたいだが、そうではない。

「若し」は「もし」。吾人は自称で「わたくし」の意。だから「人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと問はば」は「もし私の説明を聞くのに先立って、美的生活とは何だと聞いてきた人がいたら」となろう。

「吾人答へて曰はむ」の「む」は意志や希望を表す助動詞。であるから、続けて本文の解釈は、「私は答えて言うだろう(お答えしようではないか)」ということ。「糧と衣よりも優りたる生命と身體とに事ふもの是れ也と」。美的生活とは、食料・衣服よりも大切な生命と身体とに奉仕するもの、これである(是れ也)と。

イントロダクションとして「美的生活」って何なのかを簡単に定義したものということになる。

続く。

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