舞台『ダブル』の配信を観ました

表題の通り舞台『ダブル』の配信を観ました。もう配信期間が過ぎているので、見れなくなってから感想を出すのもどうかとも思うのですが、感想をまとめるのは紹介のためというよりは自分のためなので出すことにしました。

原作は野田彩子さんの同名漫画で、まさに舞台をテーマにした漫画が舞台化されたというかたちになります。テーマというだけで、もちろん作品そのものが演劇になっているわけではありません。それを今回は演劇という形式でやっていますので、脚本もまた演劇用に変更されていました。演劇では一箇所の舞台(文字通りに演技する場所)で演じられますので、テレビドラマのように撮影場所を変えての場面転換などが一切できないという縛りがあります。そのため原作を愚直に再現することを目指すには不向きで、原作で展開される出来事は主人公の宝田多家良の家で登場人物たちの語りや芝居(劇中劇)などを通して再現されていました。

自分が今回の舞台を見るに至ったのは、僕を知る人はお察しの通り、最近になって舞台の熱に当てられてしまい(以前の記事を参照)、舞台をテーマとした話題作の舞台化という時点で俄然興味が湧いたからです。
野田彩子さんは別作品『潜熱』を読んでいて信頼度が高かったのもあり、舞台を見ることをまず決めて、そのために初めて原作を読んだという状況でした。なので、原作愛を育むほどの時間は確保できておらず、どの場面が割愛されているのかもそこまで把握できていません。そういうわけで直接的には原作通りではない脚本で一本通していたことにそれほど違和感を覚えなかったのかもしれません。言い換えれば、原作への理解が浅かったおかげでノイズなしに純粋に演技を楽しめたのかもしれないということです。とはいえそこまで弱気でもなくて、個人的にはこの形式には多少なりとも積極的な意味を感じています。
端的に言えば舞台そのものについての思想の上に出来上がっているような印象を受けています。つまりこの作品をわざわざ舞台化することの意義などについて、何らか考えがあってこのようになっているのではないか、ということです。以下で遠回りをしつつ、その辺の話をしていきます。


『ダブル』は演劇だけではなく芸能界なんかも出てくるわけですが、メインのふたり(宝田多家良と鴨島友仁)のベースは舞台であり、他の登場人物たちも大なり小なり舞台に馴染んでいます。漫画を一読した限りで一番心に残っているのは(今回の公演ではふれられていませんでしたが)黒津監督が宝田多家良をCM起用したときのオーダーです。黒津監督は「宝田多家良として街を歩いてほしい」と自分自身を演じることを要求しました。そのCMを機に全国に名を知られるようになったわけですが、このオーダーは妙に考えさせられます。

自分で自分を演じるというのは、自分でいることとどう違うのか。あるいは、ひょっとしたら自分自身でいることとは自分を演じることに他ならないのではないか。

殊更に身構えなくても自分は自分以外の何者でもないわけですが、あえて意識して自分らしくいようとするならば、そこには解釈が挟まると言えそうです。たとえばティッシュを買うにしても、薬局で買うのかコンビニで何かのついでに買うのか、安物で済ますのか肌が敏感だから良質なものを選ぶのか、汚れを拭き取るのにも使いたいから安物を買いたいのか、人によって様々です。休日に車でスーパーに行って他のものと一緒にティッシュを買って大荷物を運ぶのが習慣づいている人が、コンビニで自分らしく振る舞おうというときに「あ、そういえばティッシュが切れていたから買っておこう」とするのは、言ってみれば解釈違いです。が、普段の生活で自分を演じるなり意識的に自分らしく振る舞うなどということはありません。単に休日に車で出かけてティッシュを買いにいくのであり、コンビニではティッシュのことを気にも留めず、何かの必要があってコンビニでティッシュを買うときは「わざわざ」コンビニで買うことになる、という程度の話でもあります。

しかしここにはいくつか面白い論点があります。まず、普段の何気ない行為には図らずも自分らしさが反映されているということです。仮に自分が演じられるとなれば、役者は解釈によって自分に接近することになります。それはおそらく自分自身が役者であっても事情は同じで、演技のために改めて自分を解釈することになるのだろうと思います。しかし、自分自身を演じるという特殊な条件下でなくても、人生の中で自分を解釈することはあります。特に重要な決定をするときに「自分ならどうする?」「自分はどうしたい?」と自問自答しながら決断するのであり、自分の思想や感情や経験を深掘りするのはさながら解釈でしょう。そしてそれはティッシュを買うような習慣にしたがって無意識に過ごしている(いわば流しで生活している)場面ではなく、何か重要なことがらを意識しているとき、(明確に言語化せずとも)何かを考えているときであったりします。自分と向き合ってきた時間の積み重ねによって人格が形作られていく側面があることは紛れもない事実でしょう。であるとすれば、自分らしく生きること、自分を尊重し自分を決定づけながら選択・行為することは、あたかも自分自身を解釈し演じるかのようです。

