『桜の園』公演

PARCO劇場開場50周年記念シリーズとしてチェーホフの『桜の園』が上演されている。演出監督はショーン・ホームズ氏で以前に『セールスマンの死』の上演で人気を博した方だと言う。舞台にハマり始めて日が浅く寡聞なものでショーン氏のことは存じ上げなかったのだが、演出の意図がいろいろ見える舞台であった。

考えたくなる要素が色々あり満足感は高い。演技によって理解させられた登場人物の心情は多々あったし、この戯曲が示そうとするものをどのように汲み取り表現しているのかという思想面でも興味深かった。派生して戯曲とは演出家や演者の解釈によって展開される意味で翻訳に似ているというようなことも考えた。
まとまりのない文章になるかと思うが、以下にいくつか考えたことを残しておく。

あらすじ

前提知識がなくては具体的な感想を共有しようがない。『桜の園』を観た人ばかりがこの文を読むわけでもないと思われるため、ごく簡単にあらすじを残しておく。

舞台はラネーフスカヤ夫人の邸宅で、子供部屋と呼ばれる部屋。夫人が娘アーニャに連れられて五年ぶりにパリから帰ってくるところから始まる。一家はかつて裕福であったが、金遣いが荒く、いまや借金が重なり利子も払えない状況にある。このままでは自慢の桜の園が銀行に差し押さえられ、競売に出されてしまう。幼少期から一家と関わりのある商人ロパーヒンは桜の園が売られないための方策を夫人やその兄ガーエフに繰り返し説明するのだが、彼らは聞く耳を持たない。

他方で館には多くの人間たちがいて、必ずしも桜の園が失われるかどうかは重要ではない。人々は哲学的な探求に打ち込んだり、うまくいかない恋に悩んだりする。
夫人には幼くして亡くした息子がおり、彼の家庭教師をしていたトロフィーモフは夫人の娘アーニャと意気投合する(本人たちにとってそれは恋を超えたつながりである)。
召使いのドゥニャーシャは管理人のエピホードフに求婚されることを上機嫌に話しながらも、夫人がパリから連れてきた若い男ヤーシャに恋い焦がれる。
ラネーフスカヤ夫人の養女ワーリャはだらしないメイドに代わって家の管理をし、金遣いの荒い夫人たちのせいで資金の運用に悩まされている。彼女は周りからロパーヒンと結婚することを当然視されているのだが、二人とも現実的な問題にかかずらわっており、互いに積極的に仲を進展させることは避け続けている。

他にも何人かいる登場人物たちの物語が進みながら、競売の日がやってくる。あいも変わらず演奏家たちを呼んでパーティーを開いている(本公演ではDJクラブにも似た雰囲気での乱痴気騒ぎであった)。
競売に行ったガーエフの帰りが遅いのを気に病み落ち着かない夫人だが、ようやく戻ってきたガーエフはすぐに引っ込んでしまう。一緒に帰ったロパーヒンが、自分が桜の園を競り落としたのだと高らかに言ってのけるのだった。
桜の園とともに邸宅も手放すことになって一行は家を出ることになる。夫人はいつまでも家を出ようとしないが、ついに家を後にする。桜の園はこれから桜が伐採され別荘地となる。家に残される者は誰もいないはずだったが、昔からこの家に仕えていたフィールスが取り残されており、何事か悪態をつきながら部屋に横になって幕が下りる。

拙い要約だが、以上が全体的な話の流れである。省略したところは必要に応じて追記しながら感想を書くこととする。


ラネーフスカヤ

舞台演出の中でも演技で分からされたと思うのは、ラネーフスカヤが幼稚なほど天真爛漫であるということだ。事前読書の段階でわかるべきところではあると思うのだが、演技での説明力が強い。たとえばロパーヒンから桜の園を守るための方策を聞かされているときには、直前まで楽しそうにおしゃべりをしていたのと裏腹に露骨に興味なさそうな表情をして(早く終わらないかなーこの話)という心の声が漏れそうなほどであった。そして誰かが遊びの提案のようなものをすれば心踊らせ、身振り大きくはしゃぎ回る。その所作は小学校低学年の女の子のようで、見るからに幼稚。

後先考えずお金を振りまくように明らかに未熟なのだけれど、彼女がここの誰よりも決定権を持っていて、ロパーヒンとしてはそれにもどかしさを覚えている。ラネーフスカヤとしてもこのままでは桜の園が売られてしまうことは分かっているのだけれども、そこに伴う苦労などの現実に向き合いたくないから目を背けつづけている。現実的な危機感からのロパーヒンのアドバイスを「いつまでもひとまず」やり過ごす態度は、夏休みの宿題を促されても適当に理由をつけてゲームに逃避する子供のよう。ただし彼女を叱る親はいない。周囲の人は軒並み彼女より立場が下なのだ。

彼女は一番の年長者でありながら誰よりも子供時代に留まっている人でもある。
第一幕だったか、ラネーフスカヤは窓の向こうにママが歩いている姿を誤認していた。自分自身も一応はアーニャの親ではあるのだが、あれほどまでに子供らしい振る舞いをする一方で、そういえばヒトの親らしい姿はあまり見せていない。親になってなお気持ちは子供のままというラネーフスカヤらしさが象徴される場面であった。
公式パンフレットに書いてあったことだが、監督のショーンさんはこの舞台には過去を見ている人と今を見ている人と未来を見ている人とがいる、といった旨を繰り返し言っているらしい。言うまでもなくラネーフスカヤは過去を見ている人で、舞台上の場所が子供部屋と設定されているところにも過去への固執が示されていることに気づく。

劇中でもこの人は過去ばかり見ているな、子供のままだな、と繰り返し感じていたのだけれども、だからこそ彼女にはまともに見れない過去があることが際立ってくる。数年前に息子を事故で亡くしているのだ。もともと気質としては子供っぽい人間であったろうが、親であろうとすると息子の死に直面しなくてはならず、それゆえ決定的に親になりきれなくなったという側面はあるのかもしれない。
ここで際どいのはラネーフスカヤは過去に夢見ていながらも、夢見ることのできる過去とのあいだに直視できない過去がいるということだ。つまり彼女がすがる過去は子供時代に限られてしまうのだが、それは自分の母や境遇から受け取っていた恵みであって、彼女自身の意思によって歩んできた人生の経過ではない。そう思うといつまでも成長しないのも納得だ。母や家長となってなお人生経験の蓄積が始まっていないつもりでいるところに彼女の幼稚さがある(それを天真爛漫と誤解して人々は彼女に好意を寄せるのだろうか)。
邸宅を後にして去る場面での「今までこの壁がどんなだったか、見たことがなかったみたい」という発言は示唆的だ。散々子供時代にこだわっておきながら、まともに過去を見ていない。現実から過去へと逃避しているくせに、過去からも逃避しているのがラネーフスカヤと言うことができるのかもしれない。

しかし、いつまでも子供のつもりでいるということには、ある意味で共感できる。高校生の頃の自分から見れば今の自分ははるかに年上で、当時から見れば、様々に世の中の仕組みを理解していて、会社勤めをして家族をもって人生も既定路線に乗りつつあるような大人……だったはずの年齢になっている。しかしいざそうなってしまえば、世の中のことは全然わかんないし向こう十年で自分の生活環境がどうなっているのか見当もつかないし、会社が勝手に税金を払ってるからよほど意識しないと社会的な責任みたいなものは実感できなくて、気持ちとしては被扶養者のままなところも大きい。先日50歳になった有名人が10代の頃から根っこは変わっていないと言っていたニュースも以前よりわかる気がしてしまう。そういうわけで、何かの条件が揃えば自分もラネーフスカヤのようになっていたかもわからないと、少しばかり思う。そういえば彼女の兄ガーエフもまた子供時代の輝かしい記憶に耽溺していて、桜の園の問題をそっちのけにビリヤードに熱中する。彼もまたいつまでも子供のままの大人だ。
大人になればなるほど人はいつまでも自分が自分のままであることを痛感するのかもしれない。パンフレットで役者たちのコメントを見ても昔はわからなかった味わいを今は感じるといったことが何度か言われていて、その原因の一端はそのようなところにあるのかもしれない。