自分自身を演じるということが自分自身を決定づけていくような実存的な姿勢を意味していると一旦考えてみると、いくつかの疑問を引き出せます。たとえば「演じる」に変換する必要がどこにあるのか。また、自分自身への解釈によって自分を形づくるという人間像はどの程度アリなのか。ひとまず出してみたこれら二つの問いはつながるような気がしています。後者から見ていきます。
個人的には実存主義的な人間像は気に食わないところがあります。自分を自分でデザインするという発想を前提としているけれども、自分にとって重要な要素というのは偶発的なものであることも多々あります。また、自分の望んだ通りの自分になることは自分の望みなのだろうかというのも微妙で、憧れの職業についたはいいが「こんなつもりじゃなかったのに」と思うことなどは想像に難くありません。未来の目的のために今の時間が手段に成り下がっている感じもいただけないのですが、他方で目標実現のために努力するときの活力はなるほど自分らしく生きている感じを抱かせます。してみると夢は夢であるうちが華と言いますか、夢を追いかけて自分を作り上げていく過程こそが最も熱量が高いようです。ここで、もし自分自身を演じることが自分を作り上げていくことであり、しかもその演技に不思議な魅力があるとするならば、演技のもつ不思議な魅力はまさにこの熱量を意味しているのではないか、と思いつきます。夢を追うときの熱量が実際にそれらが実現するか否かとはそれほど関係ないならば、目標や夢などから切り離してその熱量が成立してもいいはずです。自分自身を演じるというように敢えて演技を間に噛ませるからこそ、生き生きした人間らしい熱を生み出せるのではないか、それこそが演技のもつ熱なのではないかと想像が膨らみます。先に挙げておいた「演じる」に変換する必要がどこにあるのか、という一つ目の疑問と結びつくのはここにおいてです。

しかし、演じるとは一体なんなのでしょうか。何がそんなに特別なのでしょう。実存的な姿勢と重なるのではないかというアイデアも自分自身を演じるという特殊な状況だったからかもしれません。演じることそのものについて、ほんの少しだけ考えてみます。
演技とは言ってしまえば誰かのふりをすることではありますが、それは単に現実の模倣であるわけではありません。舞台があり観客がいて観客に見られています。現実の再現としてはあまりに異質ですし、不完全です。たとえば淀みなく喋るのも、誰かと発話がかぶらないのも現実的ではありません。では単純な模倣でないならば、現実世界における真実めいたものを強調しているとみることはどうでしょうか。実際には滅多にいない極端にケチな人物を出すことによって、ケチであるという人間心理が抱えている不安を拡大して見やすくしているのである、というような考え方です。これはいくらかありえる話です。しかし、だとすれば演技の凄みに圧倒されるという経験は一体なんなのでしょう? 現実のなかの真実を詳らかにすることが演劇の面白みであるならば、演技は現実を模倣する技量によってしか巧拙が判断されないことになりそうです。しかし数少ない観劇経験からしても、演じるということそのものに圧倒的な魅力があるように思えてなりません。演じることは現実を模倣すること以上の何かであり、演技を挟むことで加わる何かがあると感じます。
それが何なのかと聞かれると難しく自分の手に負えないのですが、そのような実感があればこそ、自分自身を演じるということについても演技に潜む何事かの力に身を賭けているということとも理解したくなります。

ところで、自分自身を演じることが自分を形作るというアイデアは面白い矛盾です。今後どのように行動するのかを想像しているときに解釈されている(演じられるべき)自分はまだ存在していません。言わば架空のキャラクターが自分自身の本物として振る舞い、自分自身になっていくことになります。
想像力にまかせて一気に話を進めますが、自分が架空の自分を演じて実際の自分になっていくのだとしたら、「実際の自分」なるものもフィクションということになります。本物ではないものに依拠して本物が作られるのだとしたら、自分の生成は空転しています。この飛躍した議論を疑うことは当然できるのですが、馬鹿正直にこのモデルを受け入れてみることは新たな視座を与えてくれるように思います。つまり、オリジナルや本物というやつがあって、それを模倣したのが演劇であるというのではなく、フィクションこそが現実を作る力を体現しているのが演劇であるという着想が得られます。ここまでくると自分としては妙な納得感があります。事実だけが真実なのではなく、フィクションもまた真実であり事実になっていく。

このように想像力に委ねて好き放題述べてみると、今回の演劇の脚本が原作の再現ではないことの面白みを感じます。
原作をオリジナルとしてなるべく史実通りに再現するのを正義とするのではなく、十分な解釈を経て原作を再生することは、まさに演技が現実の単なる模倣を超えて再生産することに似ています。再生産されたオリジナルが新たにオリジナルになっていき、その過程で存在する一時的なオリジナルこそがつかの間の本物となっていく、というのが演技の凄みであると思えばこそ、原作の実写化に止まらない脚本から演劇に対する思想を感じ取ったのでした。



漫画は最初の方なら無料で読めます。面白いので気になった方は是非。

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