ロパーヒン

彼もまた主要人物であり、演出の影響もあっただろうが、もう一人の主役といった勢いであった。彼は父も祖父も百姓であることに度々言及する。『桜の園』が公演される40年ほど前に農奴解放令が出されたという歴史的背景から、ロパーヒンはラネーフスカヤの家系を主人とする農奴の家系であったとする筋もある。実状はさておき、ロパーヒンは百姓の身分から財を築き上げて商人として成り上がっている。幼い頃によくしてくれたラネーフスカヤ夫人に親しみを覚え、桜の園の土地が手元に残るようにとアイディアを出すのだが、最終的に自分自身で土地を購入するに至る。競売の結果を高らかに自慢する姿はもはや夫人のために尽くす奉公者ではなく、主人であった人間の土地を奪い取って立場を逆転させた勝利者のように見える。

当初は「彼はいつ心境が変わったのだろうか」と疑問だったのだが、「そもそも彼の心境はどこかで大幅に変わっていたのだろうか」と問う方が利口であるかもしれないと思うようになった。
ラネーフスカヤへの愛情を抱く一方で無下に扱われ続ける劣等感も常にあったのかもしれない。人は矛盾する感情を平然と持ち合わせるもので、桜の園を競り落とした後のロパーヒンの思いは複雑な感情が相まって感極まっていたのだろうと、今は思う。父も祖父も社会的な地位の低い人間で、その彼らにさえ手酷く扱われていた最底辺から、父たちの主人であった人を突き落とす側に回ったという大出世に感動しているのは違いない。一方で、夫人への親密感もいまだ健在であればこそ「ざまみろ」と思ってすっきりすることもできない。なにせ最底辺にいた頃に優しく接してくれたのがラネーフスカヤなのだ。だから桜の園の買収は夫人への裏切りに他ならない。けれども桜の園を失わないように何度も何度も話をしたのに聞く耳を持たなかった夫人の自業自得であるのも明らかで、一度たりとも親切を受け取ろうとしなかった夫人に対する苛立ちがせいせいしている側面も、きっとある。要するに、自分の成し遂げた偉業への陶酔とともに、夫人を成敗してやったという気持ちと罪悪感とが混在しているのではなかろうか。

ところで、夫人が彼の言うことを聞いていれば、桜の園はロパーヒンの所有物にはなっていなかったはずだ。彼の提案は桜の木を伐採して別荘地として転用すれば収益になるというもので、土地の所有者は夫人のままである。ロパーヒンは土地の買収に喜びながらも、最初から買収を願ってなどいなかった。最後に「どうして聞いてくれなかったんですか。あんなに何度も言ったじゃないですか」と泣きつくように夫人に訴えるのは、ロパーヒンとしては買収という成り上がりよりもよっぽど、夫人が自分の案を採用する未来を願っていたということだろうか。
実は観劇の際にロパーヒンの心情についても個人的にはピンと来ていなかったのだが、公式パンフレットで彼は孤独な人であるというコメントを見て、かなり見方が変わった。というか後から納得した。たしかに彼は自分の主張を通せるほどの金を手に入れて、事実桜の園を我が物にしたのだが、本当に願っていたのは誰かとの心理的なつながりであるとすれば、彼が桜の園をめぐって最後まで夫人に拒絶されていた事実が重く立ち現れる。さらにはラネーフスカヤの養女であるワーリャとの縁談も実らないままに流れている。彼の力で通せる要望は金によって通せるものでしかなく、それはロパーヒンの心からの願いに応えてはくれない。人生大逆転をした直後に自分の歩みが自分の孤独を癒すには向いていなかったことが暗示されているのである。あまりに手厳しい。
観劇をした当日は、ロパーヒンだけが最初から正しいかのようだし、一人だけ成功を手にしているように見えてしまうことが気にかかっていた。別にそういう人物がいてもいいのだが、彼は見た目ほど幸福ではないはずだと思っていた。ついでに言えば、美しい景色である桜の園を平然と更地にする戦略をとる人間が大成功をおさめるとしたら、皮肉というよりは現実に対する深い悲観に思われたのもある。だが、金を手にし成功した人間が、まさに金の力によって、金では手に入らないものを願うべくもなくなっている状況に気づくと、強烈な皮肉と理解できる。

ラネーフスカヤが過去ばかり見る人なのに対して、ロパーヒンは未来を見据えている。しかし彼の見ている未来には彼自身の幸福が計算されているのだろうか。桜を伐採して別荘地を立てれば収益を得られるという計算のもとで買収に至っているが、それで達成されるのは富の再生産にすぎない。夫人の承認を得ることが金ではどうにもならなかったと証明されてしまった今、彼の思い描くビジョンは彼自身にとって輝かしいものなのだろうか。大成功の喜びにも暗雲が立ち込めていたことに後から気づかされる。
そう思って競売から帰ってきたときを振り返ってみると、わからないなりにも山場であるあの場面で、演技に違和感を覚えなかった。ぼんやりとした記憶は残っているが、ロパーヒン役の八嶋智人さんが下手に大喜びをしておらず複雑な機微を表現していたのかもしれない(そう思うともう一度観てみたくなる)。


舞台演出と翻訳

当初の全体的な感想は、感情よりも思想を表現している舞台だなというものだった。
大学生の演説は長めかつややこしくなく主張していたし、戯曲ではちょいと出てくる程度の浮浪者乱入のシーンもたっぷり尺をとって、それが怖い経験であることをよくよく理解させていた。また第三幕冒頭のパーティーのシーンは見るからに愚かで、夫人たちの向こう見ずさを強調しすぎるほど強調している。
……というように理解した。他にも演出意図があるような気がしているのでなんとも言い難いのだけれど、少なくとも彼らがどのような人間で、これが何を描こうとしている舞台で、それぞれどのような場面であるかを説明する演出であると感じる場面が多々あった。そのため、本舞台においては何か主張のようなものがあるという印象を強く受けたのだった。けれども時間をかけて振り返ってみれば当初思っていた以上に感情が豊かに表現されていたのは上で見た通りだ。

そのうえで、やはり思想は明確にあっただろうなというのをちょっと考えてみたい。まずもってそれぞれが過去現在未来のどれかへの視点を強く持っているという理解を示しているのは繰り返す通りだが、これは言ってみれば解釈だ。
大学生トロフィーモフの演説パートも(正直あんまり覚えていないのだけれども)人間には物事を変える能力があるにもかかわらず発揮しないで現状に甘んじるというのはいかがなものかという主張であったと思う。彼は未来を見る人だが、どちらかというと極端なほど未来ばかり見据えている人である。何かを変えるためには現状から何かをしなくてはいけないと(たしか彼自身が)言っていたのだが、まさしく彼がいつまでも大学生を続けていて社会を変えていくための実効的な運動をしていない人間であったりもする。ラネーフスカヤもまた桜の園を失う未来を変えるために何一つ有効な手立てを打とうとしない。
トロフィーモフは大きな話をするあまりに目の前をおろそかにし、夫人はいずれなんとかなるだろうと呆れるほどの楽観視のもとで目の前をおろそかにする。その中で実際に動いていたロパーヒンが主張を通した。しかしそれが必ずしもいい結末であったわけではない。そのいずれに対しても目を光らせている筋立てはチェーホフの手腕であろう。

未来を変えることを願い、実際に動かなくては現実は変わらないが、新しい現在はかつて願った未来とは異なるもどかしさが描かれている。だが、それはおそらく『桜の園』の一面だ。他の読み方にどのようなものがあるのかを出せないから一面に過ぎないというのは弱い主張になってしまうが、ある読解を強調するような演出では、別の解釈の可能性を妨げていることにもなる。だが、それは舞台の面白さと裏表ではないかというのが最後のトピックだ。

事態は翻訳における問題と重なる。たとえば英語の小説を訳すときに一人称を何にするのかは訳者にとって大きな課題だ。英語では"I"の一種類で済まされるところに発話者の人柄はあらわれない。しかし「俺」と「僕」と「私」とでは全然印象が変わってくるし「ボク」などの表記方法の変更も可能である。そのうちのどれを採用するのかは訳者が小説をどのように解釈するかにかかる。
翻訳家は裏切り者とはよく言われることのようで、引っ張り出してきた本に詩の翻訳をめぐる面白い話があった。全ての行が"Earth of 〜"で始まるホイットマンの詩について、訳者の飯野知幸氏は以下のように述べている。

ある面で単調な印象もありますが、この単調さが強い勢いとリズムを出していくのです。でも、これを文法構造のまったく違う日本語に移すとなると、日本語ではofのあとに来る部分がまず来て、Earthの訳語が最後になるので、原詩のせっかくの繰り返しがすべて失われてしまいます。「翻訳家は裏切り者」という有名な言葉がありますね。映画の題名ではないですが、どうせいろいろなものが翻訳する間に失われてしまうとしたら、少なくとも雰囲気だけでも残したいと思い、「大地よ」という呼びかけの形に勝手に変えて、すべての行が英語と同じように「大地」で始まるようにしてみました。

沼野 充義『世界は文学でできている~対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義~』  (p.239). Kindle 版.

詩であれば余計に、原文の持つ雰囲気をそのまま翻訳先に輸入することは難しくなります。愚直に「〜の大地」と訳しても、その繰り返しによって "Earth of 〜" のリズムを再現できているとは限らない。むしろそのニュアンスを大事にしようとするために、あえて「大地よ」と呼びかけの形にしたという。
引用箇所は翻訳によっていろいろなものが失われてしまうのならばせめて……、と吹っ切れたような控えめなような雰囲気ではあるのだが、翻訳には積極的な意味合いもある。一言で言えば翻訳によって失われるものはあるが、新たに生まれたニュアンスは作品を生まれ変わらせることでもあるということだ。

対談相手の沼野充義氏は少し先で、村上春樹訳の『カラマーゾフの兄弟』を読んでみたいとも述べている。彼の小説の登場人物のような口調で喋るカラマーゾフの兄弟たちが立ち現れてきたらきっと面白いだろうと、半ば冗談で言っているのだが、翻訳が新たな意味をもたらす例としてはイメージがつきやすい。
もちろん翻訳による変更に賛否両論はつきまとうものではあるのだが、そのプロセスによって生まれる新たな意味を楽しむという観点があることは強調してもいいだろう。

翻訳をめぐる議論を経由して述べておきたいのは、戯曲とはまさに翻訳の妙を楽しむことにかなり寛容なのではないかと考えるからだ。
戯曲をテクストとして見てみれば、具体的な描写は小説などに比べてかなり少ない。登場人物の心情を書き記す地の文はないし、情景の描写もそれほど充実してはいない。
それから、個人的に面白いと思うのは舞台は同時性を表現できるというところだ。

たとえば小説において登場人物Aが発言している間、その場に居合わせている他の人々がどのようであるのかは表現できない。もちろん後から「彼が話すのを聞きながら私は……」と言えたりもするのだが、セリフの真っ最中に読者に示すことはできないため、たとえ説明されたとしても遅延がある。そして「その場起きていた他のこと」は滅多に記述されない。それはテクスト全般の弱点ではあるのだが、戯曲はそうした細々とした具体的な説明を切り捨てている潔さがあり、しかも演じられることを前提としているため、詳細は演出家や役者にはじめから委ねている、と言えるかもしれない。
役者の身振り手振りや表情などの演技に対して、テクストで指示される内容ははるかに乏しいため、演出家による翻訳が避けようのないものである。だからこそ戯曲は演じられるたびに変わることになるのであり、変わること自体が楽しみの一つとなるのかもしれない……

今回の演出では、ところどころ思い切った演出上の変更があった。
それはいわば"Earth of〜" という詩の一節を「大地よ、〜」という呼びかけに飛躍させるようなものであったのだろうと思う。オリジナルや自分の読みとの違いがあればこそ、かくも考えが進むのであり、こういうのは個人的にかなり楽しい。いい舞台だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?